朝起きて眼前に他人の顔があったら、誰でも飛び起きてしまうと思う。例に漏れず私もその一人で、気持ち良いまどろみの中重たい瞼を上げたら目の前に晃牙くんの顔があって、思わずその場から飛び退いてしまった。どうやら真後ろに壁があったらしく、鈍い音を立てて頭と壁が衝突する。目覚めの一発には少々厳しすぎるその痛みにうっすらと涙を浮かべていると「随分激しいお目覚めだね」と呆れた声が頭上から降ってきた。そこには首にタオルをかけてこちらを眺めている羽風先輩がいて、状況が飲み込めない私はただただ目をぱちくりと瞬かせる。
「おはようございます……?」
「うん、おはよ」
よくよく見ればここはレッスン室。鏡張りの壁には間の抜けた顔をして呆然としている自分自身が目に入った。まるで毛布のようにだらりと肩から垂れている青色のジャージは私のものよりも随分と大きい。起き抜けの霞がかった頭ではイマイチ思考が回らない。昨日は何をしていたんだっけ。なんで私はここにいるんだっけ。腰元が引っ張られる感覚に下を向けば、晃牙くんがしかりと私の服の裾をつかんでううん、と一度唸った。そういえば、昨日はUNDEADの練習に参加していたんだった。
「立派な番犬だよね」
「ばんけん……?」
羽風先輩はしゃがみこんで晃牙くんの頭を軽く突く。晃牙くんは彼の手から逃れるように私の方へと寝返りを打つと、こつん、と額と私の膝小僧をくっつけた。彼の背中の向こうを見れば、なぜか私を中心に半円状に白いマスキングテープが貼られている。こんなものいつからあったんだろう。私の視線をたどるように羽風先輩もそれを見て、忌々しそうに爪先でテープの端を突く。
「なんですか、これ」
「結界じゃない?」
「けっかい……?」
やはり頭がよく働いていないようで、彼の言葉を繰り返し口にするも、イマイチピンとこない。緩く首をかしげる私に向かって「さて」と羽風先輩が場を仕切り直すように声をあげた。その声に惹かれるように顔をあげれば彼は厳しい顔でこちらを見つめていた。
「俺は君に説教をしなきゃいけないんだけど」
「せっきょ……?」
「うん、説教」
そう言った瞬間に唸るように晃牙くんが声をあげて、頭を揺らす。鈍い音を立ててぶつかる膝小僧と彼の額。起きたのではないかと彼を覗き見ると、晃牙くんは言葉にならない音を口の端からこぼしながら、それでも安らかな顔で安眠を続けていた。
羽風先輩も彼の顔を覗き込んで「寝てる」とつぶやいた。「寝てますね」と私が返せば羽風先輩は困ったように笑って彼の後頭部をつついた。そんなヤワな衝撃で彼が起きるはずもなく、こちん、と軽く私の膝小僧にまた額をくっつけて、すやすやと寝息を立てた。
「……ええっと、お説教」
ようやく明瞭になってきた頭に、彼の困ったような笑顔がはっきりと映った。そして、彼が何を言わんとしているのかがだんだん理解できてきた。時計を見れば午前8時。健康的な朝の時間だ。昨日はUNDEADの練習に参加していた。そしてここはレッスン室。見れば部屋の隅に転がるように寝ているアドニスくんの姿も見える。朔間先輩がいないのはきっと棺桶にこもっているからだろう。
震える声で「私、寝てました?」と問えば羽風先輩は神妙に頷いた。
「昨日は練習してたんですよね……?」
「してたよ」
羽風先輩が笑顔を向ける。彼の笑顔なんて見慣れていたはずなのに寒々しい温度を抱いたそれは私の良心を容赦なく突き刺していく。「言いたいことわかるよね」と彼が笑う。思わず目線をそらすと「こら」と彼が首にかけていたタオルでぺちりと私の頭を叩いた。
「ちゃんと先輩の言うことは聞くものだよ」
「すいません……」
「あのね、男所帯にいること君はもう少し理解したほうがいいよ」
返す言葉もなくただただ身を縮める。ようやく思い出した。昨日はUNDEADの練習に付き合っていたのだ。夜も吹けるにつれボルテージが上がっていく朔間先輩と、その先輩の後ろ姿を嬉しそうに追いかける晃牙くん。アドニスくんも皆が楽しいなら俺も楽しいと嬉しそうに身体を動かして羽風先輩も口では文句を垂れ流しながらも満更でもない表情で練習を続けていた。そう、そんな熱の中にいたにもかかわらず疲れや睡眠不足がたたって、私は半分船を漕いでいたのだ。練習時間を超過していて、深夜届けを出しに行ったことまではうっすらと覚えている。しかしその後の記憶が覚束ない。
肩を落としもう一度謝罪の言葉を口にすると、先輩は深々とため息をついて「次は襲うからね」と末恐ろしい言葉を吐いて立ち上がった。「襲われるのはちょっと」と私が言葉をこぼすと先輩はもう一度タオルをしならせて私の頭をぺちりと叩いた。
「タオルは卑怯じゃないでしょうか」
「しょうがないでしょ、晃牙くんがここから入るなって言うんだから」
「ここから?」
そう、ここ。羽風先輩が床に貼られてあるマスキングテープを足でなぞった。「すけこましやろうはここから入るなって」彼はまたしゃがみこみふて腐れたように床に貼られたテープの端を爪先で弾く。そうか、結界ってそういう意味だったのか。
相変わらず膝小僧に額をくっつけて眠る彼を見下ろせば、晃牙くんはううんとまた唸り、私のジャージの裾を深く握りこむ。起きてたら到底できないけれど、手を伸ばして彼の銀髪をなでれば、晃牙くんはくすぐったそうに言葉を転がして、また寝息を立て始めた。
しばらく晃牙くんの寝顔を二人で見守って、飽きてしまったのか「男の寝顔とかなんの得にもならない」と吐き捨てて羽風先輩は立ち上がった。部屋の隅に置いてある鞄から自身の財布を取り出すと、「朝ごはん何が食べたい?」と尋ねてきた。慌てて立ち上がろうにも晃牙くんがしかりと服をつかんで離してくれない。おまけにうんうん唸る彼は額だけではなく、足を折り体を小さく縮めると私の足の輪郭に沿うようにぴたり、と巻きついていたのだ。
羽風先輩はマスキングテープの外からそれをじいと見つめて「役得だなあ」と呟く。そしてタオルで彼の腰辺りをぺちりと叩くと、ため息を吐いて大きく伸びをした。
「俺も転校生ちゃんと同じ学年だったらなあ」
「同じ学年だからってわけじゃないと思いますがこれは……」
「そうなのかな?まあいいや、朝ごはん買ってくるよ」
「あ、私が行きますから先輩は」
「その状況じゃ動けないでしょ、いいから任せときなって、パンとお米どっちがいい?」
晃牙くんの体温が素足に伝わる。守るように擦り寄るように寝息を立てる彼の頭を撫でながら「パンで」と答えると羽風先輩はウィンク一つ飛ばして「了解」と言い置きその場から去ってしまった。
半円の中に残されたのは私と晃牙くんだけ。遠くに見えるアドニスくんは先ほどからぴくりとも動かない。熟睡しているのだろうか。晃牙くんに目線をそらせば彼の無防備すぎる寝顔が見えて、おもわず笑ってしまった。
「ありがとうね、晃牙くん」
ひとりごちた言葉に応答するように、彼はまた唸りをあげてごつん、と膝小僧に額をぶつけた。