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風の行方


 風は伝える。季節の移り変わりを。音を、気持ちを、声を、世界へと。そして、あなたへと。

 ねえもしかして俺に惚れた?冗談混じりの声が聞こえて、脊髄反射のようにはあ?と返すと声の主である羽風薫は、私の反応をひどく楽しそうに笑い、好きになってきたんじゃないの?と繰り返す。この蒸し暑い練習室でとうとう頭もやられてしまったか、とバインダーで自分の肩を叩きながら先輩を見た。相変わらず何を考えているかわからない軽薄な笑みを浮かべて、顔をしかめている私に対し、また、惚れちゃった?と繰り返す。どうにか黙らせられないかと言葉を探していると、意外にも声をあげたのは晃牙くんで、狭いこの部屋にバカにしたような笑い声が部屋に響いた。

「ナンパなら他所でやれよ」
「ひどいなー、俺本気で言ってるのに」
「UNDEADから逮捕者が出るのは心苦しいが……通報するか?」
「なに朔間さんまで乗ってきてさあ、俺本気で言ってるのに」

 朔間先輩の後ろゆるく結んだ髪束が笑うたびに緩く揺れる。どうやら暑いらしく先ほどからしきりにスポーツドリンクを口にしては、溢れ出る汗を拭っている。梅雨入りが囁かれるこの季節は春が吹き飛んだかと思うほど暑い日がある。冷房の効きが悪いこの部屋は、窓を開けても愛想ほどの風しか吹いてこない。立っている私でさえ暑いのだから練習に勤しむ彼らにとっては地獄なのだろう。
 朔間先輩のペットボトルがほぼほぼ空になっているのを見て、ミニチュアの冷蔵庫から冷やしておいたスポーツドリンクを出して手渡す。ありがとう嬢ちゃん、とこぼす笑顔は、やはりいつもよりも元気がない。早急になんとかしないとな、とエアコンを見上げていると、ねえ、と羽風先輩の声が響く。振り返ると先輩は朔間先輩と同じように髪の毛を両手で束ねながら

「ごめん髪ゴムもってない?」

 と首を傾けた。先ほどの発言はなかったことにしたのか。あまりにもあっけらかんと言ってくるので、はあ、なんてため息混じりの言葉を吐いてカバンから新品の髪ゴムを取り出して先輩に渡す。先輩はまさか袋で閉じているものが出てくるとは思ってもみなかったのか、私の掌にあるそれを見て一瞬顔を顰めて、なんか悪いなあ、と呟いた。

「嬢ちゃんからはいつも新品しかでてこんよ」
「流石に自分の使っているものをお貸しするわけにはいかないでしょう、それで怪我でもされたら私困りますし」
「ええ、髪ゴムで怪我ってなに、心配性すぎるでしょ」
「一応そういう方針なので」

 プロデューサー科の?と先輩が尋ねると私は首を縦にふる。今常備している新品の髪ゴムもヘアピンも全てこの学校から支給されたものだ。朔間先輩は知っているので、当たり前のように羽風先輩も知っていると思っていた。先輩は少しだけ口を尖らせながら、わかったよ、とだけ言い、じっと私を見つめた。ああ、両手がふさがっているのか。包装を破くと、先輩はまとめた髪を左手で掴み、空いた右手で私から髪ゴムを受け取る。あらわになったうなじを見てしまって、私は逃げるようにゴミ箱に近づいてビニールの袋をそれに放り込んだ。

「これで若干涼しくなったかな」

 羽風先輩の声につられるように、先ほどまでレッスンの動画をチェックしていたアドニスくんが振り返り、羽風先輩と私を交互に見て怪訝そうに眉を寄せる。アドニスくんの視線に気がついた先輩は、なあにアドニスくん、と声を上げると、彼はやはり眉に皺を寄せたまま不服そうに口を開いた。

「この前お前に借りたのは新品ではなかったが……?」

 この前、この前。ああ、休み時間の話。頭の中でアドニスくんの言葉と記憶を合致させていると、羽風先輩は大げさとも言えるようなリアクションで、えええ、と声を漏らし

「なんでアドニスくんはよくて俺はだめなの」
「アドニスくんのあれはレッスン中ではありませんでしたし、大体また別の話で……」
「アドニスくんも髪を結うことがあるんじゃな?」

 飲んでいたペットボトルから口を離し、朔間先輩はアドニスくんを注視する。アドニスくんはそんな視線に少し照れ恥ずかしそうに顔を綻ばせ

「明星に『ちょんまげ』を結ってもらった」

 と微笑んだ。

「おい画像はねえのかよ」
「見るか?」
「え、俺も見たい、見せて見せて」
「アドニスくん、我輩には携帯に送っておくれ」
「朔間さん保存できないでしょ、俺にも携帯に送っといてよ」

 会話がそのままアドニスくんのちょんまげへと流れて、取り残された私は一人息を吐いた。惚れてる?私が?羽風先輩に?まさか。頭振ってアドニスくんの携帯を食い入るように見つめる羽風先輩を見る。どうせいつもの軽口だ。あの人だって、寝たら忘れてしまうだろう。そう、気にしないのが一番なのだ。

***

 そう思っていたのに、先輩の顔がまるで網膜に焼き付いてしまったかのように離れなかった。レッスンが終わった後も、家に帰った後も、ベッドに潜り込み、夢を見てーー流石に先輩の夢ではなかったのが救いなのかもしれないーーそして目覚めて。カーテンを引くよりも先に、昨日の羽風先輩の声が響く。

『俺に惚れた?』
「冗談じゃない」

 脳内で再生される声に応答するように乱暴にカーテンを開くと、朝の生まれたての光が強烈に部屋を照らした。黄金色に差し込む陽光を見て、ふと、それを羽風先輩と結びつけてしまう自分がいる。ああもう!先輩が変なこと言うから!乱暴にカーテンを閉めて、ため息を吐く。
 呪詛なのかこれは。確かに先輩は格好いい。少し不埒だけど、レッスンに来れば真面目に打ち込むし、ライブだって参加すれば人並み以上の力を発揮する。そして惜しむなく与えてくれる好意。リップサービスが8割以上含まれていることは知っているし、それを本気にとってしまうことは愚かしいことだってわかっていた。
 悶々した気持ちを抱えながら家を後にして、とぼとぼと学校へと向かう。こんなに足取り重いのは久しぶりかもしれない。嘘のように青い空を見て、ため息。昨日練習があったからしばらくUNDEADの練習はないだろう。それが救いだと

「やっほー、朝から会えるって珍しいね、どうしたの浮かない顔して」

 思っていた。

「先輩、朝から元気ですね」
「きみは元気じゃなさそうだね?体調でも悪い?」

 言葉だけ抜き取れば心配してくれているのだろうが、羽風先輩の顔は笑顔で溢れていた。胡散臭い言葉の羅列に顔を顰めると、羽風先輩は肩をすくめて、ご挨拶だなあ、と笑う。しかしその言葉も、満面の笑みから紡がれるものだから信用ならない。じいと彼の方をみると、羽風先輩はほんのり勝ち誇ったように笑い、私の顔を覗き込んだ。

「……嬉しそうですね」
「うん」
「いいことでもあったんですか?」
「あったよ」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに先輩は目を細めて笑う。眩しいその笑顔に、普段は震えない心の奥底が、どくり、と音を立てたような気がした。蠱惑的な笑みではない、無邪気で、健康的な笑顔。目線をそらすと先輩は楽しそうに笑い、教えて欲しい?と私に聞いてきた。

「……何がそんなに嬉しいんですか?」
「きみが、ようやく俺のこと意識してくれたのかなって」

 急に吹いた追い風は互いのブレザーを大きく揺らしはためかせる。ばさばさばさ、とやけに大きく響くその騒音を縫うように届いた「好きだよ」の響きは、今まで聞いた軽薄なそれらとは打って変わり、深く私の心の中に落ちた。羽風先輩の顔は逆光に照らされていたけど、彼の晴れ晴れとした笑顔はちゃんと私の目は捉えてくれた。やけにうるさくなる心臓の音に耳をすませながら、私はいつものように辛辣に返す言葉を探す。しかしそんな言葉も見つけてくれないくらい先輩の笑顔が晴れやかで嬉しそうで、優しかったからーー。

 風は吹く。きっとそれは何かを伝えるために。大切な人に気持ちを伝えるために。慣れない心臓の音を聞きながら、わたしはこの人に恋をするのだと、そう思った。