恋ってきっと、綺麗だとか、楽しいだとか、そんなキラキラした感情だけじゃ成り立たない。自分自身どうしようもなく躍起になったり、どす黒い気持ちを抱えたり、そういうものにあがきながら、必死にもがくものなのだと、私は彼に恋をして初めて知った。
傍で眠るアドニスくんを眺めながら、つい付き合わせてしまった罪悪感と、それでも彼が隣にいてくれる喜びで絡まり合った複雑な気持ちが胸の中に疼く。彼は私が頼んだことは大抵快諾してくれる。それに甘えた結果が、これだ。時計の針が6時を回ったところで裁縫の手を止め、隣で眠る彼を揺り起こす。しばらく私の手の動きに合わせて揺れていた彼の体は徐々に覚醒してきたらしい、ううん、なんて弱いうなり声が聞こえたので私は急いで手を離した。アドニスくんは離れる手につられるようにむくりと起き上がると大きな体を伸ばし、一つ、欠伸をこぼした。そうして私の方を見て、終わったか?と口にする。
「うん、ごめんね、遅くなっちゃって」
「気にしていない、帰るぞ」
別に特別な関係じゃないのだから、こうして優しくする必要なんて何もないのに。糸の始末をしながら、上着を羽織るアドニスくんを見つめる。夕日が落ちてしまって星が瞬きだした空は、いつもよりも淡くぼんやりと世界を照らしていた。気がつけば私たちの纏う空気も春らしい輪郭のない暖かさが香る空気に変貌している。こうして季節は巡るのか。衣装をカバンに詰め、薄手の上着を羽織り大きく伸びをすると、小さく骨が悲鳴を上げた。アドニスくんは私の方をじいと見つめて、今日も頑張っているな、と顔を綻ばせる。そんな表情、私に見せてくれなくてもいいのに。ちくりと刺す胸の痛みを感じながら私は曖昧に笑みを浮かべてカバンを持ち上げた。
繕い物があるから帰るのは遅くなりそうなんだよね。心細いなあ、なんて言葉を添えたのはお昼だったか。お昼ご飯を食べ終えて、少しでも進めようと現在請け負っている衣装を縫っていた矢先の話だったと思う。この進級の時期は各ユニット先輩を送り出すライブが終われば少しだけ暇ができるらしい。その隙を狙って今まで放置していた小さな衣装の解れだとか、成長してきた故の丈合わせだとか、そういう依頼がどかんと舞い込んできた。あまりに量が多すぎる場合はしののんやみかちゃんに手伝ってもらうが、現在抱えている物量はそれほど多くはない。多くはないと言っても、決して少なくもないんだけど。空いた時間を見つけて作業に勤しんでいると、ちょうどパンを頬張っていた彼とばっちり目が合ってしまった。今日も残るのか?と彼が聞いてきたので先述した返答をしたのだ。
今日は陸上部もUNDEADの活動もないことは知っていた。滅多にない彼の自由な時間だということは十二分に理解していた。それを踏まえての『心細いなあ』発言は、我ながらにいやらしいと感じた。それでも彼は私の発言に嫌な顔一つせず、なら俺が送ろう、と優しく笑んでくれた。予想していた通りの反応に、罪悪感が胸の内から沸き上がる。そしてその感覚は夜を迎えた今でも私の胸中に生々しく残っている。優しい彼の時間を、今日も無駄に奪ってしまった。それでも。
私の一歩分先を歩く彼の大きな背中を見つめながら、この景色を見ていたいから、と頭振った。一緒にいたいのだ、そばにいたいのだ。それはもう友情なんて垣根を大きく飛び越えた先にある感情だということは理解していた。そして、許されるわけがないことも、わかっているつもりだ。大切な彼の時間を奪うなんて、そんなことアイドルを補佐するプロデューサーのやることなんかじゃ、ない。不意に胸にくすぶる寂しい気持ちが悲鳴を上げて外に出そうになる。自分のブレザーの裾を握り、なんとか本音を飲み込みながら少し離れた大きな背中に向かって私は声をかけた。
「アドニスくん、今日もありがとう」
私のわがままを聞いてくれて。心の中でそう続けると、彼は私の方を一度振り返り、気にするな、と笑い立ち止まった。小走りで彼の隣に立つと、アドニスくんは先程より歩調を緩めて歩き出す。彼のさりげない優しさが胸に刺さる。きっと他の女の子ならこんなずるいやり方しなくても、もっと上手に恋をしていくのに。ため息を唾とともに飲み込むと、私はわざと自分の歩調を緩めて歩き出した。アドニスくんもそんな私の歩調に合わせて一歩一歩ゆっくりと足を運ぶ。ごめんね、もっと一緒に居たいから。不自然に感じない程度の穏やかな速度で、二人並んで真っ暗な廊下を歩く。白熱灯がぼんやりと私たちの行く手を照らす。廊下と内履きの擦れる柔らかい音だけが、廊下に響く。
アドニスくんは、遅い、だとか、もう少し早く歩け、なんて文句を欠片もこぼさず、ただひたすら私と同じ速度で足を進めてくれた。それを仕向けたのは私なのに、だんだんその優しさに耐えきれなくなって、私は彼の名前を呼んだ。アドニスくんは、どうした?と首を傾げて私を見下ろす。
「その、ごめんね、もうちょっと早く歩いたほうがいい?」
「お前の歩きたい速度で歩けばいい」
なんだそんなことか。彼は安心したように肩をすくめながら、優しい声音でそう言ってくれた。ああもう、だから甘えてしまうのに。私は黙って頷いて、速度を上げることなくただゆっくりと廊下を歩いた。穏やかな速度で歩いているのに、心臓はやけに早く高鳴る。たまにちらりとアドニスくんを見上げると、丁度私を見下ろしていたのだろう、しっかりと視線が絡まってしまい、思わず叫びだしそうになった。悲鳴を飲み込み顔を強張らせる私にアドニスくんは、どうした?と首をかしげるので、私はただ黙って首を横に振って彼から目線をそらす。そんなやりとりを3回程続けていると、ふと、アドニスくんが呟くように言葉を吐いた。
「お前の足は小さいんだな」
並んでいる私の足とアドニスくんの足を見比べると、確かにふた回り以上違いそうだ。なんとなく歩みが遅いことを指摘されているような気がして、少しだけ歩調を速めながら、そう?と笑うと彼は私の腕を掴んだ。つんのめる私をアドニスくんは力任せに引っ張り隣に立たせると、ばつの悪そうな顔をして
「すまない、そういう意味じゃないんだ」
と私の腕から手を離す。そうか気付かれたのか。彼の言葉裏にある意味合いに気がついて、私は苦笑を浮かべる。早とちりしちゃった?と笑う私に、彼も苦笑を浮かべて、ゆっくりと歩き始める。私も彼にそって足を開き、歩く。本来ならきっともう靴箱で靴を履き替えているんだよなあ。ようやく階段にたどり着いた私はそう考えながらゆっくりと一段一段降りていく。なんだかこんなしょうもない気の引き方しかできない自分が情けなくて、私は拳を握りしめながら俯いた。突然うなだれる私に驚いたのかアドニスくんは歩みを止めて、どうした、腹でも減ったのか?と私の手首を掴んだ。振りほどく勇気もなくて、彼に腕を掴まれながら私はゆっくりと首を横に振る。
「私、アドニスくんの優しさに甘えてるなって」
「どういうことだ?」
「だって、アドニスくん、頼んだらこたえてくれるから、ワガママばっかり、ほんとずるいなって」
突然の独白だったのに、どうやら何を言わんとしているか気づいてくれたらしい。アドニスくんは私の手首から手を離して、私の前に立ちはだかる。私の方が数段上にいるから、彼とまっすぐ視線がかち合った。琥珀色の強い視線を感じながら目を伏せると、アドニスくんはいきなり右手を伸ばして私の腰に回し、強引に自分の元へ引き寄せた。階段なんてそんな幅もないので、足を踏み外し落ちそうになる私の膝裏に素早く左手を差し込み、彼は私を横抱きにした。抵抗する間もなく、所謂「お姫様抱っこ」状態にされて、ただただ目を瞬かせる。恐る恐る彼を見上げると、アドニスくんはまるで勝ち誇ったかのように口の端をあげて笑い、
「つかまってくれ」
と一言。言われる通り彼の肩に両手を通すと、アドニスくんは腕を動かしながら丁度良い、自分の腕が収まる位置を探りつつ私を抱え直す。
「ちょ、ちょっとなに?!いきなり」
「逃げるかと思って」
「に、逃げないよこうして付き合ってもらってたのに!」
「俺は気にしていない」
まるで彼が私の言葉にかぶせるようにそういうので、思わず目を丸くして彼を見上げてしまう。いつもよりも近い距離と、彼に直に触れる暖かさで、私の心臓は最高潮に高鳴っていた。これだけ密着しているなら、もしかしたらこの音も聞かれちゃうんじゃないのか。恥ずかしい、静まれ、静まれ!そう念じながら、必死に首を横に振るう。気にしていないってそれは、アドニスくんが優しいからだけで。情けないほど小さな声で文句を転がすと、アドニスくんはやはり笑みを絶やさずに、穏やかな表情で私を見下ろした。
「お前が自分のことをずるいというのなら、俺のほうがずるいのかもしれない」
「どういう意味……?」
「お前が頼ってくれると思って、幾つか言葉をかけたことがある、今日もそうだ」
そういえば、今日の発端は、彼の一言からだ。私の余計な一言で残ってくれたと思ったけど、もしかして、これは。
「お前のことが好きだから、頼られると、甘えられると嬉しい」
天窓から光る淡い月の輝きと、彼の泣きたくなるほど優しい微笑みに、私の心臓は大きく跳ね上がった。こんなのってない、ずるい。こんな顔されて、こんなこと言われて、そんなのって、ずるい。ずるいよ。
「だから気にしなくていい」
まるで幼子をあやすように彼はそう言い、私をもう一度抱えなおした。返事を特に強要したいわけでもないようで、彼は私を抱えたまま、階段を、先ほどと同じようにゆっくりした速度で降りていく。彼の歩く振動を感じながら、私は彼の胸に頭を預ける。アドニスくんは何も言わずに、私を抱える強さをほんの少しだけ強くした。
春の暖かい空気が私たちの周りを泳ぐ。息を吐き出すように呟いた、私も好きだからアドニスくんに頼ってた、という言葉は、とてもかすかに、それでも確かにこの空気を震わせた。アドニスくんは嬉しそうに笑いながら、知ってた、と一言呟いた。それだけで十分だった。全てが許されたような真っ暗な廊下で、私はひとつ、彼の胸に頬を摺り寄せた。