DropFrame

夏を待ってる

 遠くの方で私を呼ぶ声がしたような気がした。曇天の下、灰色がかった海はほんの少し生ぬるい。夏が来る少し前。梅雨明けを待ちわびるグズグズな空を映しながら、海は今日も波を広げていた。スカートを腰で折って、ローファーの中に靴下を入れ込んで海へと入る。波は脛にあたってはひいて、ひいてはあたって、穏やかな音を立てながら私の周りを漂い遊ぶ。
 ぼんやりと波を感じていると、先ほどより苛立った声色で鋭く名前を叫ばれた。振り返ると堤防の向こうで自転車を片手に大神君が呆れたようにこちらを見下ろしている。なにしてんだよ。彼の問いに私は曖昧に笑い、秘密だよ、と呟く。どうせ大した理由もないんだろ。お見通しな言葉を吐いて彼は堤防に自転車を立てかける。自転車は堤防とぶつかり悲鳴をあげたが、大神君はそちらに見向きもしないで砂浜に降り立ち海に漂う私の下へと歩み寄ってきた。

「まだ季節には早えだろ」
「もうすぐだよ、でも」
「もうちょっと待てなかったのかよ」
「うん」

 素直に頷くと彼は深くため息を吐いた。波の来ない位置。安全地帯に彼は立ち、じっとこちらを見ている。生足。ぽつりと彼が呟く。呟いた直後にばつがわるそうに舌を打って、なんでもねえ、と吐き捨てた。私は自分の足を見つめて、生足だねえ、と呟く。さすがに靴下で海に入るほどバカではない。ざばりざばりと波が音を立てながら脛に絡まる。大神君はちらりと私の方を見て、視線を下に向けて、眉を寄せる。

「あんまりその、すんなよ」
「なにを」
「だからその」

 彼は言葉を詰まらせて、苛立ったようにひとつ吠えた。そして私のローファーを片手で引っ掴むとそのまま手を差し出す。近付いてその手を取ると大神君は力任せに腕を引っ張った。張力の赴くまま、私の体は彼に引き寄せられる。

「少しは危機感持てってんだ!」
「うわっ」

 思いの外縮められた距離に悲鳴をあげた私を、彼は黙って見下ろしていた。濡れた素足に砂が絡まる。波の切れ端が足の裏の砂をざりざりと攫っていく。彼の手は私の腕を握ったまま。口は真一文字に結び、瞳に困惑の色をにじませている。

「お前」

 吐息がかかる距離。意識しないと近付けない距離。大神君の低い声が耳元で響く。

「……帰るぞ」

 何かを言いかけて彼はやめた。裸足の私なんて御構い無しに、彼はローファーを返すことなく腕をひいて歩き出した。柔い砂が指の間や足裏に潜り込む。靴を返して、と言うと彼は振り返って、面倒臭そうにため息をひとつ。

「うるせえよ」

 そう言葉を吐いて大神君は私を持ち上げるとまた砂浜を歩き出した。途切れた二人分の足跡を見ながら、恥ずかしくないの?と尋ねる。大神君は少し恥ずかしそうに、うっせえ、と言葉を吐いて、ずんずんと堤防の方へと歩く。

 足裏から剥がれた砂が潮風に乗って飛んでいく。潮に混じった大神君の香りが鼻先をかすめたので、大神君の香りがするね、とつぶやいたら、次喋ったら殺す、なんて物騒な言葉が返ってきた。大神君は暖かいね、なんて浮かんできた言葉をそっと胸奥にしまって彼の肩にしがみついた。彼の髪の毛から、雲に隠れてしまった太陽の香りがした。夏の、香りがした。