DropFrame

水曜日ノーツ

 音が落ちてきたので上を見上げると、抜けるような青空が広がっていた。悠々と流れる雲のような旋律に、そうかきょうは水曜日だったのか、と深呼吸する。口の中から肺へ、そして全身へ。くまなく彼のメロディが駆け巡る。水曜日、お昼休み。柔らかく、そしてたおやかな音につられるようにわたしは階段を上り始めた。目指すは屋上。彼のいる世界。

 屋上のドアを開けると、旋律はぴたりとやんだ。余韻のようなオカリナの音が波紋のように広がり空気に溶ける。一音も逃さないようにその音を吸い込んでアドニスくんに駆け寄った。アドニスくんは膝の上にオカリナを置いて微笑みをこちらへと向ける。「やめちゃった」と私が言えば「お前が来たから」と彼は言う。その言葉に否定的な響きはなく、彼はにこりと微笑むと「オカリナを吹いていると話せないだろう」と笑った。そういうの、ちょっとずるいと思う。顔が緩まないように口内を噛みながら彼の隣に座ると、アドニスくんはまっすぐ前を向いた。屋上のフェンスから見える昼間の海は、太陽の祝福を受けてこれでもかというくらいに輝いている。少しずつ高鳴る鼓動を抑えつつアドニスくんを見上げれば、彼は海から目を離してこちらを見る。素直でまっすぐな視線は、出会って随分と立ったけれど未だに慣れやしない。

「ご飯食べた?」
「ああ、お前は?」
「今から食べようかなと」

 お弁当を取り出すと彼は顔を顰める。「足りないだろう」と口をとがらせるが、私にとってはこれが十分な量だ。お弁当のフタからこじんまりしたお箸を取り出しつつ、「足りるよ」と伝えると、アドニスくんは「もっと食べなければ強くなれない」と頑なに頭を横に振る。確かに弟のお弁当は私よりもひと回りも大きいよなあ、とそんなことを思い浮かべながらお弁当のフタを開ける。色取り取りの色彩に先ほどまで否定的な態度だったアドニスくんは目を丸くして「かわいいな」と呟く。これが私のお手製なら良かったのだけれど、残念ながら母親作だ。

「もう吹かないの?」

 二段目に敷き詰められていた白米をつつきながら私が尋ねると、アドニスくんは私とオカリナを交互に見て「そうだな」とぼそりと呟く。褐色の長い指が雪のように白いオカリナに触れる。ごつごつとした指の輪郭が一層に際立つ。この指であの優しい旋律を奏でていたのか。じいとその指ばかり見ていたらお箸から掴んでいた白米がコロリと転がった。

「食べるときはちゃんと食べろ」

 呆れた彼の声が聞こえる。私は肩をすくめて気の無い返事をして、おかずの中に転がった白米を掴み口の中へと放り込んだ。

 アドニスくんの奏でる旋律は綺麗だ。UNDEADのライブとは違う、澄んだメロディ。彼らの音楽が「澄んで」いないとは言わないけれど、どこか影を落とす彼らの楽曲とは似ても似つかないような、明瞭な旋律がここにはあった。美味しいご飯。過ごしやすい天気。素敵なメロディ。そして、だいすきなひと。四拍子そろったしあわせは私の心の中でむくむくと広がり身体中を駆け巡る。まるで窒息しそうなくらい幸福な空気に酔いながら過ごすこの水曜日の午後が私は一番好きだった。

 お弁当を半分ほど食べ終わったあたりで、アドニスくんは一曲吹き終えたのか唇をオカリナから離した。ふう、と息を吐いてこちらに目線を向ける。お箸を膝の上に置いて「とても良い演奏でした」と笑うと、アドニスくんもふっと微笑んだ。微笑んで「ありがとう」と膝の上にオカリナを置いてまっすぐ前を向く。先ほどまで何もいなかった背の低い植木に、小鳥たちが何羽か止まっていた。アドニスくんがそちらを見るなりまるで蜘蛛の子を散らすように小鳥達は飛び去ってしまう。肩を落とす彼に「アドニスくんの演奏を聴きに来たのだと思うよ」と伝えると、彼は照れくさそうにはにかんだ。

「お前は楽器を演奏しないのか?」
「私はからっきしだからなあ、何か出来たらセッションとかできたのにね」
「そうか……」

 あまりに彼が残念そうに呟くので咄嗟に「合いの手ならできる」と言ってしまった。彼は「あいのて?」と首をかしげる。両手を一度打っておどけたように笑うと、アドニスくんは眉を寄せ、真剣な表情でじっと私の手を見つめた。

「……だめ?」
「なら、音に合わせて」
「音に合わせて」
「俺が吹いて、お前が手を叩く」
「ほうほう」

 アドニスくんはそういうやいなやオカリナを手にしてメロディを奏で始めた。聞き馴染みのあるこの音楽は、彼がよく好んで吹いている曲だ。演奏に添わせながらデタラメに手を叩く。叩いてみれば楽しいもので、彼の演奏の邪魔にならないような音量で、無邪気に私は手を鳴らした。

 水曜日にオカリナがひとつ、そして陽気な拍子がひとつ。

 アドニスくんはオカリナから口を離すと「楽しかった」と嬉しそうに微笑んでくれた。私も楽しかったし、彼が喜んでくれたことがなおのことに嬉しい。「言ってよかった」と笑えば、彼も「ありがとう」と微笑む。

「でもひとつだけ欠点があるね」
「なんだ?」
「ご飯が食べれない」

 中途半端に残された弁当を見てアドニスくんは顔をしかめた。

「食べるときはちゃんと食べろ」

 今のアドニスくんには言われたくない。心の中で悪態をつきながら、私はまた気の無い返事を返してお箸をつかんだ。