DropFrame

後部座席にて

 先ほどからバスは唸り声を上げるだけで一向に出発をしようとしない。適度に暖房が効いた車内の一番後ろ、長いシートの後部座席には私以外の人はおらずーーそれどころかこのバスの乗客自体、数人いる程度だーー窓際を陣取った私は随分と左側が空いた状態で窓にもたれかかっていた。授業が終わった間際でもない、最終下校時刻が近いわけでもない。中途半端な時間だからこんなに人がいないのだろうか。随分と空いた左側の空間を見て、私はこつん、と窓に頭をつけた。
 バスの振動が窓に伝わり、そして私へと伝わる。適度な刺激が気持ちよい。エンジンの重低音とそれに伴う振動に揺られながら、資料でも読み込もうかな、と一瞬頭に過ったが、どうにも酔いそうでやめた。手芸なんて以ての外だ。ポケットに入っている携帯を眺めても新規着信は0。

 ぶるぶると震えながら出発を待つバスの出入り口をぼうっと眺めていると、よく見知った顔が乗り込んできた。体を起こして背筋を伸ばし彼に会釈をすると、無表情だった彼の顔が花開くように笑顔になる。嬉しそうに私の名前を呼んで早歩きで後部座席の私の隣を陣取った彼は持っていたカバンを膝の上に置いて、またニコリと笑う。

「奇遇だね」

 羽風先輩のその言葉に私も苦笑を浮かべながら「そうですね」と答える。会っただけでここまで喜ばれると悪い気はしない。

 肩が触れそうなくらい私に近寄ると、先輩は顔を覗き込むように身をかがめた。視界いっぱいに入る羽風先輩の顔に驚き頭を引くと、ごつん、と鈍い衝撃。羽風先輩は目を丸くして、そして破顔しながら「大丈夫?」と聞いてきた。「顔と言動が一致してないです」と私が苦言を呈すと彼はまた微笑み「そうかな?」と首を傾げた。

「なんなんですか一体、じろじろ人の顔を見て」
「んーとね、隈すごいなって、最近ちゃんと寝てる?」
「え?あ、まあ、それなりに?」
「家ってここから遠い?」
「近くはないと思うんですけど……」
「どの停留所で降りるの?」

 怒涛の質問攻めに混乱しつつも最寄りの停留所を答えると羽風先輩は「じゃあしばらく乗ってるね」と呟いた。どうしてそんなことを、と問いかけようとするよりも先に、先輩は私の二の腕を優しくつかむ。羽風先輩の方へと腕を引かれて、私は重力に逆らえぬまま彼の膝の上に倒れる。どうやら頭が打ち付けた事を配慮してくれているようで、膝に着くよりも先に、彼の手のひらに頭が触れた。そのまま転がすように膝の上に誘われた私は、思ったよりも硬い感触に驚く。膝枕って柔らかいが定説だけど、男の人の膝枕って硬いんだ。

「折角だから繁華街にでも降りて、と思ったけど先輩が起こしてあげるから今日はゆっくり寝なさい」

 彼の顔を見上げるために仰向けになるとなぜか羽風先輩はブレザーを脱いでいる最中で、唖然とする私に「どうしたの?」とその手を止めて見下ろす。「暑いんですか?」と問うと羽風先輩は少し困った顔で「そうじゃないんだけどねえ」と笑った。そしてブレザーを脱いで軽く広げると、私のちょうどスカートと太ももの境にそれをかける。
 そうか私今スカートを履いてるんだ!感触的にさほどめくり上がっているわけではない事はわかる。でも先輩にそれを気遣いさせるのは違うと思う!慌てて身体を起こそうとすると先輩が「だーめ」と優しい声を上げた。肩を押し返されて、今度は勢い良く彼の膝枕に飛び込む。

「気にしなくてもいいの」

 羽風先輩は笑って私の前髪をくしゃりと撫でた。先ほどまで羽織っていたから、ブレザーに籠る羽風先輩の体温が暖かくてむずかゆい。眉を寄せて彼を見上げれば、先輩は困ったように笑って私の肩に手を添える。子供を寝かしつけるようなリズムで肩を叩きながら「気にしない気にしない」と歌うように口ずさむ。

 先輩越しにエンジンの振動が伝わる。車掌が出発のアナウンスを流して、ドアが閉まる。タイヤが膨らむのを感じながら私は先輩を見上げた。どうやらずっとこちらを見下ろしていたようで、彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべながら肩をたたくのをやめない。

 大きく息を吐き出したバスはゆっくりと走り出す。振動に揺り落とされないように少しだけ先輩の方へと身体を向けると、彼は肩をたたくのをやめて私の背中に手を回した。落とさないように支えるように、添えられたその手は大きく暖かい。彼のズボンを握ると頭上からクスクスと笑い声が降ってくる。「かわいいなあ」と呟かれたその言葉にそっぽを向くように彼の足に顔を埋めれば、背中を支えていた手がまた、夢の中へと誘うようにリズムを鳴らす。
 おやすみなさい、と呟いた言葉が彼に届いたかどうかはわからない。バスの振動と、彼のリズムを一身に受けながら、私はゆっくり、瞼を閉じた。

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