お皿は後で二人で洗おうね、と羽風先輩は笑った。食べる前から食べた後の話をするなんて変な人だな、と思いながら洗いたてのレタスと潰したゆで卵を菜箸でぐるぐるとかき混ぜる。一口サイズに千切られたレタスと粗く潰された玉子はかき混ぜてもかき混ぜても合わさる気がしない。黄身が白身からこぼれレタスへと身を投げたのを見届けてこれ以上かき混ぜても意味が無いな、と菜箸を止めた。ドレッシングか何かが欲しいな。厨房を見回すついでに羽風先輩を見れば、彼は流し台脇にあるスペースに広げられた二人分の食事をお盆に乗せながら鼻歌を歌っていた。
空には薄らと茜色が滲む。昼ごはんと称するには遅く、晩御飯と名乗るには早すぎる時間にこうして料理を作っているのは、多忙にかまけてお昼を食い損なってしまったからだ。このイベントが多い季節、こなさないといけない仕事が多くなってきているので仕方ないことだろう。厨房の1スペースを借りてお昼ご飯を作っていた矢先、『かおりにつられた』と食堂に飛び込んできた羽風先輩はーーそのかおりが「女の子のかおり」なのか「ご飯のかおり」なのか言及はしなかったーー肉を切り分けている私を見て嬉しそうに「俺も食べたい」とすり寄ってきたことも多分仕方ない。そしてその日に限って少し多目の食材を準備していたのも、やはり仕方ないのだ。
私の視線に気がついたのか先輩は鼻歌を止めてへらりと笑顔を浮かべる。「きみの手料理が食べられるなんて本当に嬉しいよ」羽風先輩は調味料台に並べてあるマヨネーズを取って私に渡す。「そうですか」と気の無い返事をしながらマヨネーズをボウルの中に流し込む。ボウルの底から上へ菜箸で中身を引っ掻き回すと、鮮やかな黄色が、艶やかな緑が、全て一様にマヨネーズに染まっていく。そうかマヨネーズという手があったのか。感心しながらくるくるとかき混ぜていると「コショウもいるよね」羽風先輩が私の脇にコショウを置いた。お礼を言おうと先輩のほうを向くと、彼はもう水屋からサラダ用の小皿を取り出していて私は目を瞬かせた。調理実習時の同級生たちはここまで気配り屋ではなかったからだ。
混ぜる手が止まってるよ、と羽風先輩は私を見て笑う。彼から目線を外しコショウをサラダの中に入れると、羽風先輩の楽しそうな笑い声が耳に届いた。
* * *
作った料理をお盆に乗せてガーデンテラスに出ると、やはり時間が時間だからか、人はまばらにしかいなかった。羽風先輩は机の間を縫うように歩いて窓際の一席にお盆を置く。「ここ、日当たりがいいんだよ」彼が笑う。日も暮れなのに日当たりなんて、と思いながらその席にお盆を下ろすと、なるほど、昼の間蓄えた優しい陽の温もりが机にほんのりと残っていた。
「俺の特等席」
「そうなんですか?」
「そうそう、じゃあ俺飲み物とってくるからちょっと待ってて」
先輩はそう言って立ち上がってしまった。「私が行きます!」と慌てて立ち上がると先輩はウィンクをひとつ飛ばして「座ってまってて」と足早にカウンターの方へ消えていってしまった。
やはり、先輩は気遣い屋さんだ。本来なら私が動かないといけない一手二手先を打って彼は動く。そんな先輩の背中を羨望と嫉妬の視線で追いかけるしかできない。
一人取り残された私は机の上に置いてある二膳の食事を眺めた。少々多い食材といっても、二人で分けるにはやはり少し心許ない量になってしまった。時間も時間だから夕食までの腹ごしらえ、と考えたらこの辺りが妥当な量なのだろうけど、空腹で胃が大暴れしている今、食欲が満たされるかどうかと言われたら、自信がない。
窓ガラスの向こうからびょうびょうと風が吹き抜ける音が聞こえる。紅葉した木々は揺れて花びらのように葉を落とす。くるくると風に踊らされている一枚の葉っぱがぺちりと窓ガラスに張り付いた。がすぐにまた別の風がそれを攫う。
「なんか君みたいだよね」
先輩は新しいトレーに紅茶と、そして可愛らしいケーキを載せて私を見下ろしていた。「葉っぱがですか?」と問えば「いろんな仕事に翻弄されてる姿にそっくりじゃない?」と笑いもせずにじいとただただ視線を注ぐ。真剣なそれを避けるように目線をそらせば彼はため息を吐いてケーキと紅茶を私のトレーの上に置いた。目を丸くする私に「お昼ご馳走になるからさ、ありがとね」と先輩は言いながら腰を下ろす。
「でもお昼食べ損ねるのはいただけないなあ、倒れちゃうよ?」
「別に一食くらい抜いても」
「アドニスくんじゃないけど、君はちゃんと食べなきゃダメ」
突き出すように割り箸を渡されて、私は肩をすくめてそれを受け取った。「注意します」としょぼしょぼとつぶやくと先輩はようやく笑顔を浮かべて「うん、よろしい」なんて偉そうに頷く。
「じゃあ真面目な話はこんなところで、食べよっか」
「そうですね」
茶色くてらてら輝いたお肉から湯気が燻る。割り箸を割って両手を合わせれば、先輩も「いただきます」と両手を合わせる。追いかけるように「いただきます」と口にして、まずはサラダに手を伸ばす。レタスの小気味のいい食感に卵とマヨネーズが舌の上で解ける。次いでお肉をお箸で摘み上げると、ぽたりぽたりと肉汁と合わさったタレがお皿に滴り落ちた。白米の上に載せてお肉を頬張ると、先ほどまで席巻していた卵たちの滑らかな味わいは瞬時に消えてニンニクのかおりと肉の旨みが口いっぱいに広がった。白米を掬って噛み、飲み込むとなんとも言えない満足感が心に広がる。お腹が減ってるときのご飯って、本当に美味しい。
羽風先輩も黙々と肉を咀嚼していて、ふと目があった私に笑いかけて何度も満足そうに頷く。良かった、お気にめしてくれたようだ。私もまたサラダに手を伸ばして、そして肉とお米を口に入れて、何度もなんども咀嚼する。
「本当に美味しい、いいお嫁さんになるよ」
「ありがとうございます」
「よければ俺のお嫁さんなんてどう?」
「来世で検討しますね」
先輩はレタスの上に卵の塊を載せて器用にお箸で丸めると、それを口の中に入れた。「つれないなあ」私も彼に習ってレタスの上に卵をのせてみるがどうにもうまく巻けない。「本当に頷いたら困るでしょう」仕方ないのでレタスだけ口の中に放り込む。みずみずしく舌の上で跳ねるレタス。「俺は別に困らないけど」サラダのお皿についているマヨネーズをレタスで掬い取っていると、お箸を置く音が聞こえた。丁寧に両手を合わせながら「ごちそうさま」と言う彼のお皿には何も残っていない。
「とっても美味しかったよ、ありがと」
「足りました?」
「うーん、正直言うと、ちょっとまだ減ってる」
「……ケーキ、食べてください」
いただいたものをつき返すのは悪いけど、私でも心もとない量だったのだ、先輩が足りるわけない。私が先輩のトレーにケーキを乗せると、案の定先輩は眉を寄せて「それは君の分だから」と私のトレーに乗せ返す。「でも足りないって言ってたじゃないですか」と私がもう一度それを乗せると先輩はやはりケーキを私のトレーに乗せ返して「だから」と渋く顔を顰めた。が、急に相好を崩し「ねえ」と甘い声を出して私に一度ウィンクを投げた。すごく嫌な予感がする。
「あーんしてくれたら、食べるよ」
「……わかりました」
「え?!」
正直小腹が空いている人の前で昼ご飯を食べるのは気がひけるし、さらには先輩のおごりのケーキを食べるなんて申し訳なさで潰れてしまいそうだったのだ。添えてあるスプーンでケーキを掬って先輩の目の前に掲げると、羽風先輩は狼狽したようにあたりを見回して、忙しないほど瞬きをしながら「手料理も食べて、ケーキも食べさせてもらって、俺死ぬかもしれない」とはにかむ。
「大丈夫です先輩まだ残機残ってそうですし、一度くらいあの世に旅行したって問題ないですって」
「てことはこれ食べれば俺来世ってことになる?結婚検討してくれる?」
「先輩のそういう前向きなところ好きですよ、はい、腕がだるいんですから」
「好き?」
「腕がだるい部分をピックアップしてくれたらとても助かります」
わかったわかった、と先輩は笑いスプーンに乗っているケーキを頬張った。お味はどうですか?と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。幸福に緩んだ彼の表情がまさにその味を表している気がして、私もつられて頬を緩めた。
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