彼に導かれて初めてこの場所に踏み入ったときは、秘密基地みたいだと思った。学院見取り図にも書いてない、普段足を踏み入れないような入り口を潜り地下へと進む。少しだけ埃っぽくて、紙の匂いが充満する部屋。彼曰く、地下書庫。
いつ誰が置いたかわからない古びた椅子を引っ張り出して、適当な本を抜き座り込む。専門書に近いその本を眺めながら、ただただ時間を潰す。内容は分からない。流し読みだから尚更に。でも読むのをやめる気にはならなかった。手持ち無沙汰だと余計なことばかり考えてしまいそうで怖かったのだ。
そのうち扉が開く音と、階段を穏やかに下る音が聞こえてきた。足音の主はあらかた予想がついているので、気にせず本のページをめくる。足音が近くなる。ページをめくる。内容は相変わらず分からない。
開いたページに影が落ちて、呆れたようなため息が聞こえた頃合で私はようやく本から顔を上げた。そこにはこの一帯を我が物顔で占拠する夏目くんが立っていて、まるで侵入者を咎めるような目線を私に注いでいた。
「なんでいるノ」
怪訝そうに彼の瞳が光る。私が視線をそらすと彼は少し苛立った声で、ねェ、と返事を催促するような言葉を投げかける。学校の敷地内だから別に私がどこにいたって自由なはずなのに、どうやらこの魔法使いさんは私がここにいるのを好まないらしい。口を尖らせながら彼を見上げると、夏目くんは呆れたように深々とため息を吐いて、好きにしたラ、と一言言い置いて背中を向けて歩き去ってしまった。きっと小部屋に戻るのだろう。自分のあまりの愛想のない態度にちくりと心が痛む。八つ当たりしちゃったな。今度また謝ろう。そう思いまた本をめくる。しかし夏目くんのことがちらついて、先ほどよりも内容が掴めない。やっぱりすぐに謝ったほうがいいのかもしれない。そう思い顔を上げると、私と同じように古びた椅子を抱えた夏目くんが、こちらへと歩いてきていた。
「部屋に戻ると思ってた」
「少ししたら戻るヨ」
彼はそう言って私の正面に椅子を置くとどっしりと腰掛けた。そして適当に近くにある本を抜いて、膝の上に置いてページをめくりはじめる。その姿をまじまじと眺めていると、夏目くんは本から目を上げて、読まないノ?と首をかしげた。
「何書いてあるか、わからないし」
「ふゥん」
「あのね、夏目くん」
「ナニ」
「……喧嘩して、家出してきたの」
唐突な私の言葉に夏目くんは目を丸くして、家出、と言葉を反芻した。私は一度頷いて言葉を繰り返す。
「そう、家出」
「仲直りの方法でもうらなってほしいのかイ?」
「違うよ」
私がきっぱりと言うと、夏目くんはまた目を丸くして、そう、と呟いた。読んでいた本を閉じて、私を頭の先からつま先までまじまじと見つめて、喧嘩ネ、と言葉を漏らす。何かを見ているのだろうか。占いの他にも先読みの能力がありました、なんて言われても不思議ではない。
しばらく彼は私を見つめて、意味ありげに息を吐いて、そしてまた本を開き始める。アドバイスを求めているわけではないが、そう意味深な態度を取られたら気にならなかったものも気になってしまう。
夏目くん、と私が呼ぶと彼はひどく鬱陶しそうに顔を上げた。不揃いに長く伸びた、赤い髪が揺れる。
「ナニ」
「さっきじっと見てたから、何かなって」
「別に何もないヨ」
夏目くんはまた本に目を落とす。どうやら教えてくれないようだ。心に引っ掛かりを感じながら私も同じようにページをめくる。時計の音すらしないこの空間で、ページをめくる音だけが響く。窓のないこの部屋ではどのくらい時間が経ったかわからない。内容が意味不明な本に、もやもやした気持ち。だけどこの部屋を出て行こうと思わない。それはきっと心のどこかで彼がそばにいるということに安心している自分がいるからだ。
「ボクは隣にいるだけでいいんでショ」
不意に夏目くんが呟く。私が顔を上げると、彼は本を読んだまま、違うノ?と言葉を続ける。
「……違わないよ」
誰もこない空間なんて、実はこの学院にはごまんとある。でもあえてここを選ぶのは、それ相応の理由がある。もしかしたら見透かされているのかもしれないな。端正な横顔を眺めながら、私はそんなことを思った。