DropFrame

君色

 雨が降っていた。篠突く雨というよりは穏やかに街を濡らしていくような雨が降っていた。霧雨のように降り続ける雨粒はまるで薄い白のカーテンをなびかせるように目の前の景色を曇らせる。天気予報では夜までもつと言っていたのに。予想を裏切り何食わぬ顔で雨を降らせる雨雲を見つめて私は肩を落とした。こういうことならちゃんとした傘を持ってこればよかった。
 カバンの中に常備してある折り畳み傘は浅いし小さい。横殴りの雨じゃないことを感謝するべきか。カバンの奥底に入っているそれを手探りで探しながら玄関へと足を向ける。教科書やノート、書類の中から指先が折り畳み傘を見つけた丁度その時、呆然と雨を見つめる友人の後ろ姿を見つけた。

「アドニスくん、傘ないの?」
「ああ」

 アドニスくんは私が声をかけるまで困ったように雨が降りしきる街を眺めていた。傘を持っていないところを見るとどうやら彼もこの天気に踊らされた一人らしい。私が彼に話しかけると、アドニスくんは眉を下げながら微笑み、降っているな、と息を吐いた。

「置き傘は?」
「今日はない」
「そっかあ……」

 困ったねえ。私が言うと、アドニスくんも表情を緩めて、困ったな、と返してくれた。人も疎らな下足室に二人のため息が響く。通り雨なら待っていようかと提案するのだけれど、この雨はそういった類ではない気がする。確か天気予報のお姉さんは今日の夜から明日1日ずっと雨だって言ってた気がするし。灰色の空を見上げて、困ったねえと繰り返すと、アドニスくんは両眉を顰めながら、止みそうにないな、と呟く。止みそうにないね、と私も言葉をこぼして、広がる水浸しの街を見つめた。

「傘、使う?」

 何事も平然とこなす彼があまりに困った顔をしていたから、咄嗟に声が出たのだと思う。カバンの中から折り畳み傘をひっつかみ彼に向けると、アドニスくんは少し眉を下げて、お前は?と口にする。勿論2本目の傘なんてもっていないが正直に話すときっとアドニスくんは受け取ってくれないだろう。私は頭を横に振って笑顔を浮かべた。

「私は大丈夫、小さいからアドニスくんちょっと濡れちゃうけど、ないよりマシだと思うよ」

 その一言にアドニスくんは少し悩んだようにじいと折り畳み傘を見つめた。そして、助かる、と一言呟くと私から折り畳み傘を受け取りカバーを外す。ぱすん、という小さい音と共に広がる水色の傘。開いた傘の柄を肩にかける彼の姿を見ると、やはり予想通り私の折り畳み傘ではアドニスくんの広い肩を守ってくれない気がした。

「もう少し大きな傘だったらよかったんだけど」
「いや十分だ」

 そう笑む彼を見て私も微笑みをこぼしながら、ぼんやりとどうやって帰ろうかなと考える。濡れて帰るのは必至なのだけど問題は帰るタイミングだ。うっかりアドニスくんにずぶ濡れを見られてしまうと彼は責任を感じてしまうに違いない。それはできるだけ避けたい。窓の外はしとしとと穏やかに降る雨。これ以上弱くもならないが強くもなりそうもない。少しだけ教室で時間を潰すのが正解なのかもしれない。
 そう決めてアドニスくんに別れを告げようと口を開くと、彼は私に歩み寄って傘を私の方へと傾ける。驚いてアドニスくんの顔を見上げる私に、彼は苦笑を浮かべながら

「傘は一つだけだろう、一緒に帰ろう」

 どうやら彼には全てお見通しだったらしい。断る理由も見つからず、少しだけ照れながら私は彼に寄り添った。

 夏を予感させる暑さは雨のおかげで緩和されていた。お互い肩を濡らしながら小さい傘に寄せ合って歩く。濡れてない?お前こそ。そんな言葉を会話会話に挟みながら、時折視線を合わせてははにかみ笑う。何度も歩いたはずの道なのになぜだか今日は初めて歩く道のようにドキドキする。それはきっと彼が隣にいるからだろう。普段では考えられないほどの近い距離で、水たまりを跳ねながら、砂利を踏みながら、ただただ歩く。
 普段は無口なアドニスくんは、小さな傘の下では普段より少しだけ雄弁だった。最近雨が多いな。部活はできないがその分ユニットの練習に当てている。先輩たちは来ないが大神は付き合ってくれる。傘に反響したアドニスくんの声が雨音と共に耳に届く。
 今日はおしゃべりだね。嬉しくなってそう伝えると、彼は私の言葉を逆の意味で捉えたらしい。うるさかっただろうか、と眉尻を下げるアドニスくんに私は慌てて頭を横に振って、そんなことないと伝える。

「でも部活できないのはちょっと残念だよね、早く梅雨終わらないかなあ」
「梅雨は嫌いか?」
「うーん、好きではないかも」

 雨だと髪の毛が跳ねるし、靴も濡れちゃうし。目線を地面に落とすと、もはや水に濡れて変色しきっているローファーが目に入った。それはアドニスくんも同じようで、彼も目線を靴に向けて、確かにな、と苦笑を漏らした。見ればアドニスくんは靴はおろかズボンの裾も雨に濡れていた。

 会話がふと途切れて、傘の下には雨音だけが残る。雨粒自体は大きくないが降る量が多いので断続的に軽く傘を叩く音が鳴り響く。時折電線かなにかから伝って落ちたのだろう、大きな雨音にアドニスくんと顔を見合わせて笑う。

 水たまりをいくつか跳び越えながら真っ白な街を歩いていると、前方に一軒の民家が見えた。民家を囲うブロック塀の隙間から、立派な紫陽花の花々が顔を出している。土壌やその花々の性質によって色を変える移り気なその花は綺麗なグラデーションを描きながら街に彩りを放っていた。よく通る道なのに全然気がつかなかった。
アドニスくんが私の手を引いて歩みを止める。私も同様に足を止めてその花々に見入る。ぽつぽつと傘に跳ね返る雨音。流れるような降りしきる雨の音。様々な音に囲われながら、その幻想的な景色に目を奪われていると、アドニスくんがポツリと、紫陽花、と呟く。

「アドニスくんと同じ色だね」

 それは何気なくつぶやいた言葉だった。私の一言に彼は驚いたように目を丸くしながら私を見下ろす。その瞳を見つめ返しながら笑うと、彼は照れくさそうに私から視線を外した。

「綺麗だよね」

 私の一言に彼は何も言わない。しかし彼の骨ばった手が私の掌を包んで、強引に自分の方へと引き寄せた。今度は私が目を丸くして彼を見上げると、アドニスくんは真っ直ぐ私を視線で射抜いた。何も言わずただただ、彼の視線が私に降り注ぐ。

「……帰るか」

 どのくらい時間が経ったのだろうか。彼が口にしたのは紫陽花の話題でもなく、視線の理由でもなかった。彼は私から手を離して、右手で持っていた傘を左手に持ち替えて、歩き出す。いつのまに持ち替えてたのか。ぼんやりとそんなくだらないことを考えながら彼に寄り添って私も歩き始めた。

***

 次の日。昨日の雨が嘘のように頭上には晴天が広がっていた。お互い濡れずに済んだからか、体調も特に崩すことなく登校できた。朝の授業が始まる前の少しだけ浮かれた空気が教室に流れる。クラスメイトに挨拶を交わしながら自分の席へとたどり着くと、アドニスくんから声がかかった。斜め前に座るアドニスくんは少し照れくさそうにポケットから可愛い包みを取り出して彼は自分の掌にそれを乗せる。

「昨日のお礼だ」
「え?気にしないでいいのに」
「俺が渡したいだけだ、受け取ってくれると嬉しい」

 大きさ的にクッキーなのかな。ありがとうと礼を述べると彼は包みを引っ込めて急に開封し出した。くれると思っていたのに突然の暴挙に呆然と彼の指先を眺めていると、アドニスくんはちらりとこちらに目線を投げて、俺につけさせてくれ、と一言。彼の長い指先から出てきたのは綺麗な紫色の紫陽花のーーヘアピン。
 彼の指先はそのまま私の顔へと伸びる。身を強張らせる私のことなど御構い無しに幾度か髪を梳くとそのヘアピンを丁寧に髪の間に差し込む。

「……綺麗だ」

 それはもしかして昨日の仕返しかもしれないと、響くクラスメイトの悲鳴を聞きながらぼんやりと思った。それはヘアピンのことだよね、なんて聞けなくて呆然とアドニスくんを見上げる私に彼は、とても似合っている、と言って笑った。