今先輩を思い出してました、と私が言うと、羽風先輩はそう、とだけ言いました。彼が目を穏やかに閉じます。金色のまつ毛が緩やかに揺れます。端正な横顔にはいつもの軽薄な笑みはなく、どうやらなにか考えているようで彼は目を伏せたままそこから動きません。もたれかかったフェンスから短い声が上がります。お昼の空は、様々な形をした雲が流れます。私はそれを見上げて、緩やかに輪郭が変わるそれらを眺めます。風が吹きました。先輩は、うん、と小さい声を出します。あまりにその声が小さいので、本当に先輩が発したのかわからなくて、風の音かもしれないと彼の方を見ると、先輩は体育座りをしながら、膝に頭を載せて、じいとこちらを眺めていました。
「今も俺の事考えてるの?」
どうでしょう。私は首をひねります。先程まで確かに先輩のことを考えていたら先輩がやってきて、隣に座って、そのあたりまでは先輩のことばかり考えていたのですが、今はどうかと言われると首を捻らなくてはいけません。形を変えていく雲に目を奪われていたと話せば、彼はどう思うでしょうか。なかなか答えない私に先輩は、じゃあ、と口にしながら私の方にもたれかかってきました。左肩から潮の香りがします。海の香りです。そして、羽風先輩の香りです。
「もう考えなくていいよ」
投げやりに空気を震わす言葉に驚いて私が彼の方に身体を向けると、先輩は私の胸を腹をなぞるように頭を落としてすとん、と膝の上に頭を転がしました。女の子の膝枕っていいよね。先程の口調とは一転、いつもの羽のような軽い言葉をはいて、彼は太ももに頭をこすりつけました。セクハラですよ、と伝えると、つれないなあ、と彼は笑います。笑いながら、その笑顔で、今日は俺をおやすみするよ、と言って笑いました。
「おやすみですか」
「そうそう、今日はアイドルの羽風薫も学生の羽風薫もみーんなおやすみ」
「じゃあなんて呼べばいいですか?」
「うーん」
冗談の思いつきだと思いますが、羽風先輩がとても真剣な表情になるので少しだけ怖くなってしまいました。ほんとうにやめるんですか。少しだけ震えた声で聞くと、先輩は今日だけね、と言って笑います。
「そうだ、せっかくだしきみもきみをやめよう」
「わたしもわたしを?」
「うん、やめやめ、そうしよそうしよ!」
彼があまりに素敵な考えだ!とでも言うように笑うので、それもいいかもしれない、と心の奥底に好奇心が疼きます。17年間私は私を生きてきましたが、私をやめるなんて初めての経験です。あまりの未知の世界に、どうすればいいですか、と彼に聞くと、彼はにんまりと笑って起き上がりました。屋上の床につけていた手をとって満面な笑顔を浮かべます。
「まずはプロデュースのことを忘れます、遊びに行こう」
「先輩いつもと言ってることが一緒です」
「そうかな?やだなあせっかく俺をやめたのに……でもきみはきみをやめるんだから、今日は乗ってくれるよね?」
「その後のプランにもよります」
「じゃあ海に行こう」
「すごく先輩っぽいですよ、そのチョイス」
「うーん難しいな、なら街?街もなあううん」
あまりに先輩が悩むので私は思わず笑い声を小さく零してしまいました。彼は目ざとくそれに気が付き、むっと頬をふくらませます。やはり慣れ親しんだ自分をやめるのは難しいことなのです。
無理しないでください、と私がまたくすりと笑うと、先輩は顔を上げて、散歩をしよう、と提案してきました。
「散歩?」
「そうそう、あてもなくぶらぶら」
「それは……先輩っぽくないんですか?」
「見くびられちゃ困るなあ、羽風薫なら散歩と言っても喜びそうなスポットをあらかじめチョイスしておくんだよ?今日はそれはない、行き当たりばったりの散歩」
「ふうん」
確かにそれは彼の言う通り羽風先輩らしくないと思ったので、私が大きく頷くと、肯定と取ったらしく先輩は私の手を引きました。いつものように優しく、ではなく、少しだけ荒々しく。今日は羽風薫じゃないからね。彼は悪戯に笑います。私も私じゃないんですよね。そう尋ねると彼はとても嬉しそうに、そうそう、と言って笑いました。
「先輩のこと、なんて呼べばいいですか」
「そうだなあ、じゃあダーリンでいいよ」
「ダーリン」
「俺はハニーって呼ぶ」
「たんぽぽじゃなくてですか」
「だって俺羽風薫じゃないし」
「そうですね」
少しだけ恥ずかしいような気がしましたが、先程まで曇っていた彼の顔が晴れやかに笑うので、私は口をつぐみます。
「じゃあ行こうかハニー」
「……そうですね、ダーリン」
夏の雲がせわしなく形を変えるから、私たちが私たちをやめる日があってもいいんじゃかいかと、そんなふうに思えてきました。夏の雲が風に誘われて輪郭を変えます。その風に吹かれて、私たちも少しだけ、私たちを抜け出します。
雲は輪郭を変えて、新しい私たちを見守ります。羽風薫をお休みした彼の新しい背中は、いつもよりもわくわくを滲ませていました。