後悔すべきかどうか、迷っていることがある。後悔してしまうとそれは彼の決意を無下にしてしまう気がして、離れていた時間をふいにしてしまう気がして、胸の奥底にしまっていた事柄がある。
数年越しに出会った先輩はいつもと変わらない笑顔で、だけど瞳には迷いの色を滲ませていた。久しぶりだね、元気だった?当たり前のように差し出そうとした手を先輩は慌てて引っ込めて、じっと私を見つめる。学生時代勝気だった羽風先輩の面影など感じさせないくらい、おそるおそる、彼は私の名前を紡いだ。
そんな姿を見つめながらぼんやりと冬の日を思い出す。先輩が私と最後に手をつないだ、3月を。
暦の上ではもう春が来ているはずなのに、冬の濃さが薄まらない日々が続いていた。手袋もマフラーも手放すことができない。冷気をまとった空気は容赦なく防寒具を縫い私の体を冷やしていく。宵の空気に冷やされた街を歩きながら、ぶるりと身を震わせる。
年度末だからなのか、それとも仕事が単に重なっただけなのか。ライブの希望や仕事の依頼、ユニットから提案された企画書など、鞄の中にはこれでもかというほど仕事が詰まっていた。あまりにも膨大な量なので、生徒会の皆様の助力をお借りしようとも考えたのだけれど、世代交代で忙しいと真緒くんがぼやいていたことを思い出してやめた。少しだけ無理をすれば終わらない量でもない。時間に追われながら日々仕事に費やしていると気がつけば最終下校時間間近になることも少なくない。その日も例に漏れず日が落ちてから靴を履き替えて学院を飛び出した。
太陽が落ちてしばらくたった街は、隅々まで冬の寒さがしみ込んでいるようだ。気温で冷やされた風は落ち葉を巻き上げながら容赦なく私の脇を通り過ぎた。慌ててスカートを抑えながら、飛んでいく落ち葉を見送る。それらはからりからりとご機嫌な音を立てながらアスファルトを撫でて転がる。小走りで駆け寄ってつま先でそれを踏むと乾いた音とともに落ち葉は砕けた。仕事もこうやって減ればいいのになあ。半ば八つ当たりのように落ち葉を踏み鳴らしながら、冬の道を一人歩く。
それにしても今日は寒い。もう三月だというのに春の陽気など一欠片も感じられない。かろうじてバレンタインからホワイトデーへと移行する街の装いに「三月」を感じることもできるが、なかなか気温は季節に追いついてくれないらしい。本当に一月先には桜が咲くのかしら。マフラーをきつく巻き直しながらため息を吐く。明日はもうちょっと暖かい服装にしよう。着膨れしてしまうけど寒さに勝てるものは、ない。
タンスに眠っている洋服を思い出しながら歩いていると、また大きな風が後ろから前へと通り過ぎた。マフラーが風に遊ばれて大きくたなびく。スカートよりも慌ててそちらを掴むと、背後から誰かの驚嘆の声が響いた。間髪なく響く走り寄る足音。腰元に軽い衝撃と、膝裏に布の擦れる感触。腿あたりにかすかな暖かさを感じながら私は突如やってきた人影に目を向けた。
「羽風先輩?」
「っと……危ない危ない、全く無防備なんだから」
長袖カッターシャツ姿の先輩は苦笑を浮かべながら私を見下ろしていた。どうしてこの寒いのにシャツなんですか、と浮かんだ疑問を口にしようとしたが、すぐさま口を閉じる。腰元の違和感。マフラーを攫うほどの大きな風。驚く声。そしてーー。
恐る恐る足元に目線を落とすと、ああ予想通り。見慣れた水色の布がまるでスカートを隠すように腰元でゆらゆらとはためいていた。状況を理解して私は慌ててスカートの裾を抑えながら先輩に頭を下げる。
「せ、せせ先輩すいません!お見苦しいものを見せてしまい……」
「大丈夫見えてない見えてない、見苦しいってどんなの履いてるの」
ほら顔をあげて。先輩の優しい声色に私はゆっくりと顔をあげる。本当に見えてませんか?と首をかしげると、先輩は笑って、ほんとほんと、と言いながら腰元からブレザーを離す。そのままそれを羽織るとちらりと私の方へと目線を投げて、見惚れた?と一つウィンクを投げてきた。無言で顔を曇らせると、先輩は呆れたように肩を竦め、
「顔に出ちゃってるよプロデューサーさん」
と小言を零す。先ほどの行動はとても嬉しかったのだけれど、羽風先輩はどうも一言で全てを台無しにしてしまうようだ。呆れた物言いに思わず顔を曇らせてしまうが、先輩はどうも気にしていないらしい。しれっと隣に並び立つと同じ歩調で歩き出して、一緒に帰ろ、と笑顔を浮かべた。
「え、先輩こっち方面でしたっけ」
「うんそうそう、こっち方面」
「うそくさい……」
「ほんとだって、ほらほら帰ろう」
言葉を濁している間に先輩は私の寒さで赤くなった指先を取ると、さも当たり前のようにそれを握り込んだ。慣れない過度のスキンシップに目を丸くして先輩を見上げると、彼は微笑みを浮かべながら
「だめ?お互い手袋ないし丁度いいんじゃない?」
とさらに強く握りこむ。先輩の手は冬を感じさせないほどに暖かい。大人しく握り込まれながら、十分暖かいじゃないですか、と小言を零す私に、羽風先輩は穏やかな笑みを湛えていた。ただただ笑みを浮かべながらじっと私を見つめている。いつもならキャッチボールのようにすぐに言葉を返すのに、先輩は何も言わない。もしかして言いすぎてしまったのかもしれない。謝ろうと口を開くと、先に先輩の言葉が響いた。
「そうでもないよ、ねえ、あっためてよプロデューサーさん」
それはいつもの軽い響きではない、絞り出すような声だった。そして言い切ると、彼は強引につないだ手を引っ張って歩き出した。そこにはいつもの軽薄な空気はなく、ピンと、張り詰めた空気だけが残る。冬の寒さに似た、冷たさ。慌てて、すいません、と口にすると、先輩は、別に謝られることはなにもないけど、と振り返らず言った。ただ握られた手はほんの少しだけ強くなっていて、怒ってますか?と私は思わず尋ねてしまう。彼はようやく振り返り、歩みを止めた。キョトンとした顔をして、そして笑って、怒ってないよ、と一言。
「帰ろう帰ろう、せっかく君と帰れるのにこんな空気になるのはもったいないしね」
「何かありましたか?」
「うーん、ちょっとだけね」
言葉を濁す先輩に、聞いて欲しくない事柄と察した私は口を噤む。たまにこういうことがある。彼はずけずけと人のテリトリーに入ってくるくせに、自分の陣地に入られると気を悪くする節がある。でもそれを人に察しさせることに長けているからそこまで大きな衝突は起こしたことがないらしい。
しかしその日の私はどうも彼の行動が不自然で、不安定に思えたから、一歩踏み込んでしまったのだ。
「女の子にフラれましたか?」
彼は目線だけこちらに向けて、うんまあそんな感じ、と事もなさげに呟いた。そして警告にも似た声色で、今日は結構聞いてくるね?と笑う。からからと転がる落ち葉の音を聞きながら私は一度頷く。先輩は困ったように眉を下げて、一度目を伏せる。そして歩みを止めた。遅れて私も足を止める。先輩は長い睫毛を揺らしながらゆっくりと目を開いて
「今日、最後にしようと思うんだ」
羽風先輩はそう言うとこちらに顔を向けた。最後。繰り返す私に先輩は相好を崩し、つないである手を緩めた。次第に離れる手、温もり。羽風先輩は名残惜しそうに自分の手を見て、握りしめて、私に向き合う。何かを伝えようとしている。それも大切な何かを。私も羽風先輩と相対するように体を彼の方に向ける。
「こうやって誰かと手をつなぐのとか、今日が最後。ちゃんといつか伝えるけど、最後は君がいいなと思って」
この時、私は彼が何を伝えたかったのか、一欠片もわからなかった。だけど彼にとって大切な覚悟で、最後の機会を私にくれた事は漠然と伝わった。ありがとうを言うのも違うような気がして、ただただ揺れる瞳を見つめた。
あれはそう高校二年生、3月上旬の話だ。春が街にやってくる、少し前の話。返礼祭が催される、数週間前の話。その日から、彼が「身辺整理」を打ち明けてくれた返礼祭の日も、そして卒業するまで、彼は一度たりとも手をつなぐ事はなかった。私は寂しいとか悲しいとか、そんなありきたりな気持ちを胸に抱きながら卒業する背中を見送った。しかし成長した今ならそんな先輩の決意も背景も漠然とだが分かった気がした。
手を引っ込めて言葉を探す先輩に、痩せましたか、と聞くと、少しだけね、と彼は笑った。彼が激務を強いられている事は小耳に挟んでいるし、それがアイドルの登竜門だという事も知っていた。アイドルになるとは並大抵の事ではない。しかしそれを彼は甘んじて受け入れて邁進しているのだ。
「先輩頑張ってるの、よく聞きますよ」
「そう?なんだか照れちゃうな」
「女性問題のスキャンダルとかすぐ起こしちゃうんじゃないかなって思ってたんですけど、心配いらなさそうですね?」
「信用ないなあ、やめたよ、そういうことは」
先輩は笑い、私も釣られるように笑った。そして彼は笑いながら、あれから誰とも手をつないでないよ、とまるで秘密を打ち明けるように声を潜めた。握手会もですか?と私が同じように小声で囁くと、あれはノーカン、と先輩は笑う。その笑顔が高校の頃見ていた笑顔と重なって、不意に泣きたくなってしまった。遠くへ行ってしまったと思っていたのに、私の知っている先輩は確かに息づいているのだ。
先輩は一度自分の腿の隣で拳を握ると私に手を差し出した。言われずとも私は自分の手をその上に重ねる。彼はまるで壊れ物を扱うかのように両手で私の手を包んで、深く、深いため息を吐いた。
「あの日から、次に繋ぐのはアイドルになってからかなと思ってた」
「え?!じゃあこれから女の子に手を出しまくるんですか?」
「そうじゃないよ、一人だけに絞ろうと思って」
彼は私の両手を自らの方へと引き寄せてまるで祈るように目を閉じた。心なしか手が震えていて、空いてる方の手で私も彼の手の甲を包む。羽風先輩は目を薄く開いて、
「なんか情けないな、自分でけじめをつけたのに」
「そんなことないですよ」
繋がれた手はあの日のように暖かかった。あれから随分と時間が経った気がするのに、私の頭の中にあの日の彼の体温が思い出される。
「離れちゃったらまた、つなぎ直せばいいんです」
かなわないなあ。先輩は笑う。笑って私の手を離した。私も彼の手の甲から指先を離す。離したのに、両手に輪郭のない彼の温もりが灯っている。
「君との関係もさ、繋ぎ直せる?」
「私先輩との関係切れた覚えないんですけど、え、身辺整理ってもしかして私も含まれてたんですか?」
先輩は私の言葉に驚いたように目を丸めて、そして晴れやかに笑い出した。
「……秘密!」
羽風先輩は私の肩に手を置いて幾度か叩いた。そのまま歩き出してしまったので、見送るように彼の背中を目線で追う。先輩は振り返って人差し指を唇に当てる。当てたまま、内緒話をするように小さく口を開いた。
「一緒に出たらばれちゃうから今夜10時に駅の南改札ね。会っちゃったら逃す気はなかったし」
「私まだ仕事残ってるんですけど」
「俺と仕事どっちが大切なの?」
「仕事!」
「変わらないねえ」
羽風先輩は笑う。でも今日は俺を優先してね。そう言い残すと彼は颯爽と歩き出してしまった。小さくなる彼を見送りながら頭の中で残っている仕事を数えて、その中で人に振れそうなもの、明日に回していいものを精査する。どうにか10時には間に合いそうだ。頭のそろばんがはじき出した計算を信じて、私も自分の部署室へとつま先を向けた。
あの日、彼に一歩踏み出したことを悔やむか迷っていた。でも今思い返すとあの日彼に一歩踏み入れなければ最後の一人にも、再開の一人にもなれなかったんじゃないかなと、そう思う。きっとすべての決断は今日につながっていた、そう信じて。
歩む足取りは軽い。時計の針が進むのを楽しみにしながら、私は廊下を闊歩した。両手に灯る温もりは、どうやら当分消えてくれそうにもない。