まるでそれは、海底を歩いているような日だった。青空にはうろこ雲が浮かび、水面のように風に揺られて流れている。日曜日の海岸は夏の喧騒など忘れてしまったようにすっぽりと静寂に包まれていて、私と、アドニスくんの砂利の上を歩く音と波のさざめきしか聞こえない。風にあおられて膨らみ泳ぐ彼の上着を裾を見ながら、私はその大きい背中を追った。彼は心配なのかたまにこちらを振り返り付いてきていることを確認すると、また前を向き黙々と歩く。会話らしい会話はない。だがこの沈黙は、別段苦痛に感じなかった。
じゃりじゃり。絡み合った音が響く。春先の潮風はまだ冬の香りを残しており、時折驚くほど冷たい息を吹きかける。慌てて彼の陰に隠れるように小走りでアドニスくんの隣に駆け寄ると、アドニスくんはちらりとこちらに目配せをして、どうした、と笑った。
「風がつめたいなって」
「まだ春だからな」
「春はもう少し暖かいよ」
「ならまだ冬だな」
彼がおもむろに上着を脱ごうとするので、私は慌てて、いらない、と頭振った。アドニスくんは迷ったように視線を彷徨わせて着崩した上着を整える。俺は大丈夫なのだが。無骨な声が響く。器用とは言えないその優しさがくすぐったくてくすくす笑うと、アドニスくんは困ったように顔をしかめて、またすたすたと歩き出した。私も歩調を早めるが、照れも混じった彼の歩幅はいつもよりも幾分大きく、早い。どんどんと離される距離に唇を尖らせると、彼は振り返り私を見て、行くぞ、と声をかける。
べつにゆっくり歩いているわけじゃないんですけど。競歩のように歩みを進めながらアドニスくんの一歩後を歩く。やはりアドニスくんは数歩歩くごとに心配そうにこちらを振り返って、そしてまた歩き出す。歩調を緩めてくれるわけではないのだが、急かすような言葉もない。近すぎず、遠すぎない。そんな距離を保ちながら二人で海岸沿いを歩く。遠くの方で船の汽笛が聞こえる。鳥が囀っている。そして目の前にはアドニスくんが、いる。風に揺られて楽しそうに泳ぐ上着と、ちらちら見える扇情的な腰と。視界いっぱいに広がる彼の姿に頬を緩ませながら、二人で穏やかな午後を闊歩する。
ふと、思い立って彼の上着の裾を、目の前をちらちら流れるそれを指先でつまむと、アドニスくんはこちらを振り返り、どうした?と首をかしげた。意味はないのだけれど、と私が言うと、彼は踵を返してこちらへ歩いてくる。私が彼の裾から手を離すと、大きく吹き抜ける風が彼の上着の裾を遊ぶようにもっていってしまった。
「……手を」
「手を?」
「繋ごう」
アドニスくんは少し照れ恥ずかしそうに私から目線をそらすと、返事も聞かずに私の指先に自らの指先を絡ませた。大きな彼の手に私の掌はすっぽりと収まってしまう。指の間に灯る暖かさがくすぐったくて、照れ笑いを浮かべると、アドニスくんも少しだけ口元を緩めながら笑った。