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誕生日を祝うお話

 お疲れ様でした、と一言言い置いて職場を出ると、朝日の鋭い光が視界を覆った。日の出直後の世界はどうやらまだ寝ぼけているようで、世界はぼんやりと白に染まっている。パステルカラーの街を歩きながら、手をこすり合わせた。2月も後半にさしかかり寒さが緩んできた日も多くなってきたが、未だに厳しい寒さも続く。かつりかつりと音を鳴らしながら街を歩く。遠くの方で目覚ましの音が聞こえる。香ばしい朝食の香りもする。ああ、1日がはじまるんだと、眠い目をそうっとこすりながら大きくあくびをした。

 駅に続く大通りを歩きながら、今日は晴れるのかなあと空を見上げる。薄くたなびく白い雲は私に天気の行方を教えてくれない。晴れなら帰って洗濯物をして干す、雨ならそのまま洗濯を回さずに寝る。霞かかった頭の中でそんなことを考えていると、一台のタクシーが私の脇を通り過ぎた。と思うと少し前でタクシーが止まり、誰かがそこから降りてくる。ごうごうと燃えるような紅の髪が見えて、思わず私は足を止めた。

 真緒くんはタクシーの運転手さんといくつか言葉を交わして、扉を閉める。立ち止まっている私を見るなり嬉しそうに顔をほころばせながら、よお、と手を挙げた。

「姿見えたから、朝帰り仲間だな?」

 私が駆け寄ると真緒くんはもう冷え切ってしまった私の頬を両の手で挟む。冷たいなあと笑う彼に、真緒くんの手は暖かいね、と笑むと、彼もへへへ、といたずらっ子のように笑い、ちょうどいい塩梅かもな、と言った。

「お前も頑張るな?こんな朝早くまで」
「真緒くんほどじゃないよ、今日も収録?」
「そうそう、確か来週くらいの番組なんだけど」

 楽しみだねえ、と私が顔を綻ばせると、真緒くんは両手を私の頬から離し、そのまま腕をさげて私の右手をとると、俺の雄姿見てくれよ?と笑った。いつも見てるよ、と言葉を飲み込んで、返事代わりに一度強く手を握る。真緒くんは嬉しそうに笑みをこぼしながら、私の手を握り返してくれた。

 この手は、魔法の手だと思う。私が落ち込んでいるときも疲れている時も、彼にこうして手を握ってもらうだけで、引いてもらうだけでどれだけ幸せな気持ちになれたのか、もう数え切れない。見慣れた広い背中を見て、真緒くん、と小さく呟く。呟いた声はか細い吐息となって宙を漂う。聞こえてないだろうな、と思っていたのに、真緒くんは耳聡くその言葉をききつけて、嬉しそうに私の名前を呟いた。

「駅まで送るよ」

 ここから駅はそう遠くない。大通りだから危険だって少ない。でも彼の優しさが嬉しくて二つ返事で了承してしまった。私の息巻いた声を聞くと、真緒くんは笑い、ゆっくりと歩き出す。私も彼の暖かな体温を右手に感じながら、同じように歩き出した。

「今日の予定は?」
「とりあえずご飯食べたいな」
「アイスは寒いから食べるなよ?」
「うーん、どうしようかな?」

 私が悪戯に笑うと、彼は困ったように眉尻を下げながら、全くお前は、と微笑みを浮かべた。そして数歩歩いたところで歩みを止めて、その、と言葉をこぼす。私も同じように足を止めて彼からの言葉の続きを待った。

 そのとき。

 一陣の風が私と彼の間を吹き抜けた。一等に強い風で、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。ごうごうと駆け抜けた風に乗って、ふわりと、懐かしいような、ほんのり華やかで、少し青臭い、春の香りがした。吹き抜けた風の軌跡を二人で見つめて、顔を見合わせ笑う。今の見た?私が笑うと、すごかったな、と彼も、笑う。

「風に乗って花の香りがしたな、梅か?」

 そう言って眉を顰める彼に、私も梅かなあと彼の言葉をなぞる。何気なく街を見渡すと、ところどころむき出しの枝に、赤や白や、薄桃色の可愛らしい花が咲いている。そうか、もう春はそこまでやってきているのか。

「春がくるんだね」
「そうだな、春、春かあ」

 太陽がさらに登り始め、朝が色彩を穏やかに、でも確かに取り戻している。一日がいま、産声をあげている。1日が生まれゆく奇跡のような中に私たちはいま、存在しているのだ。

「今日の予定は?」
「さっきも言ったよ?まずご飯食べて寝て」
「その後は?」
「特に考えてないなあ」
「駅までって言ったけど、なら、一緒に帰ろう」

 真緒くんの一言に私は顔をあげる。彼の顔が赤いのは、朝焼けのせいか、それとも。

「朝起きて、一番に祝わせてほしい。誕生日、おめでとう」

 そう言うと彼は照れ臭そうに、今言っちゃったけどな、と笑みをこぼした。夜勤明けの高揚感と、覚えててくれた嬉しさと、相混じった高鳴る嬉しさに、私は彼の胸に飛び込んだ。真緒くんは一つ驚いたような声を上げたが、仕方ないやつだな、と一言つぶやいて、ひとつ、額にキスを落としてくれた。

「出会ってくれて、ありがとう」