壁だけど壁じゃないものが、この学院には往々に存在する。見分け方は簡単で、何かこの壁はおかしいぞ、と思ったら右斜め上を見る。そこにミートソースパスタの小さな食べこぼしがあれば、それは壁ではなく、忍くんがいる証拠だ。この事実を教えてくれたのは他でもない衣更くんで、彼はよくこの見分け方を使うらしい。だって俺たちが用事あるときに見つからなかったら大変だろう?そう笑っていた彼の姿を思い出す。確かにわかりやすいけど、忍者というにはほんの少しだけ間抜けな気がした。だけどそんな間抜けが彼の愛らしさを引き立てているのかもしれないなあと、壁ではない壁の前に立った私はそんなことを考えながら口を開く。
「忍くん忍くん」
「……!今日も気付かれたでござる」
「うん、用事があるんだけどね」
「相変わらず反応がクールでござるな!して、何用でござるか!」
案の定、壁と思しき箇所がべろりと剥がれる。壁と布の隙間から顔を出した忍くんは眩しいほどの笑顔を浮かべながらキョロキョロと辺りを窺っていた。何を警戒してるの?と聞けば、忍者はいつでも警戒するものでござるよ、と誇らしげに鼻を鳴らす。警戒心のかけらもないパスタの食べこぼしは、布がめくれたおかげで綺麗に隠れているようだ。彼の言動のちぐはぐさに抑えきれない笑みをこぼすと、忍くんは頬を膨らませながら、何が面白いのでござるか、とむくれた声を上げた。秘密だよ、と私が言うとさらに頬を膨らまし、いじわる、と一言。その響きのなんたる可愛いことか。心の奥底で揶揄いたい欲が入道雲のようにむくむくと広がるのを感じる。が、なんとかその気持ちを押しとどめて彼に視線を向けると、未だに拗ねたように眉をひそめる忍くんの顔が目に入った。
拗ねさせちゃったなあ。私は右手をポケットに入れて、手探りで一粒の飴を取り出して彼に差し出す。飴を見た忍くんの眉の間に刻まれていたシワは一瞬のうちに解け、彼は飴を凝視し、そして私を見つめる。そしてまた飴を、私を。彼が視線を往復するたびに短くなる感覚に堪えられずに私がうっかり吐息とともに笑い声を漏らすと、忍くんは先ほどより顔を強張らせて、転校生殿!と声を荒らげた。
「か、からかっているのでござるか!」
「違う違う、どうぞ、お食べよ」
「むむむ、ならお言葉に甘えて……」
忍くんがそろそろと壁の布から腕を出して私の手から飴玉を受け取った。そして壁の布を躊躇なく廊下へと落とし、自由になった両手で包装袋を破り飴玉を口に放り込む。途端、甘さで解ける表情。美味しいでござるな、ちょっと不思議な味だけど。忍くんがあまりに幸せそうにそう言うので私はしれっと
「うん、それ毒の味」
と口にすると、彼の口内から、がり、という威勢の良い音が響いた。
「あ、冗談だからね?」
「ひ、ひ、ひどいでござるよ!拙者一瞬信じた!この人でなし!腐れ外道!」
「でも美味しいでしょ?キウイ味だって」
「う、確かに美味しいでござる……」
噛んじゃったでござるよ、と忍くんが口を尖らせながら苦言を呈す。小さくなった欠片を舌で転がしているのか、彼の口はせわしなくもごもごと蠢いていた。私がポケットから同じ飴玉を取り出して彼に差し出すと、二回目だからだろうか、忍くんは訝しげな目線をこちらに向けて私と飴玉を今度はじっくりと見比べた。
「あげるよ、同じ味、ごめんねからかって」
忍くんは先ほどよりも慎重にそれを掴んで自分の元へ引き寄せた。忍者が簡単に人から物を貰っちゃだめなんじゃないの。込み上げてくる揶揄する言葉を押しとどめながら私は彼を見る。忍くんは手のひらの飴を眺め、何度か握り、そして丁重にポケットの中へと転がした。ありがとうでござる。少し拗ねたような感謝の言葉が聞こえる。どういたしまして、と笑うと、彼はばつが悪そうにそっぽを向いてしまった。
「ね、忍くん」
「なんでござるか」
「忍者である忍くんに折り入って話があるんだけど」
そう前置くと彼は先ほどまで曇らせていた表情を晴らし、興奮した声音で、忍者である拙者になんの用事でござるか!?と少々食い気味に近づいてきた。そしてぴたりと止まり、脱ぎ捨てられた背後の壁の布を見て
「ちょっと待っててほしいでござるよ!」
と言い、踵を返してそれをいそいそと片付けだした。どうやら死角になっているのか、ミートソースの跡には気付けないまま手早くそれらは綺麗に畳まれてしまった。忍くんは壁の布をくるくると筒状にして脇に抱えると、私の元へと駆け寄り、さあ何なりと、と力強く胸を叩いた。
「衣更くんに用事があるから、生徒会室まで護衛を頼める?」
「お安い御用でござるよ!」
そう言うや否や彼は私の一歩前に飛び出して、振り返る。
「迷わずについてくるでござるよ!」
鼻息荒く飛び出す言葉に私は微笑みをたたえながら、お願いします、と一言つぶやいた。やはり彼は忍びには向いていないんじゃないか。果敢に歩き出す彼の輝くような笑顔とミートソースの丸い跡を思い出してくつくつと小さく笑い声を漏らす。でもこうして単純だから、少しだけ抜けているからこそこうやって一緒にいれるんだよね。
前方から聞こえる鼻歌に、やはり忍べてないと私は肩を震わせながら音もなく笑う。軽快なステップとリズムを奏でる可愛い忍者は、真昼間の廊下を陽気に闊歩した。