DropFrame

名前を呼んで

 気がついたのは本当に偶然。朔間先輩が私を呼び、次いで晃牙くんから声がかかったからだ。

 春が過ぎて夏が過ぎて、気がついたらこの学院に通い出してもうすぐ半年が経つ。この半年、様々なユニット、様々な生徒と接してきた。当初は皆一様に私のことを「転校生」と呼んでいたのに、一緒に時を過ごすにつれ、名前で呼んでくれる人が多くなっていった。あの気難しいと有名な瀬名先輩でさえ最近では気軽に名前を呼んでくれる。
 下の名前で呼ばれるのは嬉しい。距離が純粋に縮まった気がするから。プロデューサーと呼ばれるのも嫌いではない。自分の立場がはっきり分かるから。
 ただ。

「……どうかしたか?嬢ちゃん」
「あ、いや、別になんでもないです」

 朔間先輩が不思議そうに、突然動きを止めた私を見る。悟られてはいけない、と私は笑顔を浮かべて、今度のライブの資料を机に並べた。朔間先輩の視線が私から資料へと移る。それを見届けて私はこっそりと安堵の息を吐いた。
 人の呼び方なんてその人の自由なんだから気にしないほうが良いなんてことはわかっている。きっと朔間先輩も大した意味もなくそう呼んでいるだけに違いない。
 彼の綺麗な唇から、私の苗字が紡がれる。呼ばれるたび、なぞられるたび、私の心臓は喜びと落胆で大嵐が起きる。名前で呼んでください、なんて厚かましい提案もできない私は、そのぐちゃぐちゃな感情を喉元で処理をしながら、彼とライブの打ち合わせを進め続けるのだ。

***

「晃牙くんとか、アドニス君とか、羽風先輩のことは名前で呼ぶのに」
「くっだんねえ」

 軽音部に響く晃牙くんの悪態は、かき鳴らすギターの音をかいくぐってやけに明瞭に聞こえた。ドラムのスティックを器用に回しながら譜面を追うアドニス君も顔を上げて、名前の話か、と合点のいったように頷く。
 今日はUNDEADのプロデュース日で、私と晃牙くん、アドニスくんは授業が終わるやいなや、駆け足で軽音部室へと駆け込んだ。今日はどうやら部活のない日らしく、葵くんたちの姿はない。我が物顔でずかずかと入り適当な場所へ鞄を放る晃牙くんを尻目に、私とアドニスくんは教室の隅に鞄を並べる。朔間先輩は寝床かなと思いそろそろと棺桶に歩み寄ると、黒い重厚な蓋の上に一枚の書き置き。「すぐ戻る」との簡潔なメッセージに私と二人は目を合わせて、肩を竦めた。すぐっていつだろうね。そもそもどこからの「いつ」なのだろうか。メモに悩まされる私たちを見て晃牙くんは、黙って待ってる必要はねえよ、と言い捨ててギターをケースから取り出す。鞄から新曲の楽譜を取り出して音を確かめるように弦を弾くと、アドニスくんも呼応するように近くに刺さっているドラムスティックを抜き取り、同じように楽譜とにらめっこを始めた。手持ち無沙汰になってしまった私はメモをそっと棺桶の上に戻して、近場の椅子に腰を下ろした。手元のクリアファイルから今日の資料を取り出してその文字を追う。
 そして、今に至る。

「別に名前の呼び方なんてどうでもいいだろ」
「そんなこと言わないでよわんこ」
「ああ?!俺様は狼だっつってんだろ!」
「ほら怒る!どうでもよくないじゃん!」

 私の反論に晃牙くんは言葉を窮し、一つ大きな舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。そんな晃牙くんを見てアドニスくんは苦笑を浮かべ、スティックをくるりと回す。木製のそれは軽いはずなのに、飛び出すこともなくアドニスくんの手の中に収まる。くるり、くるり。指先に吸い付くように回るそれを見つめていると、アドニスくんは私の視線に気がついて、困ったように眉の間に皺を刻む。

「朔間先輩も悪気はないと思うが、俺にも真意はわからない」
「ただ単に嫌われてるだけじゃねえの?」
「おい大神……」

 追い討ちをかけるような晃牙くんの言葉に、今度は私が言葉を詰まらせる。その可能性は否定できない。というより何度も考えてきたことだ。嫌いな人のことはあまり名前では呼ばないだろうし、これだけ皆が名前で呼んでくれる中、頑なに苗字で呼ぶ理由なんて、そこに行き着く他ないじゃないか。押し黙ってしまった私にアドニス君は慌てたように

「大丈夫だ、そんなことはない、俺が保証する」

 と言ってくれた。なんの保証だよ、とせせら笑う晃牙くんの声を聞き流しながら、アドニス君にありがとうと礼を述べる。真意なんて本人にしかわからない。きっとアドニス君の言う通り気にしないほうがいいんだろうなあ。

 窓から見える空を見つめながら、ぼんやりと先輩の顔を思い浮かべる。執事喫茶に、夏休みは学外のイベントだって一緒に企画をしてライブを行った。これだけ濃密に人と過ごすのは初めてだから少し浮かれていたのかもしれない。先輩の中で私は今、どんな位置にいるのだろうか。
 私の気など知らない入道雲のかけらは、のんびりと空の海を泳いでいた。朔間先輩みたいだなあ、とぼやく私へ答えるように、朔間先輩は空は飛ばないぞ、なんて生真面目なアドニスくんの声が部室に響いた。

***

「すまん、遅くなった」

 朔間先輩がやってきたのは私たちが部室に到着して大分時間が経ってからだった。すまん、なんて言っている割には悠々と入ってくるその様に、おっせえよ、と晃牙くんが噛み付く。朔間先輩はそんな晃牙くんをからかいながら、我が物顔で部室を闊歩する。

「朔間先輩、羽風先輩はどうした」
「薫くんなら少し遅れてくるようじゃよ、ああ大丈夫じゃよ、嬢ちゃんがくると伝えたらすぐに向かう旨が返ってきたからのう」

 朔間先輩の一言に身じろぐと、アドニスくんが、お前は俺が守る、と頼もしげに大きく頷いた。朔間先輩はそんなアドニス君を見て、強い騎士がいて嬢ちゃんは幸せ者じゃのう、と肩を揺らし笑った。

「薫くんが悪さをせんように我輩もしっかり見張っておくからのう」
「別に大丈夫ですよ、そこまで苦手という訳でもないですし、大分慣れましたし」
「随分逞しくなったもんじゃ」

 私の一言にさらに朔間先輩が笑う。そしてふと思い出したように私を呼んで、今度の資料は持ってきたかの?と首を傾げた。相変わらずの苗字呼びに心を軋ませながら、持ってきましたよ、と笑うと、先輩は嬉しそうに顔を綻ばせて、助かる、と言って微笑んだ。

「朔間先輩」

 先輩に渡そうと私がクリアファイルの中身を物色していると、唐突にアドニスくんの声が響いた。

「どうしたんじゃアドニスくん」

 朔間先輩の言葉にアドニスくんは珍しく、言葉を探すように、その、と小さく言葉を繰り返す。その様子になんとなく嫌な予感がして、私は顔を上げてアドニスくんの名前を呼んだ。晃牙くんも同じような予感を感じ取ったらしく、おいこらアドニス、と言葉を投げかける。しかし思慮状態の彼には届いていないらしく、アドニスくんは私たちの声に応じることなく、言葉を探す。「あの、その」が幾度か繰り返された後、彼は決心したように顔を上げて、また先輩の名前を呼んだ。

「アドニスくん、言いにくいことなら別室でも」
「こいつのことを、苗字で呼ぶのはどうしてなんだ?」

 彼の指は真っ直ぐに、私の方へ伸ばされていた。先輩の言葉に被せるように発せられた言葉はいとも簡単にこの部屋の空気を凍らせた。私の手からクリアファイルが滑り落ちる。ばらばらと床に散らばる書類。は……?と間の抜けた声を出す先輩。やりやがった、と小さいながらも響く晃牙くんの言葉。アドニスくんはそんな空気の中でも平然と振り返りじっと私の顔を見た。

「気になるならちゃんと聞いておいたほうがいい」
「あ、アドニスくんそれは正論だけど、正論だけど!」
「おいコラアドニス!他人がずかずか入っていい領域じゃねえだろ!」

 怒号に近い晃牙くんの叫びを、朔間先輩は片手を上げて制する。そして深々とため息を吐いて、私へと視線を投げた。もうさっきのアドニスくんの言葉で私が気にしているのもろバレじゃん。居心地が悪くなり先輩から視線を外すと、朔間先輩は言葉を選ぶようにゆっくりと喋り始めた。

「嬢ちゃんはその、名前で、呼んでほしいのかえ?」
「あ、いやえっと、その」

 歯切れの悪い私の言葉に、先輩は苦笑を漏らす。言い辛いことを聞いてしまったかのう。先輩の言葉につられるように顔を上げるとばっちり目が合ってしまって慌ててまたそらす。朔間先輩はそんな私の態度にまた苦笑を零した。

「別に苗字で呼ぶことに深い意味はないんじゃよ、下の名前で呼んでも構わんのじゃが」

 先輩は言葉を切って、そして思いついたように私の名前を呼んだ。条件反射で顔を上げてしまった私を見て、楽しそうにけらけらと笑う。

「例えばーー結婚して朔間になるなら、今のうちに呼んでおかないと勿体ないじゃろ?」

 しれっと言い放った先輩の言葉に、今度は私が間抜けな声を出す番だった。は?!ともへえ?!とも取れないよくわからない音を出しながら先輩を見上げと、彼はとても嬉しそうに、そんな顔が見れるならもっと初めから呼んでおけばよかった、とさらに笑った。

 季節外れのセミの声が聞こえる。響くため息は晃牙くんのものだろうか。

「朔間先輩はお前のことが好きだからな」

 なぜか自慢げなアドニス君の爆弾発言に、もはや漏らす言葉もなくて、私は金魚のようにただただ口を開閉することしかできなかった。