「嬢ちゃんや、お菓子をおくれ」
誰もいない教室に突如耳に届く声。誰もいないと思っていたのに、机の向こうからひょこりと顔を半分だけ出した吸血鬼さんは赤い目をぱちくりと瞬かせながら小首をかしげた。「お菓子を、おくれ」繰り返される言葉に目を丸くしながら「いつかいたのですか」と答えれば先輩は思い出すように視線を空に投げて「ほんのすこし、前じゃよ」と記憶をたどるように言葉を紡ぐ。「全然気がつかなかったです」私が嘆息すると先輩は、ふふふ、と笑みをこぼして「見つからないようにこっそり来たのじゃよ」と机に顎を乗せた。彼のセーターから伸びた長い指が机の端をしかりと掴む。「お菓子をおくれ」歌うように請うその姿はーー二つ上の先輩に使う言葉ではないとわかってはいるがーー可愛い。頬の緩みを唇を結んで隠しつつ私はカバンに手を突っ込む。引っ掻き回してみるが、それらしい感触はなにも得られない。ハロウィンだから、と大量に準備したそれはどうやら完売してしまったようだ。
「すいません今切らしてまして」
そう伝えると、先輩は「なんと」と短く言葉を切って、こてん、と机に頭を転がしてしまった。長い前髪が鼻にかかる。「ないのか」彼が肩を落とすと、その柔い衝撃で鼻頭に引っかかっていた前髪がだらりと机に垂れた。視界の邪魔だろうに、先輩は払うこともせずに目を伏せる。「ないです」と私が答えると先輩は薄く目を開けてこちらを見た。そしてまたぎゅっと目をつぶって「ないのか」と消え入りそうな声を吐く。残念を体いっぱいに表現した先輩は右手を机の縁から離して机の上に投げ出した。ぱたぱたと彼の指先がせわしなく動く。苛立ち、というよりは駄々をこねた子供のようにせわしなく動く指先をつついてみると、まるで獲物に食いつくように彼の右手が私の人差し指を包む。
「手作りかえ?」
瞼が持ち上がり、赤い瞳が私を捉える。頷くと、ふうん、とだけため息まじりに音を漏らして、「惜しいことをした」とぼそりつぶやいた。
「嬢ちゃんなら今日はたんまり持ってきていると思っておったが」
「今日はどうやらいたずらっ子のお化けたちが想定より多かったようで……」
「我輩の分も残してくれてもよかったろうに」
「先輩がわざわざ教室までお菓子を求めに来るとは思えなくて」
そう言うと先輩は頭を起こして「我輩は魔物じゃよ」と包んでいる手に力を込める。痛くはない。が、彼が揉むように指先を動かすせいでこそばゆい。「吸血鬼ですもんね」と答えると、彼は憮然と「分かっておるではないか」とぼやく。ほんのりと膨れた頬が愛らしいと伝えると怒られてしまうだろうか。少し空間の空いた彼の右手の中で人差し指を泳がすと、逃がさない、とでも言うように彼が指を締め上げる。
窓が夜風に吹かれて音を立てる。びょおびょおと轟く音につられて窓の外を見れば、夜の帳はもう下ろされていた。暗闇に水泡のように浮かぶ街灯。そしてぼんやりと映し出される私と、中腰の朔間先輩。
「夜は魔物の領域じゃよ、嬢ちゃん」
「そうですね」
「今宵は魔物が多い、どれ、我輩が攫われないように送ってやろ」
そう言うと先輩は私の人差し指から手を伸ばして立ち上がった。まだ帰る時間ではない。というかやることはたんまり残っているのだ。先輩はどうやらそれを見越しているらしく、私の片付けていない書類を手早くまとめるとひょいと持ち上げた。
「ついでに甘いものでも食べて帰るか」
まだやることが、と言葉を落としても先輩はどこ吹く風。どこから取り出したのかクリアファイルにそれらを纏めて自分のカバンに入れてしまった。カバン、持ってきてたんですね。帰る気満々じゃないですか。晴れ晴れしいほどに爽やかな笑みをたたえた先輩は私の皺が刻まれた眉間を親指の腹で伸ばして「ハッピーハロウィン」と言った。「ハッピーハロウィンなんて聞いたことないですけど」なんて私が反論すると先輩はとぼけたようにまた視線を泳がせて、にこりと微笑む。
「嬢ちゃんや」
「なんですか」
「これ以上焦らすといたずらをしてしまうぞ」
例えばどんな、と私が口にすると、先輩はにやりと笑い先ほどのクリアファイルをカバンからちらりとのぞかせた。
「我輩ケーキが食べたい」
魔王と評すには可愛らしいほど、そして小憎たらしい笑みを浮かべて先輩は私の手を取った。慌ててカバンを引っ掴むとそれを合図に先輩は私の腕を引っ張った。教科書だとかノートだとか、まだ机の中に入っているのに。悠々とした空間を泳ぐようにカバンの中で貴重品がごとごとと音を奏でる。随分と軽くなったカバンを背負いながら、先輩に導かれるまま歩き始める。
夜闇の魔物は鼻歌を歌う。リズムを奏でるように軽やかに夕暮れを歩く。明かりが灯りっぱなしの教室に心残りを感じながらも、上機嫌に顔をほころばせる先輩の横顔を見て、たまにはいいかな、なんて思ってしまった。
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