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赤の淵を沿って歩く

 私は先輩と歩いていた。車道側を律儀に歩く先輩の右手には、私の左手。夕焼けに染まった町はどこもかしこも茜色で、これが数分後には夜の町になるなんて、なんとなく不思議な感じがした。

 何をしてもてんで駄目な日は存在する。何か大きな失敗があるわけでもなくて、小さな失敗や嫌なことが積み重なり、ある時ハッと気がつく。あ、今日は駄目な日だと。
 悲しいことにその『駄目な日』が私にとっては今日で、そんな日は早々に帰って家で寝ればいいのに、悲しいかな流星隊のレッスンが入っていて。『調子が悪くて』と途中まで打ったメールを悩みに悩んで削除すると、私は重い体を引きずってレッスンに参加した。やはりそこでもポンコツっぷりを発揮した私にいつも鬱々しい翠くんから「元気出してください、溜め込むのは良くないッスよ」なんて言われちゃうし、忍くんからはよく分からない玉ーー曰く兵糧丸らしい、食べると元気になるとかーーを貰っちゃうし、鉄虎くんには「先輩がんばってください!俺応援してるッス!」なんて謎の声援をいただいてしまった。一年生達の不慣れな励ましに若干元気を取り戻すも、レッスンが終わった頃にはくたくたで、ああ早く帰って寝ようと、そう思っていた。

「この後時間はあるか?」

 着替えを早々に終えた守沢先輩がそう尋ねてきたのは、レッスンが終わってすぐの話だった。私は早々に資料をカバンに詰めて「大丈夫ですよ」と答える。先輩は「そうか」と安心したように微笑むとそのまま私の手をとって歩き出した。てっきり仕事の話だと思っていた私は心底驚いたが、なぜか手を振り払う気にはなれなかった。

「先輩?」

 守沢先輩は私の呼びかけに振り返ると曖昧に笑い、しかし私の手を離してはくれなかった。

 ようやく離してくれたのは下駄箱についたタイミングで「俺はこっちだから」と言いおくと先輩は靴を履き替えるために三年生の靴箱の方へと歩いて行ってしまった。私もしぶしぶ自分の内履きと外履を履き替える。みんなに挨拶をしないで出てきちゃったな。今まで歩いてきた方向を振り返ってため息。今日励ましてくれたから、お礼の一つでも言えばよかった。本当にてんで駄目だ。

 私が履き替えて玄関へと辿り着く頃には先輩はすでに玄関の前で待っていて、私の姿を捉えるとはにかんで手を差し伸べた。いつもは騒がしく抱きついたりだとか、力一杯肩を叩いたりだとか、元気の塊であるはずなのに、これほどたおやかな先輩は今まで見たことがなかった。恐る恐る手を重ねると先輩はぎゅっと私のそれを握る。力加減を考えない握り方に先輩らしさを感じつつも、やはりどこか違和感。

「先輩、調子悪いんですか?」

 そう尋ねると先輩はじいと私の方を見て眉を寄せて、そして笑った。

「悪くはないんだが」
「でも今日はだんまりですね?」
「そうするべきだと、奏汰が」
「深海先輩が?」

 守沢先輩はどこかバツの悪そうに微笑んで、そして誤魔化すように握った両手を軽く振った。秋の冷えた空気を切りながら、私と先輩の間で拳が行ったり来たりを繰り返す。

「隠し事は苦手だからはっきり言うが」
「はい」
「お前を励ましたくてな」

 びゅんびゅんと拳が揺れる。先輩は照れくさそうに表情を崩して「お前は女の子だから」と言葉を続ける。

「繊細に扱わなければならん、そうだ」
「繊細に?」
「ああそうだ、違うぞ、差別しているわけではないぞ」

 言葉に苛立ちが含まれていると思われたのだろうか。私の一言に先輩は慌てて首を振りながら弁明を口にした。「そうじゃない、伝えにくいな、ううん」そして先輩はもごもごと口の中で言葉を転がして、諦めたように笑った。「女の子というのは、難しいな」

 先輩はその言葉を最後に黙ってただひたすら歩き続けた。どこかあてがあるような、はたまたデタラメに歩いているような、そんな頼りない歩き方だった。知らない景色が彼の足の速さに合わせてゆっくりと流れていく。赤色の紅葉、黄色のイチョウ、秋の鮮やかな街路樹も、夜の気配を感じて光りだしたイルミネーションも、先輩はそういったものを無視してずんずんと歩き続けた。大通りと抜けて小道に入り、人気がどんどんと少なくなる。まるで世界から切り取られたようなしんとした道を私は先輩の手の温かさだけを頼りに足を動かす。

 先輩がようやく止まったのは見慣れた公園に着いてからだった。よくヒーローショウをやっている公園。どうやら随分大回りをしてここにたどり着いたらしい。もう夜が近い時間だからか、子供の姿はまばらで、その代わりジョギングをする人、犬の散歩をする人影がちらほらと見えた。

 ちかちかと瞬き始めた街灯の下で、先輩はぎゅっと私の手を握った。「いろいろと考えていたんだが、言葉は浮かばないものだな」そう言って笑う。先輩はそういうけれど、気遣いだとか心の温かさだとかが手のひらからしっかりと伝わっていた。温かくて、大きくて、時折頼りなくて。彼の柔らかい温かな体温が今日1日私の胸に巣食っていた黒い気持ちやしんどい心をゆっくりと溶かしていくのを感じた。俯けば先輩から「どうした?」と心配そうな声が響く。顔を上げずに「秘密です」と言って私は息を吸う。涙のせいでずびり、と鼻が情けなくないた。その音で察したらしい先輩は、先ほどよりも強く手を握って「秘密なら仕方ないな!」とわざとらしく声をあげて、笑った。不器用なそれがやたらと嬉しくて、心が温かくなる。融解された色んな気持ちが目からぽろぽろと落ちて、地面に斑点をつくる。

「泣きたい時に泣くのも必要なことだ、あまりため込みすぎるな」

 先輩はそういうと、少し考え込むように口を噤んで「まあ泣いてないかもしれないがな!」と笑った。うそくさすぎる優しさにやはりまた涙は溢れて、でもないていることを伝えるのはなんとなく癪で、温かな手のひらから流れる優しさを取りこぼさないように、私は強く手を握った。

「今日のことは、秘密ですよ」
「ああ、二人だけの秘密だ」

 終わりかけの茜色は遠く空へと沈んでいく。沈むことのない太陽は私が泣き止むまで、ただただずっと、手を握ってくれていた。

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