けたたましく響く携帯の着信音に目を向ければ、ディスプレイに浮かぶ珍しい人物の名前。大神晃牙と表示された文字を指でなぞると、メッセージアプリに着信した端的な文章が画面に並ぶ。
『用事がある。軽音部室にこい』
相も変わらず乱暴な物言いで。私は一つため息を吐いて携帯を閉じ、それをそのままポケットの中へ。制作途中だった新しいライブの仕様書をバインダーに挟むと、それを小脇に私は教室を飛び出した。軽音部の部室へはここからそう遠くない。数分もしないうちに見慣れた軽音部のドアが見え、少し乱れた髪を手櫛で戻しながら、私は幾度かノックする。晃牙くんいますか。私が発したとほぼ同タイミングで乱暴に目の前のドアは開かれた。ぬっと顔を出した晃牙くんは私を見て、少し困ったように顔を歪ませながら、よお、と一言。
「何の用でしょうか」
「いいから入れよ」
有無を言わさず彼は私を軽音部へと誘う。軽音部室にはいつも楽しそうにはしゃいでいる葵兄弟の姿はなく、軽音部の主の棺桶の中も空っぽだ。今日は一人なの?と私が問うと彼は黙ってソファーを顎でしゃくった。顎の先を目線で追うと、なるほど、どうやら主はソファーの上でお休みらしい。朔間先輩は本を開きながらうとりうとりと船を漕いでいた。
「俺様は今から出かけなきゃいけねえ」
夢の中へと誘われている朔間先輩を眺めていると、晃牙くんがおもむろに喋り出す。私は声に導かれるように目線を晃牙くんへと戻すと、彼は琥珀色の瞳を揺らしながら、
「だから、お前はここで留守番してろ」
と、口にした。
「そんなことで呼び出したの?プロデュースじゃなくて?」
「そんなこととはなんだよ、俺様の命の次に大切な楽器があるんだぞここには」
「施錠すればいいじゃない」
「吸血鬼ヤローが寝てんだろ」
「……きみはプロデューサーを便利屋と勘違いしてない?」
「テメエこそ勘違いすんじゃねえぞ、これはアイドルとプロデューサーじゃねえ、ダチとして頼んでるんだ」
晃牙くんの発した言葉に思わず目を瞬かせてしまった。犬しか友達がいないと嘯く彼が、孤高の狼だと自称するそんな彼が、私のことを、友達だと。友達、だと!思わず緩んでしまう表情に、彼はふふん、と鼻を鳴らして
「お前にしか頼めないんだ、いいだろ?」
と私の肩に手を置く。先ほどまで胸中に蠢いていた呆れの感情は何処へやら。私は頷くと、任せなさい!と力強く胸を大きく叩いていた。晃牙くんはそんな私を一瞬呆れるように見つめ、まあいい、と一言言い置くと
「頼むぞ」
と逃げるように軽音部の入口へと駆け出した。
晃牙くんのいなくなった軽音部は、驚くほどに静寂に満ち溢れていた。聞こえるのは時計の音と、規則正しい寝息だけ。春に近づいてきているといっても、まだこの季節は肌寒い。私は自分の上着を脱いですっかり寝入っている先輩の膝元にそれをかけると、先輩が読んでいたであろう本に目を落とした。流暢な筆記体で書かれた表題はどうにも解読はできそうにないが、皮表紙の装丁から見て、高い本であることは間違い無いだろう。洋書かな?似合いそう。なにせ留学までしていたお方なのだから、きっと英語なんて母国語のようにスラスラ読めるのだろう。
無防備にも寝顔を晒す彼の横顔を見ながら、晃牙くんは私の気持ちを知っているんだよなあ、とぼんやり考える。そう、この居眠り先輩に、私は恋をしている。多分もう一ヶ月もそばにいられないけど、一年間ずっと彼を、密かに追い続けていた。でも、想いを伝えようとは不思議と思わなかった。私なんてそもそも相手にもされないだろうし。
彼の長い睫毛が呼吸に合わせて上下する。緩くカーブを描く髪の毛も、小さな身体の揺らぎを追うようにのんびりと宙を泳ぐ。ふと湧き上がった悪戯心に押され、指先で彼の髪を突くと、朔間先輩はほんの小さく声を上げた。彼にしてはきっと寝息だったはずなのに、間近で発せられた言葉に私は肝を冷やして彼から飛び退いた。後ろめたいことはやめよう。私はこのまま、平行線上で彼を見送ることに決めたのだ。ありふれた先輩と後輩として。この学園のなかの縁だけで満足することに決めたのだから。
私は彼から離れて晃牙くんの楽器が置いてある一角へと近付く。散乱している雑誌はロックからアイドル雑誌までさまざまだ。足元に落ちてあった雑誌を一つ持ち上げると、丁寧に付箋が貼ってある。何気なくそれを開くと、なるほど、この前のインタビュー記事か。いくつかの文章にマーキングと、小さなコメントが書き込まれている。晃牙くんの文字だったり、少し崩れた文字はアドニスくんのだろうか。なかなか勉強熱心だと、私はぱたりと雑誌を閉じた。
ふと、先輩の方をふり返る。先輩は本格的に眠りについたようで、こくこくと動いていた頭はピタリととまり微動だにしない。
「先輩」
私は不意に彼を呼ぶ。彼は答えない。
「先輩、朔間先輩」
寝ているから当たり前なんだけど、返事などない。静寂に包まれたこの空間に私の言葉だけが寂しく響く。どうせ聞いてないなら。春風が揺らす窓の音を聞きながら、視界に先輩を捉える。
「……零さん、好きです」
きっと少女漫画なら狸寝入りしていた先輩が起き抜け、聞いておったぞ、なんて笑うのだろうが、そう現実は上手くいかない。すぴすぴと聞こえる規則正しい寝息を聞きながら私は肩をすくめ、予行練習予行練習、と呪文のように繰り返した。まあ、練習といっても伝える予定なんてないんだけどね。私は踵を返して散乱した雑誌を一冊一冊拾い上げてまとめる。晃牙くんには黙っていよう、きっと笑われちゃうから。
晃牙くんが帰ってきたのは私が雑誌をまとめ上げて、それでも潰しきれない時間を持て余していた頃だった。晃牙くんは椅子に座ってぼうっと窓の外を眺めている私を見るや否や、わりいわりい、と一本ジュースを手渡してきた。そして先輩の方を見て、驚いたように目を瞬かせて、もしかしてずっと寝てたのかよ、と言葉を口にする。
「そうだよ?ずーっと、よく寝るよねえ」
「……ったく、なにがしたいんだか」
「しーらない、私はもう帰るからね」
椅子から飛び起きて大きく背伸びをすると、凝り固まっていた骨がぱきりぱきりと鳴き声を上げる。晃牙くんは、わりいな助かった、とだけ言い、ちらり先輩の方を見て、あのよ、と言葉を一度切る。
「いや、なんでもねえ、ありがとな」
「変な晃牙くん、いいよ、別に、友達だし?」
悪戯に笑う私に向かって彼も不敵に笑みを浮かべ、ああそうだな、と片手を上げた。私もそんな彼に片手で手を振り、軽音部のドアを開けた。廊下から吹き抜ける風はまだ少し冷たい。ぶるりと一度身を震わせて先ほどの朔間先輩の寝顔を思い出して、頬を緩める。きっとあんな至近距離で彼をみるなんてもうないことだろう。それに伝える予定のなかったことまで、ちゃっかりと伝えちゃったし。まあ、伝わってはいないけれども。きっとこれでいいのだ。私は、きっとそう、これでいいのだ。
***
転校生が去った部室には不機嫌に顔を歪める晃牙が一人。そして
「おいテメエ、いつまで狸寝入りを続けるつもりだよ」
「……なんじゃわんこ、ご機嫌ななめじゃのう」
彼女が回収を忘れたブレザーを撫でながら、大きく欠伸を漏らす朔間零が、一人。
「なんじゃ、じゃねえよ!あいつ呼び出して二人っきりにさせろっつうから俺様がお膳立てしてやったのに!」
「わんこは優しい子じゃのう、まさか本当に呼び出すとは」
くつくつ笑う零の姿を見て、晃牙は苛立たしげに舌を大きく打ち鳴らす。こうなったのもそもそも曲の練習をしていた晃牙に、零が突然、嬢ちゃんに会いたい、と言葉を発したからだ。晃牙は演奏していた手を止めて、もうすぐ卒業してしまう先輩の、寂しそうに揺れる紅の瞳を見た。そして今彼が恋しがっている相手も、抱いている想いを伝えぬままこの先輩を見送ろうとしている事を晃牙は知っていた。だからこそ、彼らがどうにかできるようにと舞台を組んだのだ。しかし、呼びつけた彼女に何か話をするでもなくひたすら狸寝入りをしてたのだというから、腹立たしくて仕方ない。これは舌打ちの一つや二つ、許される範疇だろう。
「マジで何がしたかったんだよ」
「わんこ」
「なんだよ」
「我輩に一度、好きだ、と言ってくれんか」
無邪気に浮かべる先輩の笑顔に、晃牙の肌は一気に粟立つ。顔を引きつらせながら、はあ?と精一杯の拒否の言葉を吐くと、彼はひどく楽しそうに笑い、予行練習じゃよ、と嘯いた。
「それなりの思いにはちゃんとお返ししないといけないからのう」
表情を見れなかったのが悔やまれる、と呟いた零の言葉に、晃牙は二度目のはあ?を放つ。が、どうやら合点がいったのか、みるみる強張る晃牙の表情と、まさかお前、というよもや先輩に対して使うことのない言葉を耳にして、零は口角を上げて、どうかな、と笑った。
「こ、このスケコマシ野郎が!!」
「我輩薫くんではないんじゃが……安心せい、わんこの”ダチ”を手荒に扱おうとは思ってはおらんよ、まあ、今はわんこの”ダチ”じゃけど?じきに?」
「ああ?!それ以上言ってみろテメエのそのヘラヘラした顔に一発お見舞いしてやっからよお!」
「おおこわいこわい」
晃牙の怒号が軽音部を揺らす。彼女の凜とした可愛らしい告白を頭の中でリフレインしながら、言葉の響きとは口にする相手で変わるものだな、なんてのんきに零はそんなことを考える。
零さん、好きです。
可憐に空気を震わしたその言葉は、また聴ける日が来るのだろうか。まあ聞けなくともこちらから言えばいいだけの話。軽音部に並々と響き渡る晃牙の遠吠えを聞きながら、零はそう思い、密かに笑った。