早朝の教室は、朝のみずみずしい、澄み渡った空気に包まれていた。教室にかかる壁時計の時間はHRが始まる時間よりも随分前の時刻を指している。四月、窓の外にはもう終わりかけの桜の花びら身を翻しながら地面をピンク色に染めていた。私の斜め前には、どうやら彼も早朝に登校してきたのだろう、クラスメイトがうつらうつらと頭を揺らしながら夢と現の行き来を繰り返していた。まだ転入してきたばかりなので名前が少しあやふやなのだが、確か異国の王子様っぽい、男の子。こっそりと机に忍ばしてある座席表を見て、彼の場所と名前を確認する。そう、乙狩くんだ。名前の下に走り書いたユニット名を指でなぞりながら、そうUNDEADの乙狩くん、と所属と名前を紐付ける。自ら望んで転入してきたものの、ここは覚えなければならないことが多すぎる。プロデューサーの仕事、学業としての勉強、そしてなにより、顔と名前の一致。UNDEADってことはあれだよね、軽音部の先輩と隣のクラスの、そう大神くんと、あと金髪の派手な先輩と。「乙狩くん」から連想ゲームのように学院の生徒たちの顔を思い浮かべる。朔間先輩に、羽風先輩に、大神くんに乙狩くん。一通り名前と顔を確認したところで息を吐く。気を抜くと頭から抜けていきそうだ。それほど、この学院には生徒が多い。座席表を机の中にしまい込みながら肩をすくめる。本当に私は全員の名前を覚えきれるのだろうか、不安しか、ない。<br>
授業の教科書を机の中にうつしていると、先ほどまで頭しか揺らめいていなかった彼の身体が急に前のめりに倒れてごつん、と鈍い音が響いた。ひえっと思わず悲鳴をあげる私に乙狩くんはのっそりと起き上がり、振り返った。仏頂面に、赤い額。
「だっ大丈夫、です、か?」
確かめるように一音一音発する私に乙狩くんは無表情を保ちながら、大丈夫だ、と一言。怒っているのか、痛がっているのかわからない。少しだけ鋭い目つきにひるんでいると、乙狩くんはぶつけた額をさすりながら、気にするな、と端的に言葉を吐いた。
「冷やしますか……?私ハンカチ濡らしてきますけど」
「本当に大丈夫だから気にしないでくれ、それより朝は早いんだな」
「あ、えっと、今日はたまたま、早く起きちゃって」
先ほどまで半身で振り返っていた乙狩くんは椅子の向きを私の方向へと向けてどっしりと座った。また居眠りを始めるのだろうと考えていた私は彼のその行動に驚いてしまって身を強張らせる。乙狩くんは同じクラスだけれど話したことはあまりない。身長が大きいな、だとか、たくさん食べるな、ということは知っていたのだが、例えばどんな食べ物が好きだとか、どんな運動が好き、だとかそういう話題になりそうなものは何一つ知らなかった。続かない会話と痛い沈黙に、頭をフル回転させながらなんとか間を持たせられるような会話を考える。
「お、乙狩くんも早いんだね?」
「俺も今日はたまたまだ」
気の利いた返答が何も浮かばなくて言葉を詰まらせる。今日はたまたまって、自分が発しておいてなんだけどとても会話が広げ辛い……。乙狩くんの鋭い眼光を一身に受けながら、えっと、その、と言葉を口の中で転がす。私ってこんなに口下手だったっけ。好きなアイドルとか聞いてみる?いやでも彼らがアイドルなんだし。とてもコアな名前を出されたらどうしよう。ああでも後学のために聞いておくべきなのだろうか。
ああでもないこうでもない、と会話の種を頭の中でかき集めていると、乙狩くんはふっと顔を和らげてこちらに笑みを向けた。見たことのないその表情に、心臓がぴょこんと跳ね上がる。すると彼はどうやら私の変化に気がついたらしく、訝しげに首をかしげる。
「どうした?」
「い、いや、なんだろう、そのそういう風に笑うんだな、と思いまして」
どうやらあの笑顔は無意識下だったらしい。釈然としない様子で彼は眉を顰めて私をみる。もしかして怒らせてしまったのかも、と思い、ごめんね、と口にすると、乙狩くんは首を横に振るった。
「気にしないでほしい、俺は、あまりこういうものが得意ではないから」
「こういう……?」
「気の利いた会話だったり、愛想だったり」
喉元まで出てきた、確かに、という言葉をとっさに飲み込む。アドニスくんは寡黙が売りみたいなところがあるからのう、と彼のユニットのリーダーが言っていたのをぼんやりと思い出す。愛想を振りまくのは得意なメンバーがもういるだろ、と唸るように大神くんが言っていたことを思い出す。
「羽風先輩は、こういったことが得意なのだが」
「はかぜせんぱい、えっとそう、金髪の、三年生の」
「そうだ、俺たちは同じユニットなのだが」
そうだ。息をするように誘惑の言葉をかけてくる先輩。頭の中ではかぜせんぱい、と復唱しながら顔を思い浮かべる。乙狩くんはそんな私の様子を不思議そうに眺めながら、目を瞬かせた。
「そうかお前は転校してきてすぐだから、まだ名前を覚えきれてないのか」
「ごめんね、頑張って覚えようとはしているんですけど」
「転校したてなら仕方ないだろう」
「あ、でも少しずつは覚えてきていて」
ちょっと待ってね、と言葉を切って、私の脳内からアドニスくん周辺のデータを引っ張り出す。
「所属はUNDEAD、さっき名前が出た羽風先輩と、リーダーは軽音部の、さく……ま先輩、うん、そう朔間先輩。あと隣のクラスの大神くん」
「そうだ」
「で、乙狩くんの部活ってあれだよね、たしかバス」
「陸上部だ」
「そう!陸上部、えっと、隣のクラスの……衣更、ちがう衣更くんが、バスケ部だ」
「鳴上か?」
「そう!鳴上くんと一緒なんだよね、って本当にごめんねまだ全然あやふやで……」
乙狩くんは小さく笑いをこぼして、気にしてない、と一言。そしておもむろに立ち上がって、私の方へと歩み寄ってきた。近づくとわかるけどやはり、大きい。乙狩くんを見上げながら、どうしました?と首をかしげると、彼は右手を私に差し出す。
「乙狩アドニスだ」
さらに首をひねる私に乙狩くんは、ちゃんと自己紹介をしていなかったから、と緩く笑った。穏やかなその笑みにつられて私も表情を崩して、彼の大きな手に自分の手を重ねる。存外に優しく握られた手と、それでいて骨ばった感触にどきりとまた胸が高鳴る。
「困ったことがあったらいつでも言ってくれ、力になろう、あと敬語はいらない」
込められる力に呼応するように心がとくりとくりと跳ね上がる。これはきっと手を握られているからだ。滅多にない異性との、少し過剰なスキンシップのせいだ。見上げた彼の顔は、以前までの印象とはまったく違う、優しい顔をして私に微笑みかけてくれている。
「お前のことを教えてくれ」
「う、うん、私の名前はねーー」
まだこの感情に気づいてはいけない気がして、握られている手に少しだけ力を込めた。生まれたての空気の中で産声をあげたこの気持ちに名前をつける日はくるのだろうか。もしかしたらそう遠くない未来なのかもしれない。琥珀色の瞳を見つめながら、私はゆっくりと丁寧に、自分の名前をなぞった。