DropFrame

Calling

 受話器越しから聞こえる声はいつもよりもゆったりと穏やかな音だった。届いているか探るような「もしもし」の声に「もしもし」と返したらもう一度、今度は先程よりも明瞭な声で「もしもし」と声が返ってきた。やまびこのようなやり取りに笑いつつ「聞こえてますよ」と私が返すと電話の主である朔間先輩は「おお」なんて受話器の向こうで嬉しそうに声を弾ませた。

 放課後、LHRが終わってしばらく経った頃。教室で資料整理をしようとカバンから幾つかの資料を取り出した最中にかかってきた珍しい人からの着信。ディスプレイに浮かぶ『UNDEAD_朔間先輩』の文字を見るなり、私は肺の奥から底知れぬ何かが膨らみ身体中を冷やしていくのを感じた。
 朔間先輩と連絡先を交換してからというもののちゃんと電話をした回数なんて片手で足りる程度しかない。何か用事があれば先輩が直接赴いたり、晃牙くん伝いで連絡してくるか、大抵はその二択だからだ。稀にかけてきたとしてもそれはあまりいい報告ではない、緊急性の高いもの。彼からの着信は、基本的には吉報ではないのだ。

 姿勢を正しドギマギしながら素早く携帯のロックを解除して携帯に耳を当てると、数秒の沈黙の後に間の抜けた声で「お?」という音だけ聞こえた。私が「朔間先輩?」と問いかけると「おお!」と呑気な声が響いて、先程のもしもし合戦へと繋がったのだ。
 拍子抜けするほど穏やかな声に私はひどく安心して背もたれに体重を預ける。ぎしりと背もたれが大袈裟なほど音を立てたので、聞こえてないといいな、なんて朔間先輩の笑い声を聞きながらぼんやりとそんなことを思う。

「嬢ちゃん嬢ちゃん」
「なんですか?」
「ちゃんと聞こえておるのかのう?」
「聞こえてますよ」
「そうか!」

 電話が聞こえるなんて小さい子でも知っているようなことなのに、私の返答を聞いた朔間先輩はまるで今しがた知ったと思うほど嬉しそうに笑う。いったい何がそんなに嬉しいのだろうか。理解はできないけれど、彼の声に反響するように私の胸の奥から暖かい気持ちがじんわりと沸き起こる。幸福感につられるように私も笑いを零すと、先輩は声を躍らせたまま「楽しいことでもあったのかえ?」と聞いてきた。あなたのおかげです、なんて素直に伝えるのが恥ずかしくて「秘密です」と答えると「そうか秘密か」と先輩はまた嬉しそうに声を弾ませた。まるでゴムボールのようだ。いつだってご機嫌な先輩だけれど、今日の声は普段より三割り増しで楽しそうに思える。そんな先輩の声を聞いて私も楽しくなる。ここに先輩がいなくてよかったと思うほど頬を緩ませて、私は先輩の声に耳をすませた。

 そこで気がついたのだが、彼の笑い声の合間合間に時折何かが軋むような音が聞こえる。聞き馴染みのある音。なんだったっけ?聞き逃さないように耳をそばだてつつ音の正体を探る。椅子でもない、机はこんな音はしないし。ぎしぎしとさざ波のように揺れる音の正体を推理する。木製っぽい?教壇に立ってる?何だろうこの音。スプリングに近いような、遠いような……。
 何度目かの『ぎしぎし』が響いたところで、私はようやくその音の正体に気がついた。そうだ、棺桶だ。棺桶が開く音だ。

「部室にいるんですか?」
「……そこまでわかるのか?」
「棺桶の音がしたなと思いまして」

 ぎしぎし。先程よりも小刻みに、受話器の向こうで軋む音が何度も響く。きっと確かめるように何度も押しているのだろう。軋む音の合間に「ほう」だとか「そうか」だとか先輩の呟きが聞こえる。携帯を片手に棺桶を押す先輩の姿を想像したらなんだか面白くて小さく笑うと、朔間先輩は「よく笑うのう」と呆れ笑いを零した。
 遠くにいるはずなのにまるで目の前にいるような声の温度がくすぐったい。もっと聞いていたい気持ちもあるが、そういえば用事はなんなのだろう、なんて疑問がようやっと私の中に舞い戻ってきた。わざわざ先輩が電話をする事柄。この声のトーンからして悪いことではないのだろうけど。

 朗らかな雰囲気を壊すのも気が引けたが、意を決して「ところで先輩、何か用事があったんじゃないですか?」と尋ねてみれば、数秒の沈黙の後「あったよ」と先輩の声が響く。

「軽音部室にいるんですよね?すぐに伺いますね」
「ああ、構わん構わんそのままで」
「そうですか?」

 電話で済ませられる用事なのだろうか。いつでも書き留めれるようにポケットからメモ帳を取り出してシャーペンを握る。先輩は受話器の向こうで、まるで内緒話をするように声を潜めて「実はな」と口火を切る。私もーー目の前にいないのだから意味はないのだけれどーー前のめりになりながら先輩の言葉の続きを待つ。

「我輩な」
「はい」
「携帯を、変えたんじゃよ」

 まるで秘密を打ち明けるように、ひっそりと。でも嬉しそうに彼はそう言った。

「は……機種変……ですか?」
「そうじゃよ、だから電話しようと思って」
「はあ」

 なんだそれ、なんだそれは!今日一番の脱力に、そして取り留めもなさすぎる言葉にふふ、と笑いがこぼれてしまう。構えてたのが馬鹿みたいじゃないか。勝手に構えたのはまあ、私だけれど。電話の向こうでもふふふ、と嬉しそうな声が聞こえる。先輩は嬉しそうに「びっくりしたかえ?」と笑う。「びっくりを通り越してもう逆に冷静です」と私が笑うと先輩の笑い声がぴたりと止まった。ふうむ、と声とともに息を吐く音が聞こえる。何かあったのだろうか。私が尋ねる前に先輩はもう一度、ふむ、と声を漏らして、言葉を続けた。

「嬢ちゃんや、電話は不思議じゃのう」
「聞こえることがですか?」
「そうじゃなくてな……こうして声を聞くと、会いたくならんか?」

 受話器の向こうで先輩は一体どんな顔をしているのだろうか。窓ガラスに映った私はそれはもうとてもとても緩みきった笑顔で携帯を耳に当てていた。先輩の言う通りです、今、すごく会いたい。先輩がどんな顔をしているかが知りたい。

 そっちに行きます、と勢い良く告げた私に先輩は再びくすくすと笑い声を漏らした。待っておるよ。先輩の甘い声色に急かされるように、私は教室を飛び出した。