DropFrame

繋がれた指のその先

 ひとつだけ約束してほしい。

 彼はあのとき倒れた私に小指を差し出しながらこう言った。俺でなくてもいい、誰かに頼れ。心底心配した顔で、まるで小さい子に言い聞かせるように言葉を吐くので、私はひどく恥ずかしくなってしまった。消毒液の香りが満ちる保健室。真っ白な天井、クリーム色のカーテン、全てが白に染まる世界で、彼の紫が鮮やかに揺れる。うまく働かない頭でなんかと言い訳を返そうと思ったがどうにも言葉が出てこない。出てこないから、鉛のように重い腕を持ち上げて、彼の小指に自分の小指を結んだのだ。指の節に、間に感じる雄々しい骨ばった指。彼は末端までこれほどたくましいのか。
 アドニスくんは絡む指を見つめてもう一度繰り返す。無理はしないでくれ。重い瞼をなんとか持ち上げながら私は彼の言葉に頷く。そこから先は、記憶にない。

***

「お前倒れたんだってな」

 晃牙くんの言葉に反応したのは私よりも羽風先輩の方が早く、弁明しようとする私の言葉を遮るように、大丈夫なの?!と声を荒らげた。季節は夏、入道雲が大きく膨らみ浮かぶ季節。絵画のような真っ青な空から存分に光が入る昼下がりの軽音楽部室にはUNDEADのメンバーが集まっていた。集まっていたといってもユニットの頭である朔間先輩は棺桶の中。他の三人が各々楽器のパートを練習しているだけだ。ダンスの本格的な練習は日が落ちた夕刻から始まる。普段は晃牙くんとアドニスくんだけが集まるのに、今日は珍しくお昼から羽風先輩がここにいた。どうやら先生に捕まったらしい。

「大丈夫です、ちょっと目眩がして、気が付いたら保健室にいて」
「いやそれ絶対大丈夫じゃないから、きみさ、ちゃんと食べてる?アドニスくんじゃないけど心配しちゃうよ、何か食べる?」

 先輩はわざわざ自分のカバンの元まで走り、中身を漁って袋菓子を私に投げて寄越した。宙を飛ぶ袋を落とさないようにとっさにキャッチする。コンビニでよく売っている5つ入りのクッキーだ。羽風先輩は、ごめんねそれしかなかった、といい両手を顔の前で合わせるが、その気持ちが嬉しくて私は首を横に振る。

「んな腹満たねえもんやってどうすんだよ」
「君たちみたいにいつもがっつりした食べ物をもってるわけないでしょ」

 がっつりした食べ物、という単語にアドニスくんは動きを止める。譜面を追っていた彼はどうやら会話を聞いていなかったようで、不思議そうに辺りを見回す。ちょうど目があったのだろう、なんだよ、と晃牙くんが吠える。

「大神、腹が減ったのか?」
「ああ?俺じゃねえよコイツだ」
「減ってませんし、だいたい倒れたのは今日じゃないですよ、ちょっと前の話です」
「ああ、あの日の」

 アドニスくんが納得したように首を縦に振る。そして、体調は大丈夫か?と言葉を続けたので私は曖昧に笑った。体調が万全かと言われればそうではない。連日続く猛暑に体が正直参ってしまっているのだ。ただ頭がいたいだの、咳がでるだのそういった症状はない。食欲がただ失せているだけだ。あと少しの寝不足。こんなの椚先生に見つかっちゃうと怒られちゃうなあ。そう思いながら肩をすくめると、羽風先輩は不安そうにこちらを見つめている。

「うーん心配だなあ、もしかしてダイエットとか?」
「ダイエットだとして結果がこれじゃあお粗末すぎるだろ」
「……あー。私今すっごく晃牙くんのお金で焼肉が食べたくなってきた」
「お!ワンちゃん気前いいなあ!俺も俺も!」
「うっせえテメエら自分の金で行け!」

 焼肉か!とワンテンポ遅れてアドニスくんが顔を輝かせる。焼肉!焼肉!と煽るように騒ぐ羽風先輩に晃牙くんは持っていた楽譜を机に叩きつけて、うるせえ!と声を張り上げた。その音に呼応するように棺桶から鈍く響く壁を殴る音。どうやら騒ぎすぎたらしい。私たちの視線は一挙に棺桶に集まり、そして四人で顔を見合わせた。先ほどよりもふたまわりほど小さい声でアドニスくんが呟く。焼肉。羽風先輩も答える。俺今度の水と木は暇。私が手帳を開きながら、ならUNDEADの練習を入れておきますね、と伝えると、羽風先輩は露骨に顔を歪めた。吠え声を封印されてしまった晃牙くんは眉を寄せながら深々とため息を吐いていた。

***

 賑やかな昼練習が終わり、そのまま朔間先輩を交えてのダンス練習を終えた頃には日はどっぷりと暮れていた。晃牙くんと羽風先輩はお昼から参加していたのもあり、流石に疲れが出てきているのだろう。帰宅する後ろ姿もぐったりと項垂れていた。まだ片付けが残っていた私が二人に声をかけて手を振ると、彼らは弱弱しく片手を上げるだけで歩き去ってしまった。今日の練習はハードだったもんね。ため息をつきながら借りてきた資材をまとめて書類に丸をつけていく。アドニスくんは体力が余っているのか、機材をそれぞれ元あった場所に運んでくれた。
 朔間先輩はというとある程度は手伝ってくれたのだが、

「ならあとは若い二人で」

 とぽつりつぶやいて部屋から出て行ってしまった。練習後のアイドルたちに手伝ってもらうのはどうかと思っていたので構わないのだけれども、もうちょっと言い方があっただろう。まるで親戚のおじさんを彷彿するような物言いに苦笑を零すと、どうやらアドニスくんは朔間先輩が去ってしまったことに対してのそれだと思ったらしく、

「大丈夫だ、俺がその分働こう」

 と重厚なスピーカーを持ち上げて部屋の奥へと持って行ってしまった。
 そうではないのだけれど。床に転がる配線をまとめながらアドニスくんの背中を見る。気のせいでなければあの倒れた日から、彼はやたらと私にかまってくれるようになった気がする。気にしすぎなんじゃないかな、とも思うが例えば逆の立場ーーアドニスくんが倒れて私が介抱していたとしたら、その後数日はいつも以上に心配してしまうだろう。

「なんかごめんね」
「なにがだ」
「こうして片付け手伝ってくれたりとか、ほらこの前も迷惑かけちゃったし」

 アドニスくんは表情を緩めると、気にしていない、と言ってもう一つスピーカーを持ち上げる。コードがどうやら繋がれたままだったらしく、アドニスくんは一度床にスピーカーを下ろす。私が駆け寄って後ろの配線を抜くと、彼はありがとう、と一言置いて自らの身長ほどあるそれを軽々しく持ち上げて運んだ。逞しいなと思う。ぼんやりとした記憶しかないが、彼の太い小指を思い出しながら配線をくるくると巻く。私の貧弱なそれとは大違い。部屋の隅へ伝うコードは巻いても巻いてもなかなか終わらない。歩きながらまとめていると、アドニスくんが、次はなにがある、と尋ねてきた。ダンスの映像確認の際に使ったテレビが部屋の中途半端な位置に鎮座していたので端に寄せてくれるようお願いしたら彼は嬉しそうに頷いてテレビへと歩み寄った。

「なんだかアドニスくん楽しそう」
「楽しいわけではないが」
「ないが?」
「お前がこうやって頼ってくれることは嬉しい」

 ふ、と短い息を吐いて彼はテレビを持ち上げる。防音練習室の大きな鏡に映る彼の顔はどこか晴れやかで、その言葉に嘘がないことを示している。大きな背中が力を入れるたびゆっくりと動く。あれだけ強い力があったのに、小指に絡めた指はとても優しかったのだ。

「約束したもんね」

 ぽつりと、私が呟く。アドニスくんはテレビを床に置くと汗をぬぐって、覚えていたのか、と目を丸くした。

「あの後すぐに寝てしまったから、覚えていないかと」
「ぼんやりとだけど、指切りげんまんしたなって」
「ゆびきりげんまん?」
「ほら小指と小指」

 ああ。彼は合点したのか頷くと自分の手のひらを見つめる。小指を伸ばし蛍光灯にかざすように見つめて彼はぽつりと、ゆびきりげんまんというのだな、と呟いた。確かに日本に詳しくない彼がとっさに小指を出すなんて少し不思議な話だ。あの時は意識が朦朧としていたから気に留めなかったけど。私も小指を立ててじっと見つめながら、誰に教わったの?と尋ねた。アドニスくんが私を見る。私も顔を上げて彼を見つめた。お互い小指を立てた不思議な状態で目があったので、思わず破顔してしまう。アドニスくんは腕を下ろすとそのまま私の方へと歩き始めた。

「神崎に」
「ああ、そうなんだ」
「大切なことを約束するときにはこうするのだと聞いた、だが、少し恥ずかしいな」

 へらり、と表情を崩す彼に胸がどくりと高鳴る。そんな私の鼓動など御構い無しに彼は未だ立てたままの私の小指に自分のそれを絡ませるとゆっくりと持ち上げた。つられるように宙へ浮かぶ私の手。絡まる、太さの違う小指。小指の先にはアドニスくんの紅茶色の瞳がぽっかりと浮かんでいた。

「でも」
「で、でも?」
「悪くはない」

 指先の向こうで、彼が緩く笑う。もう無理はするなよ、と笑う彼に、私はただただ頷くしかできなかった。