DropFrame

僕らの拙い相互作用

 世界の皆が敵に回ろうとも君の味方でいたい、なんていうと少し格好つけすぎかもしれない。でもまあこの学院にはびこる悪い男たちから守りたい気持ちは嘘じゃないし、それは後輩を思うそれ、というよりはまだ淡い、芽吹き始めた恋慕だということには割と早い段階から気が付いていた。いつも囲んでくれる「かわいい女の子」でもなく、小憎たらしいけど「放っておけない後輩」でもない。心のど真ん中に居座る、というよりはいつも思考の端っこで影をちらつかせるようなそんな存在。視界に入ると目は追っちゃうし、爪先はそちらへ向いちゃうし、声だって自然と外に出てしまう。薫にとって転校生とは、そんな稀有な存在だった。

「ねえ、今からプロデュースなの?」

 薫が声をかけると彼女は決まってしかめっ面をして、足早に立ち去ろうとする。他の人なら面倒だし追いかけるようなこともしないけれど、彼女の背中は、なんというか追いかけたくなる引力みたいなものが働いているんだと思う。薫にとっての引力、彼女にとっての斥力。近付こうとしても逃げられる。距離感が縮められない。でも、追いかけるから遠ざかることもない。絶妙な距離感だなあ、と薫はいつも思う。そして自分自身も、この距離感を嫌だと思っていないからなおのことに驚く。もちろん付き合いたら一番嬉しいし他のどんな奴より幸せにする自信はあるんだけど、彼女の反応を見る限りそれはちょっと厳しいことは知っている。だから、ただ見守って、悪いやつから守って、それだけでいい。

 なあんてね。薫がそんなことをかいつまんで零にこぼすと、彼は愉快そうに笑い、それは愛じゃなあ、と彼は言った。愛ねえ、と薫も反復する。どうやら「愛」というものは、想像していたよりも世知辛いものらしい。

「薫くんも嬢ちゃんに骨抜きじゃのう」
「そんな本気になるわけないでしょ」

 そうは言いはしたものの、彼女の小さくなる背中を思い出して胸に小さな痛みを覚える。思考を遮断するように薫が頭振ると零はまたけらけらと笑った。

「ていうか薫くんもってなに、”も”って」

 なんか、腹立つんだけど。ぼそりとつぶやいた薫の言葉はどうやら零には届いていないようで、行き場のないそれは誰に届くでもなく霧散して宙へと散った。


* * *


 そんな話をした数日後。薫がぶらぶらといつものように廊下を散策していると、女の子特有の甘い香りを漂わせながら、彼女が目の前を横切っていった。転校生ちゃん、と声をかけようとした手が止まる。薫の目の前を歩く彼女の足取りが、あまりに覚束なかったからだ。顔をしかめて廊下を漂う彼女の横顔は、遠くから見てわかるほどに大分に悪い。駆け寄るように彼女に近づいてその細い手首を取ると、彼女は驚いたように顔を上げた。そしてその手を引いた存在が薫だとわかると、先ほどのふらふらした様子からは考えられないほど強く、逃れるように掴まれた手首を引いた。

「ちょ、ちょっといきなりなんですか」

 狼狽する彼女の手首を離すと、彼女は数歩薫から距離を取った。ご挨拶だなあ、と思いながらも過去の自分の仕打ちを思い出し、苦笑する。蒔いた種だから仕方ないか。それに、どうやら話は聞いてくれるみたいだし。逃げるでもなくじいとこちらを睨め付ける彼女の姿を見て、薫はできる限り穏やかな声色で、時間大丈夫?と尋ねた。彼女は黙って頷く。

「急ぎの、仕事ですか?」
「いや、なんか顔色悪くない?」

 彼女は、鏡見てないんでわからないです、とむすっとした表情でそう言った。しかし自らの体調不良には気が付いているのだろう、ばつが悪そうに逸らされる目線に、素直じゃないなあ、と思わず薫は相好を崩す。そんな態度に彼女は眉間の皺を刻みながら、何笑ってるんですか、と苛立たしげに言葉を吐いた。いつもは柔和にーーそれでも冷たいことは変わりないけどーー躱す彼女からそんな鋭い言葉が出てくるとは思わなくて、これは相当調子が悪いんじゃないか、と思わず軽薄な笑みを消して真顔になってしまう。彼女は薫の顔を見て自分の言葉の鋭利さに気がついたのか慌てて頭を下げて、すいません言葉が過ぎました、と一言。
 こういうところ真面目だよね。そう心の中で呟くと、数歩彼女に近付いてみた。彼女は逃げずにそろそろと顔を上げる。上げる瞬間、一瞬だけ顔が歪む。ほんのりと呼吸も荒い。顔は赤くないけど、と値踏みするように薫は彼女の顔を眺めた。うん、原因はわからないけど体調不良には変わりなさそう。

「ね、俺さっきの一言で傷ついちゃったんだけど」

 曇っていた彼女の顔が、さらに影を落とす。申し訳なさそうに目線を地面に落とす彼女の手を再度取ると、転校生は困ったように薫の顔を見上げた。目の下にくっきりと隈ができてるのを見て、もしかして寝不足かな?と推測する。ああでも最近暖かかったり寒かったりするから風邪なのかもしれない。どちらにせよ、寝かしつけたほうがいいんだろうなあ。薫が黙って思考を巡らせていると、怒っていると勘違いしたのか、彼女の口から弱々しく謝罪の言葉が漏れる。薫はそんな彼女の手を引いて踵を返し、今自分が歩いてきた方向へと足を向ける。ーーできるだけ、彼女の体調に響かないような緩やかな歩調で。

「先輩、ど、どこに……?」
「悪いと思うならさあ、そうだなあ、昼寝に付き合ってよ」

 昼寝?!と驚愕する彼女をよそに薫は一直線、保健室に向かって歩き続ける。本当はこれっぽっちも眠くないんだけどね。苦しい言い訳だなあ。自分でも呆れるほどの言い分だったにもかかわらず、彼女は抵抗もせずに導かれるまま後ろをついてきている。なんだかんだで従順だよね。窓に映る自分と彼女の姿を横目で見ながら、薫はぼんやりと、そんなことを考えた。


* * *


 放課後の保健室には「不在(職員室にいます)」の札がかかっていた。先生不在みたいですけど、と恐る恐る声をあげる彼女に薫はにこりと微笑んで、ポケットから鍵を取り出す。
 これはそう、当時奇人達が「やんちゃ」していたときの名残を譲り受けたものだ。正確には「借りた」といえばいいのか。手慣れた手つきで保健室の鍵を破ると、薫は悪びれも無く保健室へ足を踏み入れる。手を引かれている彼女も無人の保健室へと足を踏み入れた。
 無人の保健室は惜しみなく陽光だけが差し込んでいた。白を基調としたベッドやカーテンがきらきらと光を反射して輝いている。ベッド選び放題だね、薫がそう一人ごちて振り返ると、保健室だから安心したのだろうか、先ほどよりもぐったりと体調不良を表にだす彼女の姿に、薫はひとつ息を飲んだ。よくもまあ、こんな状態で動いてたものだ。下唇をかみながら、睨みつけるように地面を見つめて何かに耐える彼女の姿は、見ていて痛々しいものがある。これ、俺が気が付かなかったらどうなっていたんだろう。できるだけ気遣うようにーーでも気遣ってしまうのがばれたら突っぱねられるので、さりげなくばれないようにーー彼女を近くのベッドまで誘導する。よたよたと、危うげな足取りで付いてくる彼女の方に振り返って、どうぞ、と笑うと、先輩が寝るんでしょう?と先ほどまで弱っていたはずの彼女は努めて平然に答えた。その表情があまりにいじらしくて、思わず揶揄を飛ばして困らせたくなる。が、その欲望をどうにか押しとどめて、

「俺も寝るよ?でもほらレディファーストってことで、お先にどうぞ」

 怪訝そうにベッドと薫を交互に見る。ただ見るだけで石のようにその場から動こうとしない彼女にしびれを切らし、薫は無理やり手首を引いて彼女を引き寄せた。嫌悪なのか、痛みなのか、彼女は大きく顔を顰めて、薫を睨みつけた。が、薫はそんなことも気に留めずに彼女をそのままベッドへと押し倒す。きゃあ、と小さな悲鳴。跳ね上がるスカートの方は見ないように手探りで掛け布団をまさぐり、

「きみってさ、無防備だよね」

 起き上がろうとする彼女を抑えながら、指先にふれた掛け布団をそのまま彼女にかけてやる。意図が分かったのか、先輩、と声を上げる彼女に一つ笑顔をこぼして、薫も彼女の傍に腰を下ろした。ベッドのスプリングがぎしりと悲鳴を上げる。なんで、と困惑の声を上げる彼女の頭をひと撫でしてやると、彼女は口を噤んで恨めしそうにこちらを見上げた。しかし、ただそれだけだった。彼女は根負けした、とでも言うように一度細く長い息を吐くと、潤んだその瞳を薫に向けて、ごめんなさい、と弱々しく呟いた。

「でも、うそつきです」
「君に言われたくないなあ、きっと今日いろんなひとに大丈夫?って聞かれたんじゃないの?」

 心当たりがあるのか彼女はまた口を閉じてしまった。いつもよりも何倍もおとなしい彼女の輪郭を優しくなぞりながら、寝てもいいよ、と極力優しく囁く。彼女は重そうに瞼を閉じると、また緩く目を開いて右手をもぞもぞと動かす。潤んだ瞳が薫を捉える。こんな病人を前にして思う事でもないが、扇情的、というのはまさに今の彼女を指すのだろう。胸中から湧き上がるなにかを必死に抑えつつ彼女の目線を受け止めると、せんぱい、という弱々しい声とともにブレザーが引っ張られる感覚を覚えた。どうしたの?と薫が訪ねると、彼女は一度目を伏せて、言い辛そうに言葉を舌の上で転がす。

「つごうの、いいときだけあまえて、ごめんなさい」

 思わず、輪郭を撫でていたその手を止めて、彼女を見つめた。彼女は依然眉間にしわを寄せながら、しんどそうに薫を見上げている。潤んだ瞳、上ずった声、そして熱のこもった吐息。だめだよ、そういう顔を簡単に見せたら。薫は生唾を一つ飲み込みながら、しかし煩悩を心の中で殺しつつ、声を絞り出す。

「もっと甘えてくれてもいいんだよ、ほら、おやすみ」

 一度彼女の頭を優しく撫でて手を引くと、これ以上手を出さないように、薫は股の間で両手を組んだ。離れていく手を名残惜しそうに見つめる彼女に、寝るまでそばにいるから、と言うとようやく彼女は表情を崩してそのまま目を閉じた。

 きっと俺は朔間さんみたいに見守るだけ、ってのはできないんだろうなあ。荒い呼吸が穏やかに規則的に響くようになった頃、薫は自分の手のひらを見つめながら、一人、苦笑を漏らした。それでも、君を守りたいと思う。柄じゃなくても、一番じゃなくてもいい。避けてもいいし、こうして利用してくれてもいい。ああ、本当にらしくない。

 弱々しく握られた指先からブレザーを剥がすと、彼女はいちど呻いたが、また夢の中へと旅立ったようだ。薫はベッドから離れて消毒液などが乱雑に置いてある棚から、黄色い付箋型のメモを取り出した。そして近くにあったボールペンで「転校生を寝かしつけました」と記すとそれをそのまま佐賀美先生の机の上に貼り付けた。きっと忍び込む悪ガキなんて限られているだろうから、匿名で大丈夫でしょ。

「早く元気になってね」

 最後に彼女の眠るベッドを見ると、彼女はすっかり安心しきった表情ですやすやと寝息を立てていた。本当に無防備。今日何度思ったかわからない感想を浮かべ苦笑すると、彼女の寝顔が誰にもばれないようにベッドのカーテンを閉めた。

 今はまだ、先輩でいてあげる。誰もいない保健室に薫の言葉だけが、凛と響いた。