奥手だと思っていた彼が、案外積極的だと知ったのは私が彼と付き合ってから数日も立たないうちのことだった。付き合う前、お互いがお互いに片思いしてた頃は、ある程度距離を保っていたのだが、距離を離す必要のなくなった今、彼は彼の思うがままに近付いたりだとか、手を繋いだりだとか、そういうことをしてくる。人前では恥ずかしいです、となんとか進言してからは、出来るだけ人がいないところか、人が見えない程度に巧妙に――不思議なことに彼はこういうことに関しては器用にやってのける――スキンシップをとってくるものだから、心臓がいくらあっても足りない。今だって傍から見れば隣に立っているだけに見えるのにお互いの後ろに隠された手は、しかりと握られている。私より頭一つ二つ分高い彼の佇まいは見慣れた私でもドキリとするほどに凛々しく美しい。のに私の目線に気が付くとその鋭い目線をふっと緩めて笑ってくるから本当にずるい。
彼はこっそりと握った手の力をほんの少しだけ強めながら私の名前をなぞった。普遍的な聞きなれた名前だというのに、彼の口から吐き出されるとなぜだろう、胸が、高鳴る。なあにアドニス君、と動揺を隠しながら返事をすると、アドニス君は少しだけ辺りを見回す。
「今は人がいない」
「そうだね、今は、ね?」
夕暮れを少し過ぎた公園には数羽のカラスと私たちしかいない。砂場に置き忘れられたスコップ。少し前まで遊ばれていたのだろう、ぎいぎいとちいさく軋みをあげながら揺れるブランコ。大きな白熱灯。そして私たち二人。
アドニス君は握っていた手を離してそのまま腰を抱く。引き寄せられるまま彼の体にぴったりと張り付くと、アドニス君は満足そうに微笑んだ。あまりの気恥ずかしさに、何か言ってよ、と私が苦言を吐くと、かわいい、なんておおよそ予想もしていなかった発言が彼の口から飛び出す。慌てふためく私にアドニス君は笑い、しかし笑うだけで手を離そうとはしない。彼の大きな掌に私の腰はしかりと掴まれたままだ。
「あ、アドニス君は、あんまり、その、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい?何がだ」
「ひ、人前でこういう」
「人前?誰もいないだろう」
「そうなんだけど」
彼は困ったように首をひねりながら、もしかして嫌か?なんて尋ねるので私は大きく頭を横に振るった。嫌ではないがやはり、慣れない。しかし経験上一度彼がくっついて来たら、気が済むまで離してくれないことが多い。観念して彼の厚い胸板に頭を傾けると、彼は嬉しそうにほほ笑み、そして私の腰から手を離した。今日は案外拘束時間が短いのね、と少しだけ名残惜しく感じていると、アドニス君は私の肩を掴みそのまま半回転回すように無理矢理私を自分の正面に向かせる。頭によぎる嫌な予感。まって、人が来ることを確認させてほしいと懇願する前に、彼は私の肩に手を置いたまま自らの体をかがめて、私にキスを落とした。
それは、触れるだけの、短くて、ありふれたキスだった。なのに彼の少し強い異国の香りが、近付いてくる整った顔立ちが、そして何より真剣なまなざしが、私の心をかき乱す。目を閉じることも忘れて、そのまま唇を重ねてしまった。見れば彼の長い睫毛が、風に揺られてゆらりゆらりと揺らめいている。
時間は数秒だったくせに、ずいぶんと長い事キスをしていた気分だ。唇が離れていくのをじいと眺めていたら、目を開いたアドニス君が私を見て、照れ恥ずかしそうに表情を緩めた。
「お前の気持ちが、少しわかったような気がする」
少し照れるな、と表情を崩すアドニス君に私は緩く首を横に振った。ごめんね、私もアドニス君の気持ち、ちょっとだけわかった気がする。周りに人がいないことを確認して少し背伸びして彼の首に手を回す。
「……もっかいだけ」
たぶんこうやってお互いの感情をこれからも共有していくのだと思う。再び近づいてくるアドニス君の顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを、思った。