守沢千秋は、単純で明瞭な男である。年齢は一つ上、身長は私よりも頭一つ分大きいので、話すときにはいつも少しだけ見上げなければならない。声は大きい。彼の笑い声が階が離れている私の教室まで響いてくる事も少なくはない。彼の笑い声がかすかに響くたび、スバルくんは頭を抱え、真緒くんは苦笑を漏らす。そんな『快活』を体で表したような男に私は、恋をしている。
茜色の空に刷毛で塗ったような薄い雲が浮かぶ。漠然とした暖かな膜から解き放たれた風は、時折はっとするほど鋭く透き通った空気を流す。秋から冬へと変わるこの季節。頬をかすめる空気さえも冷たい。冬が来るんだな、と巡る季節を体で感じながら、そういえばこんな季節になっても先輩は腕まくりして走り回っていたっけ、とぼんやりと守沢先輩のことを思い出す。あれはいつだったか、流星隊の練習を見に行った日だから、そうか一昨日か。早々とコートを着込んでいた高峯くんとは対照的に、守沢先輩はブレザーから腕を豪快にまくり、お得意の高笑いを響かせながら練習に勤しんでいた。あの人、寒いとかいう概念はあるのかしら。そんなふと思い浮かんだ疑問に一人で笑みを浮かべていると、遠くの方からお寺の鐘の音が聞こえる。6時を知らせるその鐘の音は校内にいる私の耳にもしかりと届く。もうそんな時間なのか。私は靴箱からローファーを取り出して、中履と履き替え二、三度つま先で床を叩く。そして脇に置いてあったカバンを背負い、そのまま外に向かって歩き出した。今日も1日疲れたなあ、なんて、そんなことを思いながら。
外へ出ると一等に強い風が私の傍を通り過ぎた。ぷあ、と息を吐くと、ほんのりとそれは白く濁る。本格的に冬が来たのか。じわじわと熱を奪われる両手をさすりながら息を吐き出した。滲む白色、ほんのりと指先に伝わる暖かさ。気休め程度かな、と肩をすくめて私はいつもより早足で歩き出した。できるだけ早く帰ろう、明日は手袋を持ってこよう。暗くなってもなお練習に勤しむ友人たちと挨拶を交わしながら、校門へと向かい足を進める。と。
「今帰りか?」
突然、おおよそ手加減のない力で肩を叩かれた。どきりと大きく心臓も揺れる。こんなことをするのは一人しかいない、と浮かれてしまいそうになる口元を引き締めて、半ば睨みつけるような態度で振り返り、守沢先輩、と彼の名前を呼んだ。守沢先輩はやはり記憶通りブレザーを肘あたりまで捲り上げて、明るい笑顔を浮かべながら私を見下ろしていた。暑いのかいつもより開けた胸元から見える鎖骨に思わず目をそらすと、先輩は軽く屈み込み私の顔を覗きこんできた。
「どうした?腹でも痛いのか?」
気恥ずかしくなって目を逸らしながら、なんでもないです、と答えると、先輩は納得したのか顔いっぱいに笑みを浮かべながら、そうかそうか、と満足げに頷いた。なんでこの人はいつも一人で楽しそうなんだ。立ち上がった先輩を見上げると、燃えるような夕日を背景に彼の横顔がぽっかりと浮かぶ。彼が笑うたびに、茶色の髪の毛がふわりふわりと楽しそうに揺れる。やっぱり格好いいんだよなあ。先輩の横顔に視線を奪われていると、彼の大きな瞳が私の姿をしかりと捉える。そうしておもむろに彼は私の手を掴むと、さあ帰るぞ、と半ば強引に歩き出した。
「ちょ、ちょっと先輩?!」
「なんだ?帰るんじゃないのか?」
「か、帰りますけどその、手!手!!」
「ああ、はぐれるといけないだろう?」
あっけらかんと言ってのける彼のその姿に、私は目を丸くする。確かにこの夕暮れ、特に通り道である商店街は学生や主婦でごった返すのは間違いない。それでも、それにしたって!彼の大きな手が、すっぽりと私の手を包む。手の甲に感じる先輩の指先。手のひらの温もり。早鐘のようになる心臓の鼓動。全てが相まって私の頭の中はショート寸前だ。辛うじて口に出した、恥ずかしいです、の言葉は楽しそうに笑う先輩の笑い声でかき消されてしまった。
校門から出て信号を二つ渡るまでは、どうにかこの手を振り解けないかと考えあぐねいていたのだが、三つ目の信号で止まった時に先輩の楽しそうな顔を見て、もしかしてこれは神様がくれたご褒美なのかも、と思い込むことにした。繋がれた手から伝わる暖かさと、不意に力を入れる先輩の指の動きに翻弄されながらも、できるだけ意識しないように足元を見つめ歩く。
「こうしてお前と帰るのは初めてだな」
「なかなか帰宅時間って一緒になりませんもんね」
「プロデューサーは引っ張りだこだしな」
そんな忙しい時間を縫って流星隊の練習に顔を出してくれて感謝する。守沢先輩が不意に足を止めたので、私は足元から彼に視線を移す。先輩の愚直なほどにまっすぐな視線と、込められる指先の力に、またとくりと心が動く。大丈夫ですよ、なんて擦り切れるほどに口にした言葉を発そうとしたのに、喉につっかえて出てこない。首を横に振り、少しだけ手を握る力を強めると、守沢先輩は安心したように顔を綻ばせて、ありがとう、と一言、口にした。
「皆言葉にはしないが、いつも感謝しているんだ」
「そんな、大それたことはやってないですけど」
「そんなことないぞ、お前が来るか来ないかでは」
守沢先輩はそこで言葉を切り、眉間にしわを寄せて首をひねる。先輩の口から零れる、いや違うな、そうじゃないな、という端々の言葉を聞きながら、私も同じように首を傾けた。
「なんですか?」
「いや、志気というのか、盛り上がりというのか、そうだな、違うんだ、うん」
それは先輩のですか?とうっかり聞いてしまいそうになる欲望を心の中で押しとどめつつ、私は笑みを浮かべて、ありがとうございます、と一言だけ伝えた。きゅっと彼の指が私の手の甲の上で蠢く。そして守沢先輩は、うっかり聞き逃してしまいそうになるくらい静かに、優しく、私の名前をなぞった。それはどうやら彼にとっても本意ではない言葉だったらしく、驚く私の顔を見て、彼も大層驚きながら力強く私の手を握った。
夕方の商店街はいつも通り混雑を極めていた。一人なら気にならないのだが、確かに誰か連れがいるなら手を繋いだ方が安心する。人ごみに阻まれて先輩の姿は見えなくなってしまったのだが、手のひらに感じる温もりが安心感をもたらしてくれる。先輩は数歩歩くたびに人並みにもまれる私を力任せに引っ張っては歩き、歩いては引っ張りを繰り返してずんずんと商店街を進んでいった。ほんのりと香る揚げ物の香ばしい匂い、楽しそうな学生の談笑。周りを彩る素敵な要素はたくさんあったはずなのに、商店街を抜け切った私の心に残っていたのは、手のひらのぬくもりと、引っ張りあげてはいたずらに笑う先輩の横顔だけだった。
商店街を抜けて住宅街に入ると、まるであの喧騒が嘘のように、ほとんど人は見当たらなかった。どうやら大半の人たちは大通りに流れていったらしく、裏路地とも形容できるこの住宅街には人の影はほとんどない。もう手を離すのかな、と思いきや先輩はしっかりと私の手を握ったまま、住宅街を歩き始める。私も導かれるまま彼に小走りでついていく。途切れた会話は沈黙となり、私たちの間を漂い始める。何か喋らないとな、なんて話題を探すけれど、気まぐれに握り直される指先の動きに阻まれて全く集中できない。先輩は緊張の面持ちで前を見据えて、少しだけ早足で街を行く。レンガを模した可愛い道路を、二種類の足音が叩く。茜色から藍色へと変わりゆく空には淡く星が瞬き、船のように夜空を漂う三日月が、ただただ私たちを見下ろしていた。
「いい夜だな」
先輩は、ひとりごちるように一言、言葉を漏らした。彼の目はまっすぐ藍の空を見上げている。私も彼の視線をたどるように瞬く星々を見上げ、そうですね、と口にした。ふと浮かんだ、流星隊って星なのに昼間みたいに明るいですよね、なんて軽口をそのまま口にすると、先輩は夜空から私へと目線を移して、優しく微笑む。
「見えていないだけで、昼間も星は瞬いているからな」
「じゃあいつも見守ってるんですね、星は」
「そうだな、いつも見守っている」
指先にこもる力が強くなる。私も強く握り返すと、守沢先輩は笑って、帰るか、とつぶやいた。帰ってますけどね、と私が笑うと、違いないな、と彼も笑う。そして手に込める力を緩め私から手を離すとそのまま私の背中を一度大きく叩いて、明日もまたよろしく頼む、と一言そう言った。突然私は離れてしまった体温と感触に一抹の寂しさを覚えながら、それでもおくびにも出さないように、彼に微笑み大きく頷く。あの手は、はぐれないようにのための手だったもんね。指の間を吹き抜ける風と、切なく鳴る鼓動を振り切るように、私は小走りで守沢先輩を追い越し振り返る。眼前に映る空には茜色が、彼の色が残っていた。私は終わりかけた夕焼けと守沢先輩を見つめながら、帰りましょうか、とありったけの笑顔を浮かべた。
「そうだな」
守沢先輩も私に駆け寄る。隣に立ち、いつものように私を見下ろす。そして一歩歩き出したので、私も同じように少し大股で一歩踏み出す。寂しくなった左手を、ポケットにしまおうと手首を少し浮かせた、その時。
彼はごく当たり前に、自然に、私のその手を取り、指の間に自らのそれを差し込み、絡ませ、そして引き寄せるように、強く握りしめた。
「帰るか」
へ、と間抜けな声が私からぽろりと零れる。呆然としている私に、油断したな?と口の端をあげて、それはもう綺麗な笑みを顔いっぱいに浮かべ、笑った。先ほどよりも密着した手のひらが、強く結ばれた指先が、そしてなによりも、嬉しそうに笑うその顔が、心を、頭を、私をかき乱す。
守沢千秋は、単純で明瞭な男である。笑いたい時に笑い、感謝を伝えたい時に伝え、そして。
「せ、せんぱ、手!手!」
「はっはっは!先ほどまで繋いでいたのに騒ぐやつがあるか!」
そして、存外、ずるい男だということを、私は今日、初めて知った。