月曜日。13時。垣根の影でかくれる二人用のテーブル席、G卓。会社の近くにできた小さな洋食屋さんの店員さんは私の顔を見るなりにこりと笑顔を浮かべてその席へと案内する。月曜日のこの時間帯は私はこの洋食屋さんのG卓でご飯を食べるのがほぼ常となってしまっていた。そして、
「アドニスくんは、今日も肉なの」
「そうだ」
なぜだか高校の同級生である彼もまた、私と同じように月曜日G卓の住人なのである。
運命と銘打つにはあまりにもありふれすぎた私と彼との再会は、ほんの数ヵ月前に遡る。確かその日は天気が良かったことも相まって洋食屋の店内は混雑を極めていた。なんとかいつもの時間に滑り込めた私は、店員さんの計らいであけてくれていたいつもの特等席へと座り、メニューを眺めていた。お水を持ってきてくれた店員さんと目が合い、今日は混んでますね?なんて笑かけると、店員さんも眉を下げながら、今日はいつもよりもにぎやかです、と笑い返してくれた。そうして注文が決まり、店員さんにお願いした丁度その辺りで、店内に軽快なカウベルが響く。メニューを走り書きした店員さんは私に一礼するとそのまま早足で垣根の向こうへと消えていく。一人になってしまった私はコップを傾け氷の音を楽しみながら、ぼんやりとメニューを目で追う。
「生憎店内は満席でして」
知っている声はどうにも耳が拾ってしまうらしい。雑然とした音の中でも店員さんの困惑した声はしかりと私の耳に届いていた。一歩遅かったら私があの立場だったんだろうな。姿の見えないお客さんの姿を思い浮かべながら水を煽る。少し暑くなってきたこの季節、冷たい水は嬉しく感じる。
「……そうか」
?その声は、騒々しい店内を縫うように、わたしの耳へと明瞭に届いた。懐かしい、少しぶっきらぼうな声。水を飲む手を止め、私は少しだけ椅子から身を乗り出した。まさかね。少しの期待を胸に垣根越しに入り口を窺うと、そこには店員さんと、高身長の男性が立っていた。私の思い浮かべた懐かしい友人は確かに高身長だったけど、正直これだけ離れていたらよくわからない。それに帽子も目深までかぶっているので顔もよく見えない。しかし、帽子の奥できらりとひかるメガネを見つけて、落胆してしまった。あの友人は目は悪くなかったはずだ、悪いどころか、獣並みに良かったはず。
どうにも私の予想していた人物とは違うようだ。なあんだ、と嘆息交じりに座り直そうと大きく背筋を伸ばした瞬間、どうやら声の主はそんな私をめざとく見つけたようで、まるで確認するようにゆっくりと私の名前を呼ぶ。
「アドニスくん……?」
思わずまた身を乗り出して彼の名前をなぞる。どうやら届いたらしく、彼は脇目も振らず私の元へ歩み寄ってきた。正面まで来て、彼は歩みを止めてじいと私を見つめる。卒業してから何年たったのだろうか。眼鏡の奥の彼の瞳が、驚いたように何度も瞬く。私の瞳も同じように、何度も瞬きを繰り返す。やっぱりアドニスくんだったのか。慌てて追ってきた店員さんがこちらを窺うような目線を投げ掛けるので、私は思わず彼を指差し、知り合いです、と一言。彼も黙って頷き、そしてごく当たり前のように空いている私の前の椅子へと腰掛けた。アドニスくんがメガネを外し、レンズ越しではなく、紫紺の瞳を揺らしながらじいと私にピントを合わす。強い目線を感じながら、そういえばガーデンテラスでこうやってよくご飯を食べたっけ、なんてことを思い出した。少しだけ幼い、制服姿の彼が見えた。が、瞬きをした瞬間その幻影は掻き消えてしまう。
「久しぶりだな」
「そうだね、何年ぶりだろう」
「よく来るのか?」
「毎週月曜日は、お昼ここでたべてる」
「そうか」
彼はそう言うと私の目の前にあるメニューをめくる。大振りの肉料理の名前を彼が口にすると、店員さんは慌ててそれを書き留める。そして、すぐに水をお持ちします、と逃げるようにその場から立ち去り、私とアドニスくん、二人だけが取り残されてしまった。少しだけこそばゆい気持ちと、懐かしい気持ち、会えて嬉しい気持ち。そして、昔感じていた淡い恋心を思い出しながらアドニスくんへと目線を投げると、彼もこちらを見ていたようで、しっかりと視線が絡まり合う。
「なんか変な感じね」
「そうだな」
二人で漂う空気に笑い、ぽつりぽつりと思い出話に花を咲かせた。学校のこと、ユニットのこと、部活のこと。湯水のように溢れ出る話題にご飯を食べるのも忘れ、少し長めの昼休みをとってしまったのは記憶に新しい。だってあれは一期一会の出来事だと思ったのだ。きっと別れたらもう会うこともないのだろうと、思っていたのだ。
しかしながら私の予想に反し、再会したあの日から彼も毎週月曜日にここへと現れるようになった。私が早い日もあれば、彼のほうが早い日もある。どちらにしても、大抵20分も過ぎれば二人この席に集まってご飯をつついている気がする。なんでくるようになったの?なんて聞ける勇気なんてない。あの頃学生の私なら聞けたのだろうか。随分とお箸の扱いが上手くなった彼の姿を見ながらそんなことを夢想する。確証のないことを聞ける勇気なんて、私はとうの昔に手放してしまったから。
パスタランチを始めたんです、店員さんがえくぼを浮かべてそう言うものだから、私は彼が食べていたハンバーグステーキを指していた指を滑らせて、新しく追加されたパスタランチに指先をあわす。店員さんは嬉しそうに頷いて、すぐにお持ちします、と一礼してその場を立ち去る。仄かに聞こえるジャズの音楽と、心地よい喧騒が店内を揺らす。パスタランチ、の文字を見ていたアドニスくんは
「そういえばお前は少食だったな」
と笑い、ナイフとフォークでハンバーグに切れ目を入れる。
「アドニスくんがよく食べるだけでしょ、昔もよく食べ物くれたよね」
「ああ、そうだったな。お前は見るからにひ弱だったからな」
「か弱いって言ってくれる?」
そしてちらりと彼の、まるで昔話に出てくるくらいに盛られたご飯を見て、苦笑を浮かべた。彼は私の視線に気づいたようで、最近は言わなくてもこうだ、と彼も笑みを零す。サインのお礼じゃない?と私は口にしながらちょうど私たちの頭上に飾られてある色紙を見上げた。アドニスくんも気恥ずかしそうにはにかみながら、同じように色紙に目線を向けた。
学生の頃の拙いカタカナではない、力強く書かれたサインは今の彼の体を表しているようで、ほんの少し距離を感じる。大人になったアドニスくんは、学生の頃も十分に逞しかったのだが、いろいろな知識を吸い込み学び、洗練された大人のアイドルへと変貌していた。例えば気の配り方だったりとかーーほぼ同時に店内へ着いたことがあって、当たり前のように彼はドアを開け、先導し、椅子を引いて私を座らせてくれたーー食べるときのお箸の使い方だったりとか、突飛な発言が少なくなったりだとか、あの頃の学生の幼いアドニスくんは、もう彼の中にはいなかった。でもそれはきっと私にも言えることで、あの頃のキラキラした瞳とか、なんでも精一杯頑張ろうとか、きっと見て取れないんだろうなあと思うと少し寂しくなる。枯れてしまった女が一人、かしらね。
アドニスくんが不意に私の名前を呼ぶ。我に返って彼の方を向くと、丁度店員さんが私の真横にたっていて、パスタとサラダをテーブルに並べる。ごゆっくりどうぞ、と彼女は一言言い置いて、颯爽とその場から去った。アドニスくんはじいと私の皿を見て、自分の皿を見て、足りるのか?と一言。当たり前でしょ、と私は口にして、両手を合わせる。いただきます、と呟くと彼は柔和に表情を崩して、たくさん食べろ、と口にした。
最初こそ昔話に花を咲かせたのだが、こうして会合が続くと、昔の話も尽きてしまう。黙々とご飯を食べる私たちの間に、BGMだけが通りすぎていく。たまに顔を上げて、目線を絡ませ、顔を綻ばせてまたご飯を口にする。おいしいね、おいしいな。端的に流れる、ありふれた単語なのに、その一音一音がなぜか無性に心に響く。フォークの下にスプーンを添えながらくるくるとパスタを巻きつけていると、アドニスくんは不思議そうにそれを眺めて、姉もそんな食べ方をする、と一言呟く。
「大神や俺はフォークだけで食べるんだが、女性は不思議だな、スプーンがないとたべれないのか」
「羽風先輩とかしない?こういうの」
「羽風先輩たちとは食べたことがない」
「晃牙とはあるのに?」
私が笑うとアドニスくんはムッと顔を曇らせて、お前は、と言葉を切る。言おうか言わまいか迷っているのか、少し目線を宙に投げて、唇をきゅっと真一文字に結んだ。
「なに、なんなの」
せっつく私の顔を見て、そして顔を伏せハンバーグを一切れ口に放り込んだ。あ、だんまりを決め込もうとしている。ご飯をかきこむアドニスくんの顔を睨んで、気になるんですけど、と一言。アドニスくんはご飯を咀嚼しながら、パスタを指差して、首を横に振る。そして口の中のものを飲み込むと
「冷めるぞ」
とまたハンバーグを切り、ご飯を口に頬張った。そんな態度に私は肩をすくめて、巻き付いたパスタを口の中へと運び入れる。ほんのり甘いバターの香りと、ほうれん草の優しい味が口の中でとろけほどける。口の中でパスタを転がしながら、フォークで新しいパスタを引っ掛けてスプーンの上でくるくると回す。踊るように吸い付くパスタはみるみるうちに肥大して、小さな玉となり、スプーンに収まる。
アドニスくんはじいとそんな私の所作を見つめて、器用だな、と呟く。スプーンの上のパスタ玉を見て、アドニスくんを見て、ゆっくりと首をひねる。
「そんな複雑なことやってないけど、アドニスくんもできるよ?多分晃牙にだってできると思うけど」
私がそう口にすると、彼はまた苦々しそうに顔をしかめて、私から視線をそらす。その態度が癪に触って、少し口調を強めて、だからなんなの、と言うと、彼は困ったように眉を寄せながら、重々しく口を開いた。
「大神は、晃牙なんだな」
「前からじゃない?」
「俺のことは、アドニスくん、なのに」
かれがあまりに口惜しそうに呟くから、一瞬甘い錯覚を覚えてしまう。アドニスくんもしかして、そんな喉まで出た言葉をかき消すように彼は突然立ち上がり、机の上に出していた携帯をポケットへとしまい込む。
「もう出る時間だ」
「ちょ、ちょっとまって今の」
「すまない、遅れると大神がうるさいんだ、金は置いておく」
アドニスくんは上着を羽織りながら、ポケットから二枚ほどお札を置く。アドニスくんが食べた料理は千円もしないとわかっていながら、だ。少し声を荒らげながら、だからいつも多いんだって、と彼に一枚お金を突き返すと彼は
「そうか?なら次はお前が多く払えばいい」
とあっけらかんと言ってのけた。いつも彼は去り際に多めにお金を残して、おきまりのようにこのセリフを吐く。次は、というがいつも何かと理由をつけて私の分まで払おうとするからタチが悪い。今日こそは突き返してやる、と彼のポケットめがけて手を伸ばすが、アドニスくんはそんな私をさらりと受け流して
「すまない、また、来週」
とくしゃりと私の頭を撫でた。
「来週また、この時間に」
駆け抜ける彼の後ろ姿を見つめていると、丁度お皿を下げに来た店員さんと目があった。アイドルって忙しいんですね、と言葉をこぼして、アイドルの彼女も大変ですね、と彼女は屈託のない笑みを浮かべた。その一言にへえ?なんて間抜けな声を出すと、彼女は、ふふふ、とえくぼを頬に浮かべた。
来週またこの時間に。そんな言葉に踊らされるほど私はあさはかではないし、若くはないつもりだ。でも
「来週もまたこのテーブル、開けておきますね」
瞼を閉じればまだ浮かぶ、彼の大人びた笑顔を見つめながら、私は店員さんの言葉に力なく頷いた。
月曜日、13時、G卓のランチはきっと、どちらかが一歩踏み出すまで、ずっと続くのだろうか。続いて欲しい気持ちと、そうでない気持ち、複雑に絡み合う思考を乱暴にスプーンに巻きつけながら、私はパスタを口の中へと放り込んだ。
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