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月の雫

 気が付いたら夜の帳は降りていた。濃紺に染められた空は、慎ましげに光るもの、煌々と存在感を示すもの、無数の光を身に纏いながら街をすっぽりと覆っていた。無数に広がるその光はどれも朧げな輪郭をしながら、それでも確かに煌めきを放っている。私はそんな空を見上げながら、ほう、と一つため息を吐いた。

 そろそろ本格的に風が冬を運んでくる季節。授業が終わり生徒がいなくなってしばらく経ったこの教室は、この季節に似合った冷たい空気と、優しい沈黙に満たされていた。響くのは時計の音と、窓越しに聞こえる生徒の賑やかな声。窓を指先で触ってみると、外気によって冷やされたガラスは、私の予想以上に冷たかった。冷えた指先を握りしめながら、そろそろ帰ろうかなと校庭を見下ろす。完全下校を間近に控えたこの時間は、どうやらピークを過ぎたようで生徒の姿もまばらにしかいない。

 楽しげに校門をくぐる後ろ姿をただただ眺めていると、突然背後から扉の開く音がした。クラスメイトが忘れ物でも取りに来たのだろうか。これが北斗くんとかなら残ってること怒られちゃうな。ぼんやりとそんなことを考えながら振り返ると、そこにはこの2のAにいるはずもない人物ーー羽風先輩が、やっほー、なんて緩く手を振りながらこちらを眺めていた。驚き一瞬言葉を見失ったが、そういえばこのクラスには彼の知り合いが在籍していたということを思い出して、口を開く。

「乙狩くんなら部活ですよ」
「ああ、違う違う」
「神崎くんですか?彼なら多分」
「うーん違うんだよね」

 誰に用事なんですか?と私が首を捻ると、きみ、と彼は飄々とした笑顔を浮かべる。私、と間の抜けた声で繰り返すと羽風先輩は笑い、よければ散歩をしよう、なんて浮ついたことを口にした。いつもの冗談だ、とは頭の中でわかっていた。わかってはいたものの、なぜだか私は、気がついたらカバンを背負い込み、彼の元へと歩き出していた。先輩も予想外だったらしく、近付いてくる私を見るなり、え?なんて間抜けな声を出す。そんな声を出すなら言わなきゃいいのに、と思いながら先輩の前まで歩くと、彼の拍子抜けした顔を見上げる。

「いいの?」
「今日は……たまには」
「そっか」

 軽い調子で喜ぶと思ったのに。羽風先輩は柔らかく笑うと、踵を返して歩き出した。揺れる彼の遊び毛を眺めながら、その背中を追う。普段ならついていかないのに。どうしてだろう。もしかしたら今日がいつもよりも少し寒くてーー静かな夜だからかもしれない。だから先輩も普段は近寄らないような2年の教室にやってくるし、私もそんな先輩の背中を追っているのかもしれない。

***

 散歩といっても校内を徘徊するだけなのだろうか。歩く先輩の後ろ姿を追っていると、羽風先輩は私の方を振り返り、折角だから隣歩いてよ、と歩みを止めた。私が黙って眉を顰めるのを見て、先輩は苦笑を浮かべた。しかし苦笑を浮かべつつも彼は数歩下がり私の隣に立つと、行くよ、と私の背中を軽く叩いて歩き出す。つられて私も歩き出してしまって結局彼の思惑通り隣同士仲良く並びながら散歩をする羽目になってしまった。

 夜の校舎は当たり前だけど生徒の影を見ることはそうない。時たま明かりが漏れている教室も見受けられるが、人影を見ることはほとんどなかった。羽風先輩は歩きながら喋ると思いきや、楽しいでもなく悲しいでもなく、何を考えているかわからない曖昧な表情を浮かべながら、ただただ先へと進んでいく。見慣れている道なはずなのに、見慣れている人なはずなのに。全く違った雰囲気を装われ急に心細くなった私は、左手で自分の右腕をつかむ。先輩は目ざとくそれを見つけると、握るなら俺の腕を握ったら?と笑う。

「……やだなあ黙らないでよ、冗談だって」

 その声色が、いつもの冗談のような響きとは似ても似つかない程、切なくそして重く響いた。先輩もそれに気がついたようで、取り繕うように笑い、今のはなし、とおどけてみせた。そしていつもより早口で、ちょっと欲張ってみちゃっただけだよほんとほんと、なんて言い大げさに肩を竦めるので、私の手はその先端、彼の指先へといつの間にか伸びていた。

 先輩の指先は思っていた以上に冷たかった。暖かい人だとは予想はしていなかったけど、ぞっとするような冷たさに思わず彼の指先を数本握りこんでしまった。羽風先輩は驚き目を瞬かせていたが、すぐに表情を和らげると、

「手っていうのはこう握るんだよ」

 と私の握りこんでいた指を優しく解くと、今度は羽風先輩がしっかりと手のひらを合わせて私の手を握りこむ。

「冷たいですね」
「手が冷たい人って心が温かいんだって……でも君の場合は心の温かさが手に滲みでてるのかもね」

 いつもの調子で言ってくれたら私だって悪態を吐けるのに、先輩は眼を細めてただただ微笑むだけだった。何かあったんですか、なんて軽率に聞けなくて、その代わり彼の手を握りながら、嬉しいですか、と問いかける。先輩は私の問いに答えずに、代わりにきゅっと握る手を強くした。ずるいなあと思いながら、私も先輩の手を握り返す。

「このまま、どこか行っちゃいたいね」

 先輩の何気ない一言は、誰もいない冬の空気によく響いた。黙っていたらどこかへ連れて行ってくれるのだろうか。見たことのない先輩の雰囲気に飲み込まれつつ、半歩だけ、私は羽風先輩に寄り添った。

***

 夜の屋上に来たのは初めてで、真っ暗闇に支配されるその風景に圧倒されていると、羽風先輩は立ち止まる私の手を引いて、ずんずんとその先へと歩いていった。彼に導かれるまま歩みを進めると、突然先輩は立ち止まり、ここ、と呟く。昼間だと海が眺望できるそのスポットは、夜の闇に覆われて何も見えない。何も見えない代わりに、教室で見た空とは比べ物にならないほどの星空が、一面に広がっていた。

「海側は街灯が少ないからね」

 先輩の声とともに、さざ波が聞こえる。ロマンチックですね。私が呟くと、先輩は、うん、とだけ返事をして、口を閉ざした。冬の夜風は寒い。寒さを感じる一方で、繋がれた手のひらの温もりが、じんわりと心を暖めてくれる。なんで先輩がここに連れて来てくれたのか、そもそも何故教室に来たのか、散歩に誘ったのか、何一つ私にはわからなかった。もしかしたら気まぐれなのかもしれない。ただのいつもの冗談なのかもしれない。

「寂しい時は、寂しいって言わなきゃ伝わらないですよ」

 でも、彼の笑顔が、言葉が、寂しさにまみれている事ぐらい、鈍い私にもわかった。先輩はこちらに顔を向けることなく、うん、とだけ呟く。潮の香りが、冬の空気とともに私たちの間を吹き抜ける。吹き抜けると同時に、微かに、羽風先輩が口を開く。

「でも、口にしてもどうにもならないから」

 先輩を見上げると、やはり彼は何を考えているかわからない表情を浮かべて、そこに広がるはずの海を眺めていた。

「いつか先輩の本音、教えてくれますか?」

 私が呟くと、先輩はそこでようやく海から私へと目線を移し、曖昧に笑う。

「どうかな、君次第かも」
「私次第?」

 言葉をなぞると、先輩が首を縦に振る。夜風に遊ばれる金色の襟足が、まるで月の光のように輝きながら夜空へと靡く。

「君が、もし君が等身大の姿を見せてくれたら。プロデューサーとしてじゃなくて、ちゃんとした自分を見せてくれたら、俺もアイドルとしてじゃない、一人の俺としての姿を見せるのかもね」

 予想外の返答に私は言葉を詰まらせる。プロデューサーである自分を求められたことは転入してから幾度もあるが、プロデューサーではない素の自分を求められたことは殆どなかった。
 どういう意味ですか?と私が首をかしげると先輩は、秘密、と笑い、また海の方へと視線を戻してしまった。どうやら会話はこれでおしまいらしく、また沈黙が辺りを包む。先ほどの先輩の言葉を反復しながら、私も海を眺める。アイドルとしての先輩、プロデューサーとしての私。羽風薫としての先輩、そして。

「ごめんね、意地悪言いすぎちゃった」

 黙りこくる私に羽風先輩はそう言って笑った。ああこれはアイドルとしての羽風先輩なのかな、と思いながら彼の顔を見上げると、弱々しい笑顔を浮かべる先輩がそこにはいた。

「ちょっとだけどうにもならないことがあってね、八つ当たりかな」
「八つ当たり?」
「うん、いろいろね」

 気分転換したくってうろうろしてたら2年の教室まで来てて、そこに君がいるから誘った、ただそれだけだよ。羽風先輩は握っていた手を離して、そのままその手で私の頭を撫でる。互いの体温で暖められた手のひらは、暖かくてとても、心地が良い。いつもならはねのけるなり逃げたりするものの、なんとなく拒否するのも違う気がして、ただただ彼におとなしく撫でられていた。

 そういえばなんで羽風先輩が苦手だったんだっけ。ぼんやりと思い出す。軽薄でつかみどころがないところが怖かったのか。いきなり距離を詰められるのが嫌だったのか。真面目に活動に取り組んでくれなかったのが目に余ったのか。思い返すと私は本当に彼の表面しか見ていなかったんだなあと思い知らされる。だってこんな顔するなんて知らなかったし、当たり前だけど私と同じ、彼にも好きなことも嫌なことも、抱えているものはたくさんあるんだなんて、今ようやく気がついた。

 なにが先輩の本音を教えてくれますか、だ。先ほどの言葉のあまりの軽さに恥ずかしくなる。もちろん今だって、本当に先輩の切っ先に触れただけにすぎない。でも、知らないことと、少し知っていることとは大きく違う。私が彼のブレザーの裾をぎゅっと握り俯くと、羽風先輩は困ったように、もう、と言葉を落として、少し乱暴に私の頭を掻く。私が顔を上げると、先輩は嬉しそうに笑みを浮かべて

「やっと俺を見た」

 と一言、呟いた。

「ちゃんと見てて、もうきっとそんなに時間はないから。アイドルとしての俺だけじゃなくて、ちゃんと」
「羽風先輩」
「俺は見てるよ、見てたから、今度は君が見る番」

 ステージ上でも、ナンパされるときも、先輩の笑顔なんて飽きるほどに見てきたはずなのに。

「このまま終わる気はないから」

 耳元で囁かれた言葉と、浮かべたいたずらに光る瞳を、私はきっと忘れることはないだろう。初めて見た羽風薫の笑顔は一等に優しく、綺麗で、そしてーー穏やかに私を包んでいた。