DropFrame

穏やかな午後

 ノートを走らせる手が、緩やかに速度を落として停止する。力の抜けた指から滑り落ちたシャープペンシルが、音もなくノートへ落ちる。こくりこくりと船をこいでいたのは知っていたのだが、ああ眠気に負けてしまったのか。寝息でかすかに上下する横顔を眺めながら、私はため息をついた。

 五時間目。午後の柔らかな光が教室を穏やかに満たす時間。昼食後、暖まった教室での堅苦しい授業というのは、もはや拷問に近い時間だ。寝ろといわんばかりの穏やかな先生の口調。単調に浮かぶ黒板の白い文字。こつこつと響く時計の針の音。そんな穏やかに時間が流れるこの空間に、こくりこくりと船をこいでいる人は珍しくないのだが、隣人ーー乙狩アドニスがこうして居眠りをする姿は、よくよく考えたらはじめてみる光景かもしれない。どんなにハードな部活の後でも、どんなに退屈なユニットのミーティングのあとでも、授業中は背筋をただしまじめに授業を受けている彼が。

「(......爆睡してる)」

 左手で頬杖をつきながら、右手はシャーペンを握った形から動かず、すうすうと寝息をたてている。頭の動きにあわせて、ひょこひょこと髪の毛が揺れる。小声で、アドニスくん、と声をかけても反応はない。揺さぶろうにも席と席が離れていて教師にばれてしまう。疲れているのかな、寝かせてあげたいな、という気持ちはある。が、確か記憶が正しければ、彼、宿題あてられるんじゃなかっただろうか。

「(どこだったっけな)」

 記憶をたどりながら教科書をめくる。そういえば先週、難しい顔をしながら数式と向き合っていたっけ。加法定理だったかな?公式をなぞりながら、数学なのか英語なのか判別がつかないな、と笑っていた表情が脳裏に浮かんで私の頬が少しだけ緩む。ダンスや歌は覚えられるのだが、これだけはどうも。公式に数字を当てはめながら記憶の中の彼は笑う。あっているのかあっていないのか。二人で板書ノートのポイントをなぞりながらそういえば、解いたんだっけ。自分のノート書いてある問題と答えを眺めながら私は思わず頬を緩める。ノートの隅には彼の「sinθ」の走り書きがちゃんと残っている。

 アドニス君。もう一度小声で彼を呼ぶ。今度は声に反応するかのようにぴくりと彼の方が揺れる。もう一度呼ぶ。アドニス君、宿題、あてられるんでしょ。今度はちゃんと聞こえたようで、彼は半睡の瞳をこちらに向けて、ああ、とだけつぶやいた。おきなきゃだめだよ。私の一言に、彼はゆっくりと教師のほうを見て、黒板を見て、そうして私を見る。

「俺は、そうだな、でも、大丈夫だ」

 言葉尻がしぼんでよく聞き取れなかったのだが、彼はそう言葉をこぼして、私に穏やかな笑顔を向けた。
しかし言葉とは裏腹に彼の目は今にも閉じそうだし、また小さくだが頭もゆらゆらと揺れている。
 ああ、これは寝るな。
 私はもう一度声をかけようと少しだけ身を乗り出した、その瞬間。彼の左手から重心が滑る。やばい、と思った瞬間に教室に響く頭と机を打ちつける鈍い音。静まり返った教室は波紋のようにざわめきが広がり、ご機嫌に授業をしていた先生も、乙狩?!と慌てふためく声を上げた。ちょっと、全然、大丈夫じゃないんですけど。

「す、すまない、寝ていた、ようです」

 流石にこの衝撃では目を覚ますらしい。打ち付けた額を右手でなでながら、完全に覚醒したアドニスくんは狼狽する先生に向かって、正直に申告した。先生は深くため息をついて、お前な、と言葉を切る。しかしあまりの痛々しさにその後のお小言は続かなかったようで、ふうと一度息を吐き出してから

「......わかった、眠気覚ましに、これ、解いてみろ」

 そういって先生は黒板に問題をすらすらと書いていく。あ、宿題のやつじゃない。私は額をさすりながら立ちすくんでいる彼を見上げる。

「......先週やったやつだよ、覚えてる?」

 小声でそう尋ねる。彼は私を見下ろして、深く頷く。

「お前が教えてくれた問題だろう、大丈夫、覚えている」

 そう言って表情を和らげた。格好悪いところを見せてしまったな。照れ笑いを浮かべて、アドニス君は黒板のほうへ歩き出した。五時間目、午後、緩やかな睡魔が襲い掛かる時間。なんだか彼の意外な一面が見れた気がして、私は笑顔をこぼした。