すうすう、と寝息が聞こえた。寝るとは程遠い防音室で、すうすうと、とても穏やかな寝息が。
先ほどまで練習に明け暮れていたUNDEADの面々は10分休憩、と各々好きなところへと散っていってしまった。羽風先輩と晃牙くんは飲み物を買いに外へ、朔間先輩はお手洗いに、そしてアドニスくんは私の後ろで先ほど練習していた譜面を追っているはずだった。
うつらうつらはしているとは思っていた。座りながらこくりこくりと頭を揺らしていたので「寝転んで休んでいいと思うよ」と声をかければ、アドニスくんはゆったりとこちらをみて素直に頷くと、そのままこてん、と床に身を投げ出した。そして数分たった今、すやすやと彼は夢の中にいる。
「ただいまー」
起こした方がいいのかな、とアドニスくんに注意を向けたそのとき、防音室の扉が開いた。飲み物を片手に羽風先輩と晃牙くんが帰ってきたのだ。声を上げる羽風先輩に人差し指を立てて「しい」と息を吐きだせば、晃牙くんと羽風先輩が怪訝そうに顔を見合わせた。そして忍び足でそろりそろりとこちらへ寄ると、理解したように二人揃って大きく顔を頷かせる。
「アドニスくん寝ちゃったかー」
「しょうがねえ奴」
そして晃牙くんはペットボトルのキャップを外して水を飲むと、そのままアドニスくんの隣に座り、頬をつつく。先ほどまで安らかな寝顔を浮かべていた彼が、鬱陶しそうに眉を寄せた。しかし、起きない。「寝かしてやりなって」との羽風先輩の諌めに晃牙くんは指を離して「ふうん」と一言。ペットボトルのキャップをしかりと閉めると、そのまま彼も床に転がった。
「あー、つめてえ」
「晃牙くん声大きいよ」
「うっせえよ、起きねえからいいじゃねえかよ」
晃牙くんは転がりうつ伏せになってじろりと私を睨む。確かに起きる気配はないけれど、騒がしくするのは良くないんじゃないだろうか。眉の間の皺が緩んだ彼は、また規則正しい寝息を立てている。相当疲れていたのだろう。素人目から見ても、今日の練習はハードそうだったし。
寝る前までは握り締められていた譜面も、どうやら手の力が弱まっていたらしく、晃牙くんが引っ張ればするりと抜けてしまった。晃牙くんは自分の眼前にそれを置いて、鼻歌でメロディを追う。とても細やかな音量は、隣に寝ている彼を配慮してのものだろうか。言ったら怒られそうだから、言わないけれど晃牙くんの小さな優しさがおかしくて、私は小さく笑いをこぼす。
「ねえねえそこまで綺麗じゃないと思うけど?この床」
羽風先輩はそう言いながら私の隣に腰を下ろした。間髪なく飛んでくる「テメエも座ってんじゃねえかよ」の吠え声など聞こえないふりをして先輩は小包装のチョコレートを手渡してきた。
「あげるよ、君もお疲れでしょ?」
「いえ、私は見ているだけなので」
「いらねえならくれよ」
「男にあげるお菓子は持ってないんだけど」
「我輩も欲しいのう」
「ぎゃあ!」
ぬっと影が落ちてきたかと思えば、ユニットの主が楽しそうににたにたと私たちを見下ろしていた。羽風先輩や晃牙くんはどうやら慣れているようで、呆れたように朔間先輩を見ている。
いやちがう。ぎゃあ、なんておおよそ女の子らしくない大声を上げてしまった私を、晃牙くんは幻滅したように顔を歪めてじっとこちらを見つめていた。
「テメエが一番声、でけえよ」
「ご、ごめん」
「おやおや、アドニスくんはおねむかえ?」
「そそ、寝ちゃったみたいだねえ」
じいと朔間先輩はアドニスくんを見つめて、そしてその隣で転がっている晃牙くんを見つめ、そして私の方へと目線を向けた。何かを思いついたのだろう。隠すことなくニンマリと笑みを浮かべた先輩はしゃがみこんで、内緒話をするように小さく言葉を放つ。
「嬢ちゃんや、寝転んでごらん」
「え?こうですか?」
言われた通り床に転がれば、ひんやりと冷たい温度が制服越しに伝わる。練習の最中の晃牙くん達ならいざ知らず、運動をしていない私には多少酷な温度だ。しかし朔間先輩はにこにことその様をご機嫌に見つめている。
羽風先輩が朔間先輩を見上げて「なに企んでんの?」と口にすれば、朔間先輩はちょいちょいと手招きをして羽風先輩を誘った。誘われるがまま先輩は立ち上がり、朔間先輩の隣に立つ。
「ほれ、川の字」
「しょうもな!ていうかアドニスくんが大きいから『川』というより『小』じゃん」
「確かにな……」
「あ、じゃあ俺が隣に寝れば川の字になるんじゃない?」
閃いたようにそう言うや否や、羽風先輩は嬉しそうに私の隣に転がった。「汚えつってただろ」との晃牙くんの声がするが、羽風先輩はどこ吹く風。私よりもすこしだけ上に寝転がると、嬉しそうに微笑んで「なんだかドキドキするね?」と悪戯っぽく笑う。返事に困って曖昧に笑うと、頭上で「良い感じじゃよー」と上機嫌な朔間先輩の声がした。
「我輩も寝転びたくなってきた」
「おいそろそろ休憩も終わりだろ、アドニス起こすぞ」
「えーたまにはいいじゃん、もうちょっとさあ、ね?そう思うよね?」
「私練習してる羽風先輩が好きです」
「本当に?じゃあ練習再開しよっか」
「我輩まだ寝てないんじゃけども」
そうふてくされた声をあげた朔間先輩が羽風先輩の隣に転がる。そして晃牙くんのようにうつぶせになって上半身だけ起こして、寝転がる面々を見つめて、嬉しそうに顔をほころばせた。
「嬢ちゃん」
「なんですか?」
「我輩そっちにいた時から思ってたんじゃけどな」
「はい」
「スカートで寝転ぶと下着が」
「うっわ!!!」
慌てて起き上がれば羽風先輩の「無粋ー」との不機嫌そうな声が聞こえる。スカートを抑えて先輩を睨めば「見えてないけどギリギリのラインだったし、あれはあれでいいと思うよ」なんて飄々とした返事が返ってくる。知ってたなら教えてくださいよ!と声を上げる前にアドニスくんの向こうから丸められたジャージの上着が飛び、見事に羽風先輩の顔に着地する。「テメエ言ってやれよ!」となぜか顔を赤らめて大声を上げる晃牙くんに、発端の朔間先輩がけらけらと笑い声をあげた。
散々騒いだせいか「ううん」と先ほどまで寝息を立てていたアドニスくんが眉を寄せて、声を上げる。そして重たい瞼を何度か瞬かせて、のっそりと上半身を起こした。先ほどまで賑やかだった空気が、しん、と静まりかえる。凍った空気の中で、アドニスくんは座り込む私に視線を合わせた。
「ごめん起こしちゃった……?」
彼は返事をしない。何度か目を瞬かせて、私の足元に目をやり、もごもごと口を動かす。そのまま太ももに手のひらを乗せて、まるで感触を確かめるように何度も押さえつけて、そして頭をあげた。視線がバチリとあう。まだ眠気眼の彼は何度も太ももを押しながら、口を開いた。
「……にく」
「……は?」
まるで糸が切れたようにそのままアドニスくんは覆いかぶさるように私の方へと倒れてきた。肩に着地した彼の頭はそのまま体の線をなぞるように胸から腹へ。そして太ももへ無事到着するとまたすうすうと寝息を立て始めた。
「肉」
ぼそり、と晃牙くんが呟く。不躾な視線が太ももに集まり、そして私の顔を見て「レオンの散歩、一緒にいくか?」とまるで労わるような声音で言われてしまった。
「……細くなるまで、お願いしようかな」
晃牙くんの小さな優しさは、時に刃にもなり得ると、すやすやとまた寝息を立て始めたアドニスくんを見ながら、つくづくそう思った。