DropFrame

今日もまた1日が始まる

 起き抜けの頭は思考に霧がかかったようだ。まだ見慣れない天井と少しだけ獣の香りがするこの部屋の空気を吸って、次いで大きな欠伸を零せばこの部屋の住人であるレオンが犬用のベッドの上からじっとこちらを見つめていることに気がつく。閉め忘れた窓から吹き抜ける風がささやかにカーテンを揺らす。外は雨が降っているようで断続的にしとしとと緩やかな音が流れ込んできた。どうやら洗濯物を干したままらしく、薄手のカーテンに吊るされた洋服のシルエットが映っている。さすがに勝手に取り込むのもなあと考えて眼下をみれば、家主である晃牙くんは険しく眉を寄せながらまくらを抱きかかえるように眠っていた。連日のライブで疲れているのであろう。音を立てないようにゆっくりと起き上がったのだが、足の低いベッドはぎしりとおおきく鳴き声を上げた。その音に晃牙くんは、ううん、と音を漏らして寝返りを打つ。音に惹かれたのかレオンは寝床から飛び降りると私たちが寝ているベッドへと歩みを進める。すんすんと鼻を鳴らしながら晃牙くんに寄るので、私は慎重に晃牙くんをまたぎつつベッドから降りると「だめだよ」と本当に小さい小さい声でレオンに話しかけた。レオンは私の声に反応して晃牙くんから視線を外しこちらへとすり寄ってきてくれる。本当に賢い子だ。忠犬の頭をひと撫でしてそのままキッチンへと歩き出すと、彼も私の足に寄り添うように歩き出した。<br>
 冷たいフローリングが肌にすいつきぺたぺたと音を立てる。冷たいけど、不愉快ではない。

「レオンはさ、晃牙くんのこと、好き?」

 キッチンにたどり着いた私は簡素な水屋からグラスを取り出して蛇口をひねる。ちょうど足の間をくぐっていたレオンは私の顔を不思議そうに見つめて、ひとつ鼻を鳴らした。「ま、わかんないか」と自嘲気味に私は笑って蛇口を固く締めてグラスに溜まった水を飲んだ。冷たい水が口から体内へ、じんわりと体内に浸透する。まどろんでいた意識がそれに呼応するように覚醒を始める。小分けになんどもグラスを傾けていると、つま先に可愛らしい圧を感じて、私は自分の足先を見下ろした。
 先ほどまで足の間にいたレオンはわたしのつま先をせっせと踏み続けていた。ぶにぶにした感触を感じながら「レオン」と彼の名前を呼ぶと、レオンはじいとこちらを見つめて、また二三つま先を踏むとワン!と声を上げて鳴いた。コップを流し台においてしゃがみこみ彼の頭を撫でてやると、レオンは嬉しそうにジタバタともがいてごろりと床に寝転がる。どうやら【孤高の狼】も撫で回しにはてんで弱いらしい。よく手入れされた毛並みを撫で回していると、後ろからぺたぺたとこちらへ歩み寄る足音が聞こえた。

「おはよ」
「……ん」

 まだ寝ぼけた顔をしている晃牙くんは私と同じように水屋からグラスを取り出すと水道水を注ぎいれた。そういえばいつからグラスは二つになったんだっけ。水を飲み干す彼の銀髪が、蛍光灯に揺れてちらちらと輝く。晃牙くんはこちらには目線をくれずに「見てんなよ」と言った。「よくわかるね」と笑えば「目線がうるせえ」なんてわけのわからないことを言って、晃牙くんはそれもまた同じように、グラスを流し台へと置いた。

「レオンに飯は」
「まだあげてない」

 私の返事を聞くや否や、晃牙くんは棚からドックフードを取り出す。途端に輝くレオンの瞳。そうか君はもしかしてずっと私にご飯の催促をしていたの?レオンは私の手のひらから抜け出して晃牙くんに駆け寄る。嬉しそうに声を上げるレオンを見て「はしゃいでんなよ」と晃牙くんも嬉しそうに微笑む。その無邪気な表情に私の頬も緩んでしまう。彼を見上げて微笑んでいると、晃牙くんはレオンのご飯をお皿に注ぎいれながら、「なんだよ」と一言、ぷいと視線をそらされてしまった。

「私たちの朝ごはんどうしよっか」
「簡単なものでいいなら作ってやるよ」
「おお、さすが一人暮らし、晃牙くんのご飯美味しいから楽しみー」

 褒めたつもりなのに晃牙くんは私の頭を一度叩いてレオンのご飯を棚に戻した。「お手伝いします」といえば彼はすぐさま「邪魔になるからあっち行ってろ」と唇をとがらせる。どうやら先程の叩きは照れ隠しだったらしい。少しだけ赤面している晃牙くんを見て、私は笑みを零す。
 ご飯を食べるレオンを横切り指示通り部屋の中へ戻った私は適当なところに腰を下ろした。そこらにほっぽっていた大きめのクッションを抱くと、やはり少しだけ獣くさい、晃牙くんの香りがした。
 この部屋にいれば少しは晃牙くんに近づけるのだろうか。まるで衣服に匂いが染み込むように、雨が地面へ吸い込まれるように、私も晃牙くんの距離を縮められるのだろうか。

 キッチンのほうからじゅうじゅうと焼ける音がする。合間に聞こえる何かを刻む音。とんとん、じゅうじゅう。奏でられる朝の音楽に耳をすませながら、キッチンを見つめる。ライブのとき、いつも胸を張っている背中がいまは少しだけ丸い。背の低い流し台で彼は真剣に何かを刻んでいた。この距離ではよく見えない、と思いクッションを抱きながらキッチンの扉の近くまで移動すると、どうやらご飯を食べ終えたらしいレオンが嬉しそうにこちらへと駆けてきた。体育すわりをしている私の足の隙間に滑り込むと、彼は嬉しそうに私を見上げる。「ご飯楽しみだね」と笑うと、レオンはわん!とおおきく声を上げた。

「なあ」

 晃牙くんは切り終えたなにかをザルへ移し蛇口をひねる。勢いよく流れ出した流水に紛れて晃牙くんがなにかを言ったが聞こえない。「何か言った?」と流水に負けない声量で晃牙くんに声をかけると、彼はちらりとこちらを見て蛇口を占める。どうやら刻んでいたのは人蔘らしい。ザルの隙間からぴょこぴょこと顔を出す細長いオレンジ。それらを乱暴にフライパンの中に入れながら、晃牙くんはいらだたしげにひとつ舌打ちをする。

「……レオンに変なこと聞いてんじゃねえよ」
「ご飯のこと?」
「その前だその前」

 ガスコンロの上でフライパンが踊る。菜箸でフライパンの中身をかき混ぜる晃牙くんを見つめながら、あああのときもう起きてたんだ、なんてぼんやりと考えた。
 頭を壁につけるとごつりと小さな音が鳴った。晃牙くんはこちらを横目で見て、またフライパンへ目を戻す。香ばしい香りがする。お腹が情けない音を立てる。

「私は、晃牙くんのこと好きだよ」

 晃牙くんが反応する前に、わん!とレオンが声を上げた。「レオンも好きなんだよねえ」なんて彼を撫でてやると、晃牙くんはコンロの火を止めて菜箸をフライパンに差し込みこちらへと振り返った。私の前まで歩いてしゃがみこむと、不機嫌そうな顔でまっすぐこちらを見つめる。なに、と文句を言おうとしたら乱暴に口を掴まれた。触れる唇。不意打ちのキス。

 固まる私から唇を離して彼は躊躇なく私のおでこに頭突きをかました。

「いっだ……?!」
「しょうもねえことばっか言ってるとバカが加速すんぞ」

 彼は振り返るとまたキッチンに向かってコンロに火をつけた。弱々しく燻っていた音はまた勢いをつけてじゅうじゅうと音を立てる。痛いおでこをさすりながら彼の後ろ姿を見つめた。先ほどよりも少しだけ上機嫌に見えるのは気のせいだろうか。いや、気のせいではないだろう。香ばしい音に紛れて聞こえるかすかな鼻歌が、なによりの証拠だ。