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太陽はここに落ちてきた

 泊まらせてくれ!と部屋に転がり込むなり遠慮なくそう言ってのけた先輩に私は非難めいた視線を投げた。時刻は午後一時。最寄駅の終電が出発した少し後の時間。しとしとと降り注ぐ雨音を聞きながら、そろそろ寝ようかなと寝巻きに着替えた矢先の出来事だった。

 飲み会帰りだったのか先輩からは軽いお酒の匂いがして、なおも私を困らせる。異性を、しかも酔っ払いを簡単に部屋にあげてもいいものなのだろうか。顔の前で両手を合わせ拝み倒すがごとく必死に頼み込んでいる彼を無碍にもできずに、とりあえず上がってください、と私は折れた。滴を落とす彼のコートを受け取って踵を返すと、先輩は玄関のたたきに立ちすくんだままじっとこちらを見つめている。まるで捨て犬みたいだ、と思いながら、どうしたんですか?と声をかけると、

「女性の家に上がりこんでいいのだろうか」

 と彼は困惑の声を吐いた。迷うくらいなら初めから選択肢に入れないでほしいし、転がり込んでこないでほしい。そわそわと私の動向を気にする彼に、別にいいですから早く入ってください、と言葉を投げると、彼はそうか!と嬉しそうに笑い、そろりそろりと部屋の中に足を踏み入れた。

「すまないな、終電を逃してしまって、タクシーもなかなか捕まらなくて」
「ああ、今長蛇の列でしょうね……先輩、明日の仕事は?」
「明日は1日オフだ」

 女性の一人暮らしのこの家に男性ものの寝巻きなんてあるはずがない。タンスの奥から引っ張り出した高校のジャージと、フリーサイズのTシャツを手渡すと、先輩は申し訳なさそうにそれを受け取った。緑のラインの入ったジャージを見て先輩は、お前とあったのも三年の頃だったなあ、と嬉しそうに言葉を弾ませた。

「同じジャージを履いてたなあ俺も」
「そりゃ、学院指定のジャージですからね?」

 私の冷たい言葉にも彼は楽しいのかけらけらと笑い声をあげた。快活な性格はどうやら変わりないらしい。肩を揺らし笑うたびにぽつぽつと降り注ぐ滴に、ようやくそこで彼の頭が濡れていることに気がついた。そういえばコートもずぶ濡れだった。先輩の手にそっと触れると、守沢先輩は何を思ったのかその差し出した手をぎゅっと握りしめた。

「どうしたどうした!寂しいなら抱きしめてやろう……!」
「濡れてないかなって思ったんですけど、傘なかったんですか?」
「どうやら居酒屋で忘れてきたようでな!」
「元気に言うことじゃないです……そのままじゃ風邪ひきますね、タオル……より温もったほうがいいのか」

 人肌か!と彼は声を上げる。お風呂です!と私は負けじと返す。

「綺麗とは言い難いですが、シャワーならすぐに浴びれますよ、どうします?」
「そうだな、そこまでいただくのは厚かましいと思うが」
「大丈夫ですもう今でも十分厚かましいので」
「そうか」

 彼は安堵しきったように笑う。笑い事じゃないと思いながらも私は先輩をシャワールームへと案内した。案内したといってもワンルームマンションなので、部屋からシャワールームまでは数歩の距離しかない。

「シャンプーはそれ、コンディショナーはそれ、石鹸もお好きにどうぞ」
「すまない、化粧も落としていいだろうか」
「あー……すいません、化粧落としはそこのを使ってください。タオルとか着替えはここに置いておきますから」

 そういえば彼はアイドルだった。すっかり忘れていたけど。当たり前のように化粧をしているのか。ぱたりと閉まる扉の音と布が擦れる音に耳をすませながらシャワールームに背を向ける。部屋と廊下を仕切る厚手のカーテンを引いて、私は息を吐いた。週刊誌とかに撮られてないだろうな、そういや保湿とか化粧水とかも準備したほうがいいのだろうか。ぐるぐると考えながら客用布団を押入れから取り出す。廊下から漏れ出すシャワーの音に、ここに越してきてから誰かが来たのなんて初めてだと私は一人思った。さあさあと雨が降る。ざあざあとシャワーも流れる。水音に満ちた部屋の空気は、ほんの少しタバコ臭くて、ほんの少しだけ、浮かれていた。

 部屋の真ん中に鎮座している机を端に寄せて、ベッドの真横に布団を並べる。部屋がもう少し広ければ離れたところに引きたかったのだが、狭いからしょうがない。シーツを布団に包んでいると、どうやらシャワーを浴び終わったらしい先輩がカーテンからひょっこりと顔を出した。ドライヤーも済ましたらしく、先ほどまで雨でしなっていた髪の毛は柔らかく膨らんでいる。しかし。私は先輩のいで立ちに思わず笑いをこぼす。予想はしていたものの、私の着用していたジャージではやはりつんつるてんになってしまうらしい。寸足らずのズボンからは足首がしっかりと露出されており、フリーサイズのTシャツもどこかぱつぱつだ。

 まだ酔いが残っているらしく、先輩は笑う私に、このやろう、と言いながら戯れるように飛びかかってきた。私もわざとらしい悲鳴をあげながら身を縮める。先輩はそんな私を布団に押し倒すと、そのまま自分も布団に転がる。一人分の布団に二人で身を寄せ合い、あまりの馬鹿らしさに笑いをこぼす。ひとしきり笑ったところで私は身を起こした。

「じゃあ先輩はその布団を使ってくださいね、私はベッドで寝ます」

 だが先輩は私の言葉に頑なに首を振った。そして腕を伸ばすとそのまま私の腰を抱いて器用に抱き寄せる。これは酔ってるいたずらと処理していいのだろうか。守沢先輩は柔らかな表情を浮かべながら、聞いてくれないか、と口火を切った。

「お前のことが好きだった、いや、今も好きなのかもしれん、だからこうして」
「先輩、酔ってます?」
「そうだな、酔っ払いの戯言だ、聞き流してくれ。この気持ちが本物なら後日機会を改めるとしよう」

 先輩はそう言いながら私をきゅうきゅう抱きしめる。このまま寝よう、と呟くように提案する彼に、私はベッドがあります、と伝えるが一向に先輩は離してくれない。彼の髪の毛から私の使っているシャンプーの香りがする。私の髪も香っているのかな、と思うと先輩は嬉しそうに、同じ匂いがする、と呟いた。

「いいものだな」

 まるで寝言のように言葉を転がすと、かれは規則正しい寝息を立て始めてしまった。這い出れるかと思ったが彼の拘束は存外強く、抜け出せる気がしない。背中越しに感じる一定の呼吸のリズムを感じながら、先輩の言葉を思い返した。

「私だって先輩じゃなかったら追い返してるんですからね」

 雨は止まない。天気予報では明日も雨と言っていた。太陽が陰っている今ならきっと打ち明けても許されるだろう。幸福に包まれた空気に呟いた、すきです、の四文字はいつもより暖かい部屋に溶けて消えた。いつか「後日」があるなら、打ち明けるのはその時でも遅くはないだろう。