DropFrame

休日はまだ始まったばかりだ!

 一瞬見間違いかと思った。見慣れた紫の髪に褐色の肌。目立つほどの高身長の後姿に、切符を選んでいた私の手がぴたりと止まった。ここは私が住んでいる町からも、学校からも随分遠い土地だ。随分遠い、といっても電車で数十分程度の距離なのでもしかしたらそんな遠くないかもしれないけど、偶然同級生と出会う距離にしてはいささか離れすぎている気がする。
 その姿を眺めていると背後から大きな咳払いが聞こえ、そこでようやく我に返った。慌てて目的地の切符の料金ボタンを押すと券売機から、発券します、という機械的な音声。そして一拍置いて軽快な音とともに切符とおつりが機械から吐き出される。もぎ取る様に掴んで券売機から離れると、もうその後姿は見えなくなっていた。見間違いだったのかな。まあ、こんなところにいるはずもないか。同じクラスの、所謂「好きな人」の姿を思い浮かべてため息。見間違うことはないと思ったけれど、どうやら予想以上に私は彼に恋い焦がれているらしい。まさか幻影を見てしまうなんて。自分の浅はかさにもう一度肩を落として、深く息を吐いた。

「なんだあ、見間違いか」
「何か探しているのか?」
「うわあ!」

 突然聞こえた声に飛び退くように身を翻す。やはり見間違いではなかったらしい、アドニス君は穏やかに笑いながら、偶然だな、と嬉しそうに顔を綻ばせた。私も、偶然だね、なんて口にしながら何気なく周囲を伺う。どうやら近くには他のUNDEADメンバーの姿はない。ということはユニット活動の一端ではない?アドニス君だけ?いつもの癖でほかに関係者がいないか警戒する私に、アドニス君は訝し気に眉を潜めて

「やはり何か探しているのか」

 と言い、探し物なら俺も手伝おう、なんて言葉を続けた。見当違いの言葉に私は慌てて首を振るい、口を開く。

「いや、ユニットの活動かなって、だったら皆に挨拶しないと」
「ああ、その心配はない、今日は俺自身の用事でここに来た、UNDEADとしてではない」

 アドニス君だけなのか。その事実にひそかに私の胸が躍る。勿論それは先輩方がどうとかそうった類ではなく、ただただオフの彼と遭遇できたことが嬉しいからだ。なんだか運命みたい、なんて羽風先輩のような言葉を飲み込んで、代わりに安堵の息を吐いた。しかしどうやらそれがため息と捉えられたらしい。アドニス君は申し訳なさそうに眉を下げながら

「すまない、大神達がいればよかったんだが」

 と落胆したように呟いた。

「そ、そんなことないよ、アドニス君は今からどこかへ行くところ?」
「これから移動するところだ、お前もそうだろう?」
「そうだけど、どうして知ってるの?」
「券売機で切符を買っているのを見かけた、方向はどっちだ、同じなら途中まで一緒に行こう」

 願ってもいない提案に私が二つ返事で了承すると、彼は笑って、それなら行こう、と彼は踵を返して歩き出した。いつもとは違う彼の姿と、普段と変わらない声色に、必要以上に胸が高鳴っているのは決して気のせいではないだろう。心なしか弾む足音に耳を澄ませながら、彼の背中を追って私も改札をくぐった。

 ターミナル駅となっているこの駅は、休日ということも相まってとても混雑していた。聞こえる人々の声、電車の走る音、そして構内放送。たくさんの人や音が飛び交う駅構内では、気を抜けば通り抜ける人やカバンや荷物やらが、容赦なく身体を叩いては通り過ぎていく。なんだか満員電車に乗っているみたい。いや、自分が移動しなきゃいけない分満員電車よりもたちが悪い。人込みを縫う様に通り抜けられる芸当もできない私たちは、人の波に揉まれながら一歩一歩目的のホームを目指していた。どうやらアドニス君は私の目的地の少し先の駅に用事があるらしいので目指すホームは一緒だ。
 緑色の印の看板を目指して歩いていると、すれ違った人と肩を盛大にぶつけてしまい、後ろへ大きくよろけてしまった。しかしそんなことはお構いなしに人の波はどんどん一定方向へ流れて行ってしまう。気が付いた時には隣にいたはずのアドニス君が、見れば斜め前の方に移動していってた。これはどうするべきなのだろう。立ち止まることもできずに少しでも前へ前へと人込みをかき分けていると、突然誰かに肩を掴まれた。小さく悲鳴を上げる私に、すぐ近くから聞きなれた声。よくよく見れば私の肩にかかる肌の色は、日本人のそれよりも少しだけ濃い。

「アドニス君」

 私が彼の名前を呼ぶと、すぐ真横から声が聞こえた。突然のことに驚き彼の方を見上げると、アドニス君はきょとんとした表情で私を見下ろしている。そして、不思議そうに首をかしげながら、どうした、と一言。

「ご、ごめん、はぐれたかと思った」
「ああ、そういうことか。お前が隣に居なくなったから、すぐに追いかけてきた」
「ごめんね、ありがと……あとその、肩が……?」

 背中に腕を回す形でしかりと掴まれた肩。困惑の視線をアドニス君に投げると、

「ああ、このままだとホームに着くまでにはぐれてしまうだろう……すまない、不快だったか」

 潔く離れる手に、私は首を大きく横に振る。恥ずかしいの気持ちが勿論あるが、不快というほどではない。彼に寄り添うように歩きながら、嫌ではなかったよ、と私が伝えると、アドニス君は安堵したように相好を崩して、そのまま私の肩に手を伸ばす。私は慌ててもう一度首を横に振り

「あ、でもそれは恥ずかしい」

 と弱弱しく呟いた。だってなんかまるで恋人同士みたいじゃん。いや、私は嬉しいんだけど、勿論アドニス君に恋する身としてはとても嬉しいのだけれども、彼にも私にも世間体というものがある。恋人同士ならいざしれず、さすがにこうクラスメイトで、そういう関係でもない私たちがそれをするわけには。
 言葉に出さない感情が頭の中をぐるぐると泳ぐ。泳いでいる間にも人々は目的地に向かい四方八方進んでいく。肩を抱くのはどうかとしても本当に注意していないとはぐれてしまうのは必至だ。どうしたらいいんだ。私がぐだぐだと悩んでいると、左手指にするりと何かが滑り込む感触。見れば私の指に絡む、褐色の指。

「これではぐれないだろう」

 自信満々に言ってのける彼に、照れというものはないのだろうか。いやきっと、きっと下心なんてないんだろうな。私はそう思いながらアドニス君の手を強く握り返した。指の間に伝わる、ごつごつとした骨ばった感触。男の子の指だ。掌だって私よりもずっと大きい。
 ぽつり、と心に芽生えた悪戯心の命ずるまま、彼の掌にそっと指を滑らせると、アドニス君は驚いたようにこちらを見下ろした。何か言いたげに瞳を揺らしていたが、今までの仕返しだ、と言わんばかりに、どうしたの?とわざとらしく首をかしげる。だってほら、やられっぱなしって悔しいから。

「なんでもない」

 そっぽを向く彼の顔がほんのり赤かったのは気のせいだろうか。いや、アドニス君のことだし気のせいなんだろうな。
 人込みをかき分けるようにずんずんとホームに向かう彼に導かれながらコンコースを歩く。あれだけ雑多に聞こえていた人々の声が急に気にならなくなったのはきっと、私の鼓動がうるさいからなのだろう。

 目的のホームにたどり着いた私たちは丁度駅に滑り込んできた電車に乗り込んだ。下車率は多かったものの、鈍行だからか乗り込む人たちはまばらだ。丁度二人分空いていたシートに腰を下ろして、一息を吐く。

「なんだか疲れちゃったね」
「すごい人だったな」
「休日だからだろうね、これから遊びに行くのかなあ、皆」

 私がそう言うとアドニス君は首をかしげて、お前はいかないのか?と問いかけてきた。用事も済んだし家に帰るところだよ、と答える私にアドニス君は一度、考えこむように目を伏せた。どうやら電車に乗っても離す気はないらしい手は、しっかりと繋がれていて簡単には解けそうにない。否、私が嫌だといえばきっと彼は解いてくれるだろう。だけどどうにも手放すことができない温もりを堪能しながら、アドニス君の横顔を眺める。

「アドニス君は用事?」
「ああ、姉たちに頼まれてな」
「あ、いい弟してるね、優しい」
「いい弟か、姉たちもそう思ってくれているといいのだが」

 そう言ってアドニス君が苦笑を浮かべた。優しくて格好良くて、自慢にしかならないよきっと。あまりにも率直すぎる感想は胸に秘めながら、きっと思ってくれてるよ、と私はその言葉だけ呟いて彼に微笑みを零す。アドニス君もつられるように微笑み、ありがとう、と謝辞を小さく呟く。

 学院方面に通じるこの路線は海がよく見えると評判だ。丁度空いている車両に乗り込んだおかげで、電車の窓からは太陽の光に揺れる波が瞬きながら広がるさまが見て取れた。海岸なんて見慣れているはずなのに、電車から見える景色は一等特別なものに思えた。ゆらゆらと穏やかなリズムを刻みながら光り流れる波を見つめながら、綺麗だね、とつぶやくと、そうだな、とアドニス君が返事をしてくれた。

 そこから会話は途切れ、電車の揺れる音と、ドアが開閉するたびに流れる波の音が私たちの周りを包んだ。先程の喧騒が嘘と思えるくらい穏やかな空気が私たちの間に滞留する。手はしっかりと握られたまま。アドニス君も私も、じいと目の前の光景を眺めながら、ただただ休日の穏やかな空気に身を任せていった。

 駅が私の最寄りに近付くにつれ乗客は一人、また一人といなくなる。そして列車の案内が私の最寄りの駅を告げると、アドニス君が私の名前を呼んだ。

「降りるのか」
「うん」

 名残惜しいけど、と指をほどこうにも、しっかりとつかまれた指はなかなか離れてくれない。アドニス君?と私が首を傾げると、先ほどまで簡単に肩を抱いたり指を繋いだりした人とは思えないほど、ほそぼそと、アドニス君は言葉を吐く。

「よければ、このまま」

 車掌が最寄りの駅がまもなくだということを車内に知らせる。流れる窓の外の景色がなじみの深い風景に変わる。大きく軋みをあげながら停車する電車、開くドア、下車する人、乗車する人。そして、閉まるドア。その間もアドニス君は私の手を放そうとはせず、じっと私を射抜くように見据えた。

「このまま俺と、出かけないか?」

 ようやく彼の口から言葉が飛び出した頃には、私の最寄りの駅は通り過ぎていた。アドニス君もどうやらここまで手間取るとは思っていなかったようで、噴き出す私に、照れ恥ずかしそうに視線を逸らしながら、あまり笑わないでくれ、と苦々しく吐き出した。

「お前の行きたいところで、行ける範囲だが、連れて行こう」
「まずはお姉さんのお使いからだね?」
「……そうだな」

 見慣れた景色からまた一面の海に景色が切り替わる。反射する光に目をくらませながら、どこ行こうかなあ、と私は笑う。アドニス君は少し恥ずかしそうに海を見詰めながら、考えておいてくれ、と一言呟いた。

 がたがた揺れる電車はもうすぐアドニス君の目的地の駅を告げるだろう。このままショッピングするのもいいし、海に繰り出すのもいいし、まったく違うところへ出向くのも藪坂ではない。膨らむ期待に胸を躍らせながら、光の波が漂うのをただただ眺めていた。