叫ぶように絞り出した声は、雑踏の中を突くように吹き抜けた。人間違いだったらどうしようだとか、そう言えば俺はアイドルだっただとか、そんな後悔は後からやってきたけれど群衆は少しざわついただけで平然と自分の世界に戻っていった。
ただひとり。ただひとりだけだけ俺の声に気付き、振り返り、じっとこちらを見つめる姿がある。人々が行き交う中その輪郭はやけに明瞭に見えて、もう1度、胸に浮かぶ彼女の名を呼ぶ。その声が届いたのか届いていないのかは定かではない。しかし薫が声をあげて数秒、彼女は驚いたように目を瞬かせて一言、先輩?と呟いた。それは本当に小さい声だったと思う。しかし薫の耳にはちゃんと彼女の声が届いていた。
苗字を出さないのは彼女なりの配慮なのだろうか。それとも確証がないから?不安そうにこちらを見つめる瞳があまりにいじらしくて、薫の足は自然と走り出していた。
あの頃は色気の無いスニーカーだったのに今ではミュールを履いて。顔にはほんのり化粧も施されていて。息を切らし駆け寄った懐かしい彼女の姿は面影を残しつつも完全に大人の姿だった。大人っぽくなったね、と言葉を絞り出す薫に対して彼女は驚いたように目を丸め、そして表情を緩めて、失礼なもの言いですね、と肩を揺らし笑った。
「お元気そうで何よりです、高校ぶり以来ですか?」
「そうだね……久しぶり」
昔はもっと気の利いた言葉がポンポンと飛び出してきたはずなのに、彼女を目の前にすると言葉がすぼんでしまう。会いたかっただとか、今何してるのだとか、伝えたい言葉は胸の中で暴れるのになかなか喉を通り過ぎてくれない。なんとか絞り出した、綺麗になったね、の一言に彼女はあの頃のような無邪気な笑顔を浮かべて薫を見た。
「先輩はお変わりないようで」
「どういう意味?」
「唐突に口説き出す所、変わってないなあと思いまして」
彼女の言葉に言葉を窮す薫。あの頃の俺ってそんなふうに見えてたの?そう尋ねると彼女はくすくすと笑い声を漏らしながら首を縦に振った。薫は眉を寄せながら頭の中で自分の所業を回想する。思い出せば思い出すほど溢れる彼女を口説いた記憶。道端であっては口説き、会いに行っては甘い言葉を吐いて。そう思われても仕方ないなと思わず苦笑を零す。彼女はそんな薫の姿を笑いながら見つめ、でも嫌いじゃなかったんですよ、と呟いた。
「え?」
「昔はちょっと怖かったですけど、先輩いなくなってしばらくすごく寂しくて、私実は嫌じゃなかったんだなあと思ったんです」
「なにそれ言ってよ!」
「言ってっていない人にどう言えばいいんですか」
「晃牙くん経由とかアドニスくん経由とかいっぱいあったでしょ」
「そんなしょうもない話を二人に話せって言うんですか」
彼女が控えめな笑い声を漏らすと同時に、後ろの方から囁くように「羽風薫?」という声が響いた。そういえば忘れていた、ここは公道の真ん中。軽く変装はしているが長居は安全ではない。彼女もそのことを悟ったのかじっと薫を見つめて、そろそろタイムリミットみたいですね、と微笑んだ。言わんとしていることがわかって思わず薫は彼女の腕を掴む。驚き見開かれる瞳。彼女の瞳に自分の姿を見て、薫は思わず苦笑を浮かべた。ああなんて必死。なにが「気ままに漂う」だ。学生時代のキャッチコピーを思い出してまた笑みを重ねる。きっとずっと自分の気持ちは同じところを回ってた。彼女の周りを、まるで旋風のように。
「そんな話して、逃がせって言うの?」
「先輩?」
「場所を変えよう、聞きたいことがたくさんあるんだ」
今までのこと、これからのこと。ずっと言えなかった言葉。ずっと伝えたかった言葉。心に巣食う言葉は今無理に口にする必要はない。これからゆっくり紡いでいけばいいのだ。
強引に手を引くと彼女の驚いた声が響いた。遠くで聞き覚えのない、自分の名前をなぞる声が聞こえる。振り返って声の主であろう女の子たちに人差し指を立てウィンクを飛ばす。繋いだ手の先から、先輩、という少し呆れた調子の声が聞こえた。そんなことは構わず薫は前を向くと再び走り始めた。
心に火が灯る。その光に焚きつけられるがまま、決して消えぬように、繋いだ手を離さぬように、軽やかに、前へ。