DropFrame

日曜日、いつもの席で。

その日もカウベルは明るく店内に響き渡った。

 平日だとどこに目を向けても黒のスーツで溢れかえっているこの街の日曜日は、まるで水を打ったかのようにひっそりと静まり返っている。それはこの店も例外ではなく、平日のランチタイムの喧騒はどこへやら、お昼時をちょっと過ぎた時間ということも相まってかテーブル席にはほとんど人は見当たらない。いつもよりも大きく流れるジャズを聞きながら、その日も同じように垣根の奥の特等席へ腰を下ろす。もしかしてこの近くにお住まいですか?人懐っこそうな店員さんが私にメニューを差し出す。私は緩く首を降り、友人を待ってるんです、と答える。店員さんがちらりとアドニスくんのサインを見上げるので、私は苦笑を浮かべ、彼でないことを伝える。そう、今日は違うのだ。

ジャズの音楽に合わせるがごとく、からんころんとカウベルが店内に鳴り響く。店員さんの声、それに応答する吹き抜けるような爽やかな声。こつりこつりと硬い革靴が床を叩く音を聞きながら、私は垣根の向こうへ目線を向けた。

「やあ、久しぶりだね」
「相変わらずお元気そうで何よりです、羽風先輩」

 隣から店員さんの喜色にまみれた小さな悲鳴が聞こえた。彼女に気付いた羽風先輩はひとつウィンクを投げかけると、そのまま頭上に飾られてるサインを見上げ、俺も書いた方がいい?といたずらに笑った。



 厚くよく焼けたパンケーキにシロップを垂らす私の目の前で、羽風先輩は手慣れた調子で色紙にサインを描き、期待に胸踊らせている店員さんへと手渡した。ありがとうございます!と声を上擦らせる彼女にーーここに通ってずいぶん経つのにこんな彼女の声なんて聞いたことないーー羽風先輩はにこりと笑顔を浮かべ、

「いつも俺の後輩たちがお世話になってるからね、ありがと」

 とウィンクをまた一つ投げかけた。ウィンクをしないと死ぬ病気なのか彼は。苦々しくその様を見つめる私に羽風先輩は気付いたようで、もしかして妬けちゃった?と首をかしげる。先輩のあまりの色気に頭痛がします、と私が答えると、やれやれと羽風先輩は肩をすくめ、

「昔はもっと可愛かったんだけどね、こんな後輩だけどよろしくね?」

 と私の頭を叩きながら店員さんにまた笑いかける。先ほどの「後輩たち」にはどうやら私も含まれていたらしい。ため息を吐き先輩の手を払いのけて一つ唸ると、彼は一瞬目を丸くして、可愛くないとこ晃牙くんにそっくり、と笑った。見慣れたはずの笑顔なのに妙に眩しく感じ、私は彼から目線をそらす。いつもは人ごみでほとんど見えないガラス張りの窓が、今日は良く見える。惜しみなく陽光が降り注ぐ店内に、軽快なジャズの音楽が店内を彩る。ふと先輩に目線を戻すと、彼はアイスコーヒーにシロップを入れてストローでかき混ぜていた。光に照らされて羽風先輩の金髪がキラキラと宝石のように光る。じいと伸びた襟足を眺めていると、彼の金色の瞳が私を捉え、ゆっくりと細まる。

「びっくりした?急に呼び出して」

 羽風先輩が微笑を浮かべる。私は素直に頷くと、彼は穏やかに笑みを浮かべて、そっか、と呟いた。そりゃ驚くに決まってるでしょうに、いきなり連絡をよこして、急に会おうだなんて。私は羽風先輩の微笑みを眺めながらぼんやりと記憶の糸をたどる。

 日曜日に君がよく行く店で会おう。突然やって来た懐かしいメールアドレスからの便りに、驚きのあまり携帯を落としそうになったのが、今週の木曜日。コンビニでおにぎりをかごにいれてる矢先の出来事であった。いたずらメールかなと思った。しかし差出人にはしかりと記載された、[UNDEAD]羽風先輩の文字。アドレス変えてなかったんだ、という気持ちと、何で店がばれたんだろうという気持ちが合わさり頭の中で絡まりあう。絡まりあったままそのまま金曜、土曜を迎え、私は釈然としない気持ちを抱いたまま今、ここに座っている。

 私はナイフについていたナフキンを剥がしパンケーキに当てる。柔い抵抗の後にさくりと囁くような小さな音。切り口から溢れ出る甘い優しい香りに生唾を飲み込むと、目の前でアイスコーヒーをくるくるかき混ぜていた先輩は笑い、幸せそうだね、と一言呟いた。私は先輩を見上げ、唇を尖らせながら、幸せですけど、と答える。くすくすと笑う先輩の端正な顔を直視しないように、私はパンケーキを一口サイズに切り分ける作業に戻った。

「先輩、何でここがわかったんですか?」
「アドニスくんが決まって同じ時間に消えるから、一回皆であとつけたことがあってさ」

とんでもないことを、事も無げにいい放つ。絶句するわたしを尻目に羽風先輩はからからと楽しそうにストローを泳がせながら言葉を続けた。

「その後に君が入ってきてさ、二人でご飯食べてるのみてあれこれって?って朔間さんと話したんだけど」
「朔間先輩もいたんですか」
「みんなっていったでしょ、晃牙くんもいたよ」
「めっちゃばれてる」

 うそお、と頭をかかえる私の姿を見て、羽風先輩はおかしそうに笑い声をあげる。気づかない方がおかしいって。彼が笑うたびにストローも速度をあげて水流を作る。一回り小さくなった氷はコップの縁にあたり、からりからりと声をあげた。彼の笑い声と氷の奏でる音に眉を顰めながら、私は小分けにしたパンケーキを一つ口に頬張った。口内に広がる甘い香りと柔らかい食感に思わず頬を緩めると、女の子だねえ、と羽風先輩がまた笑う。

「ところでアドニスくんといつ結婚するの?」

 今日はいい天気だね、だとか、そのケーキ美味しそうだね、だとか、そんなありふれた話題を振るような口調でそんなことを言ってきたものだから、思わずまだ大きなケーキの塊を、ゴクリと喉を鳴らして飲み込んでしまった。慌てて水を流し込む私に先輩はやはりからからと笑い、そんなに驚くことかなあ、なんて嘯いた。

「け、けっこん?!まだ付き合ってもませんけど?!」
「まだ?てことは君にはちゃんとそのつもりがあるんだね?」
「そ、そんなことは誰も……」
「ほら、俺たち一応アイドルでしょ?もしかしたらきみがアドニスくんをたぶらかしてたら嫌だなって朔間先輩と、あ、ちょっと睨まないでよ傷付くから」

 たぶらかす、の単語に過剰に反応した私は顔をしかめながら羽風先輩を見上げる。どういう意味ですか?と出た声はまるで私から出たとは思えないほど低く鈍く空気を震わせた。先輩は肩を落とし、ごめん言葉が悪かったね、と言葉を零すと

「わかってるよ、きみが高校生のころずっとアドニスくんのこと好きだったって知ってるし」
「え?ちょっとなんですか、そっちも解せないんですけど」
「うん?みんな知ってたけど?知らないのアドニスくんだけじゃないの?」

 そう言うと先輩は思案するように目を宙へ投げて、面倒になったのか、表情を崩し、まあそれはそれとして、とアイスコーヒーを一口すする。私も同じようにパンケーキを切り分け口へと運ぶ。が、混乱しすぎて味がわからない。感触を確かめるようにころころと舌の上で転がしていたら、羽風先輩がストローの口を指先でぶよぶよと潰しながら、ねえもう付き合っちゃいなよ、と嘯き始めた。あまりにその軽い響きに私はパンケーキを飲み込み、ちょっと軽すぎません?と眉間に皺を寄せた。他人事だからって、と言葉を続ける私に羽風先輩はストローから手を離して、机に肘をつき、手のひらに顎を乗せてじいと私を見つめた。

「軽くないよ、ずっと思ってた、高校の頃からずっと」

 先ほどまで軽薄な笑みを浮かべていたくせに、羽風先輩は急に真面目な顔をして私を射抜く。心の底まで見透かされているような気持ちになって目線をそらしたら、逃げるの?と彼は口にした。返す言葉もなくて口ごもっていると、先輩は私から目線をそらして、またからからとアイスコーヒーをかき混ぜる。アドニスくんはさ。先輩がそう口火を切るものだから彼の方へと再度目線を向けると、彼はアイスコーヒーの水面を眺めながら、ひとつ、ため息。

「いいやつだよ、本当に、優しいし」
「そんなの知ってます……好きだったから」
「もう好きじゃないの?」
「……あの頃なら、好きなら好きでよかったんです、今はダメです」

 明言を避けるように私は緩く首を振る。羽風先輩はやはり先ほどまでのような笑みは浮かべずに、ただ真剣な面持ちで、今は?と聞き返した。

「大人っていろいろあるじゃないですか、仕事とか、生活リズムも違うだろうし、利害関係とか、好きだけじゃ越えられないことって、大人になればそんなのたくさん、あの頃なら言えたかもしれないけど」

 切れ切れに言葉を漏らす私に、羽風先輩は緩く首を振った。

「ううん、そんなことないよ、現に言わなかったでしょ、高校の頃」

 からん、と大きく氷が鳴る。くるくる回していたストローは泳ぐのをやめて、氷だけがゆっくりと水流に流されるままアイスコーヒーを泳ぐ。真剣な眼差しの先輩を見つめ返すと、羽風先輩はふっと表情を崩して、いじめてるつもりはないよ、とおどけるように片手を上げた。

「でもねありもしない可能性に賭けるのはよくないよ、結局高校生のきみも今のきみも一歩踏み出すのが怖いだけだ」
「そんなこと」
「ないって言い切れる?」
「……なにがしたいんですか」
「可愛い後輩たちが何年越しかの思いを成就させようとしているなら、お手伝いしたいのが先輩なんじゃないかなって」

 ふと先輩がガラス越しに外を見つめる。信号待ちをしているのか制服姿のカップルがコーヒーを片手に嬉しそうに寄り添って立っている。君よりも恋愛偏差値高そうだよね、羽風先輩はそんな二人と私を見比べて笑う。私もガラスの向こうの、幸福そうに寄り添う後ろ姿を見ながら、あの頃、好きの気持ちをうやむやにしていた頃の私を思い返していた。アドニスくんの背中を追うことはたくさんあったけど、ああして隣同士歩くことはほとんどなかったような気がする。

 いつの間にか飲み干していたアイスコーヒーを脇に追いやると、羽風先輩がおもむろにポケットから小銭を取り出し机の上に置く。あれ、なんか見たことある風景。訝しげに羽風先輩を見ると、彼は私にウィンクを投げて、

「ということでアドニスくんを呼んでます」
「……は?」
「いや感傷に浸ってるところ悪いけど、あんまり時間もないんだよね、俺たち」
「それってどういう意味ですか」
「もうすぐ全国ツアーが始まるんだけどアドニスくんが君のことで悩んでたらツアーに集中できないでしょ?だったらさっさとくっつけてこいってリーダーがね」
「結局自分たちのためじゃないですか!」
「何言ってんの君が言ったんだよ、大人は利害関係を気にするって」

 大人っていろいろあるじゃないですか、仕事とか、生活リズムも違うだろうし、利害関係とか。先ほど私が口にした言葉が、頭の中でリフレインする。言葉を詰まらしていると彼はニコリと笑って、

「でもやきもき君たちを見てたのは本当だよ、さっさとくっついちゃいなって、じゃあね」

 そう言うと立ち上がりコートを羽織る。見計らったように丁度そのタイミングで店内にカウベルが鳴り響いた。ほら来たよ、と彼の小声と、アドニスくんの声が同時に耳に入る。羽風先輩が垣根から顔を出しアドニスくんがいるであろう方面に手を振ると、垣根の向こうから彼の困惑した声が聞こえた、気がした。

「じゃあね、またお茶でもしよう」

 アドニスくんがちょうど垣根から顔を出したところで羽風先輩が踵を返し歩き出した。途中、アドニスくんに近寄り何か耳打ちをする。アドニスくんは驚いたように羽風先輩の後ろ姿を慌てて振り返り、そして諦めたように私の方へと目線を投げた。

「……日曜日に会うと不思議な気分だな」

 彼は先ほどまで羽風先輩が座っていた席に腰を下ろす。話があってきたんだが、と困ったように眉を下げて私を見て、ふいと目を逸らした。私もなんとなくいたたまれなくなって、彼から目線をそらす。軽快なリズムが店内を揺らしているのに、ここの空気だけ、重苦しく、沈んでいるようだ。新しいお水を持ってきた店員さんは心配そうに私とアドニスくんを見ながら、メニューです、と一言言い置き足早に店の奥へと消えてしまった。

「先にご飯食べる?」
「いや、食べる気分ではない」
「洋食屋に何しに来たの」

 彼の物言いに呆れてしまってそう呟いた私に

「多分……いや、そうだな」

 アドニスくんはひとつ深呼吸をして、

「お前に会いに」

 そう、言葉を吐いた。

「朔間先輩から連絡をもらって、急いで来た」
「うん」
「まさか羽風先輩といたとは思わなかったが、その」

 ちらりとこちらを窺うように目線を投げかける。妙に熱のこもった彼の視線を直視することができなくてまた目線をそらしてしまうと、彼は机の上にのせていた私の手に自らの手をそっと重ねて、ゆっくりと持ち上げる。今まで頭を撫でられることはあったが、こんなあからさまなボディタッチは初めてで、慌てて手を引っこ抜こうとするが、抜けない。彼は両手で私の手を包むと、まるで祈るように一度目を伏せた。緊張しているのか、手から微量の震えを感じる。私が少し身を乗り出して空いている方の手で彼の頭をそっと撫でると、アドニスくんは穏やかに目を開いて、まっすぐに、力強く私を見つめた。

 一歩踏み出すのが怖いだけだ。羽風先輩の言葉が蘇る。そうか、もしかして彼は一歩踏み出そうとしているのかもしれない。撫でる手を止めて、ただただアドニスくんの言葉を待つ。アドニスくんは静かに私の名前を呼び、また瞳を閉じる。そうして決意したようにもう一度私の名前を力強く呼んで、そして

「俺と、結婚してくれないか」

 彼から飛び出した言葉に、私は思わず脱力してしまった。

「なんでUNDEADの皆さんはすっ飛ばすかなあああ」

 心の中で押しとどめるはずの言葉が自然と口から零れる。アドニスくんは私のその言葉を聞いて少し動揺しながら、羽風先輩にも求婚されたのか?と早口で言葉をまくしたてる。私は大きく首を振りながら、されてない!断じてされてない!と声を上げた。私の猛烈な反論にアドニスくんは安心したのかほっと胸をなでおろし、表情を和らげながら、そうか、と一言呟く。

「本来なら指輪を用意するところなのだろう、すまない、まだ、こういうことには慣れてなくて……その、迷惑だっただろうか」
「迷惑とか、そうじゃないけど、その」
「お前が何を言いたいのか解っている、付き合うから始めるのが筋なのだろう、でも、お前を繋ぎとめるのは一番これがいいと」
「「朔間先輩が」」

 彼の言葉に乗せるように私が言葉を吐くと、アドニスくんは笑って、お見通しだな、といった。私もそんな彼の表情につられるように笑い、わかるよ、何年の付き合いだと思ってるの、と肩をすくめる。包まれた大きな手から、彼の穏やかで優しい体温が伝わって来る。彼は一歩踏み出してくれたのだ。私も勇気を持たないと。

「アドニスくん……その、幸せに、して、くれますか?」

 がらじゃないほど、声が震えてしまった。たどたどしく言葉をなぞる私に彼は嬉しそうに微笑みながら力強く頷いた。

「ああ、任せておけ」

 日曜日の特等席は、まるで祝福するようなさんざめく陽光に照らされていた。アドニスくんの陽だまりのような笑顔と、暖かな手のぬくもりを感じながら、私も彼と同じように一度、力強く頷いて、彼の目をまっすぐ見つめた。

「不束者ですが、どうぞ、よろしくお願い致します」

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