彼の口から飛び出す「お師さん」カウントが40を越えた辺りで、おとなしく話に耳を傾けていた私は書類を書く手を止めて、好きだねえ、と呆れ笑いをこぼした。彼が熱狂的に彼の事を慕っていることは知っているし、別に「お師さん」自体に嫌悪感はないのだけれど、あまりに毎日毎時このように「お師さんコンサート」をされると思わず皮肉の一言も言いたくなってしまう。
私は「お師さん」よりもみかくんのことが知りたいんだけど。言えるはずのない言葉は心にむなしく反響する。こんな口に出せない言葉は空虚に響くのに、どうやら口に出したは私の言葉の意図は彼には一欠片も伝わってないらしく、目の前で楽しそうに布をいじるみかくんは、顔を輝かして、せやねん!と大きく声を張り上げた。
「もうホンマにお師さんはすごい人でな!」
41。心のなかで深くため息を吐きながら「お師さん」カウンターを回す。しかし両目を輝かせながら雄弁に語る彼の口を止めたくなくて、相槌をうちつつ誉め言葉が止まりそうになったら適度に話を促してしまう自分が恨めしい。彼の独特のイントネーションに耳を傾けながら、「お師さん」は愛されてるなあ、なんてすこし羨ましく思ってしまう。こうして居ないところで愛を紡がれて。わたしなら幸せすぎて死んでしまうかもしれない。彼の愛言葉に溺れてしまう気がする。
「あ、もしかしてしゃべりすぎた?ごめんなあ、仕事中やもんな」
先程までノンストップで喋り続けていたのに、みかくんはわたしの止まったシャーペンと、書きかけの書類を見てしゅんと項垂れ口を閉じてしまった。先程の煌めきはどこへやら、眉尻を下げて、俺も作業するわぁ、と一言、寂しそうに呟くと縫いかけの布と向き合ってしまう。私は慌てて首を横に振って、そんなことないよ、と伝えると彼は弱々しく笑い、なんか気い使わせちゃったなあ、と一言呟いた。
「お師さんにもよく怒られんねん、あかんなあ」
どうやらまた私の放った言葉は湾曲して彼の心に落ちてしまったようだ。自嘲気味な笑みを浮かべてちくちくと針を布に泳がせる彼の横顔を見ながら、どうすれば伝わるんだろうかと考えてみたが気の効いた言葉ひとつ浮かばない。私も仕方なくシャーペンをとり、書類に文字を滑らせる。なんだか切ないなあ。彼の紡ぐ言葉はまっすぐ私に届くのに、私のそれはうまく届かない。
ふと訪れた沈黙に切なさを感じながらお互いの作業を進めていると、みかくんが急にはっと顔をあげ、先程の煌めきを表情に宿し嬉しそうに顔を綻ばせた。
「お師さんの話?」
「え?!すごい、ようわかったなあ」
弾む声を聞きながら私も微笑みながら頷く。そりゃあわかるよ、ずっと隣できみの話を聞いてたんだもん。話して話して、と私が促すと彼は照れ臭そうに一度こちらに目線を投げて笑うと、あんなあ、と言葉をひとつ置いて、口を開いた。
「おれ、ようお師さんとマド姉と喋るんやけど」
「うん」
「そのとき、お師さんにようあんたの話するなって言われたこと思いだしてん、なんか照れるわあ」
その言葉を聞いた瞬間、私は一体どんな顔をしていたのだろうか。めっちゃ真っ赤やん!と笑うみかくんの声を聞きながら、嬉しさと照れ臭さが入り交じった感情に、ただただ溺れるしかできなかった。