海のさざめきが聞こえる。陽光を受け止めて波が表面を輝かせる。穏やかな潮風に伸びた襟足を遊ばせながら、羽風薫は海沿いを歩く。遠くの方からカモメの声、近くから波の音。深度を帯びた海のメロディーに耳をそばだたせて、ひとつ、ため息。何か嫌なことがあったわけではない。しかし、なんとなく憂鬱な気分になったり、気が向かない気分のときは海沿いを歩くのが好きだ。時折大きく声を上げながら寄せて返る波。丁度海水がかからないギリギリのラインを見極めて薫はローファーを砂に滑らす。
波打ち際は、いろいろなものが打ち上げられる。例えば海藻、例えばごみ。さまざまな漂流物の中から薫は丸い、平べったい石を見つけて拾い上げた。心の中でぼんやりと、厳格な父の姿を思い浮かべ、そしておもむろに腕を振り上げて海の表面めがけて投げる。いち、にい、さん。4回ほど跳ね上がった石はぼちゃんと音を立てて海に沈んでいく。薫はまた平べったい石を探し拾い上げる。そして今度は今朝方説教を垂れ流した教師の姿を思い浮かべて、投げる。いち、に、さん、よん。思いを乗せた石は水面を滑り飛び跳ねて、沈む。この鬱蒼した気持ちも沈んでしまえ。
三つ目の石を拾い上げた瞬間に、背後から、羽風先輩?と、聞きなれた声が聞こえた。薫が振り返ると、そこには潮風に遊ばれる髪を抑えた転校生が立っていて、不思議そうに薫の方へと視線を投げている。先輩、なにしてるんですか。逆風にも負けない彼女の力強い声が届く。なんとなく自分の手遊びが恥ずかしくなって、薫は肩を竦めた。そうして彼女に聞こえるように少し声量を強めながら、教えてあげるからこっちおいで、と彼女を誘う。彼女はその言葉に少々困ったように目線を彷徨わせながら、しかし腹を括ったのか堤防から砂浜へと飛び降りた。そして非常に歩き辛そうに砂浜を踏みしめながら薫の元へと歩み寄る。
「ローファーに、砂が」
「ははは、慣れてないとそうなるよね」
「先輩は慣れてそうですけど……何してたんですか?」
「水切り」
水切り?と彼女は首を傾げる。薫はちょうど手元に持っていた石を彼女に見せて、
「これをね、こう」
とサイドスローで海へと投げ込む。まるで生きているように水面を跳ねる石を見て、彼女は目を輝かせながら、すごい!と嘆息した。
「水切りって言うんですね、うわあ、私出来た試しないんですよね!」
「やってみたら?ほら、ここにはたくさん石があるし」
薫の提案に彼女は顔を綻ばせながら、ならお言葉に甘えて、と興奮を隠しきれない声を出しその場に座り込むと眼下の漂流物を物色し始めた。
「平べったい石がいいよ」
「そうなんですね!わかりました!」
いつも大人びて見える彼女だが、こうしてみると年相応の少女に見える。といっても一つしか変わらないのだけど、普段の彼女からは想像できないはしゃぎっぷりに、薫は笑みをこぼす。俺はこっちのほうが好きだなあ。彼女に倣って薫もしゃがみこみ、石を物色する。
「先輩こんなのでどうですか?」
おもむろに彼女が振り返り石を差し出す。薫が、いいんじゃない?と微笑むと彼女は顔いっぱいに笑顔を浮かべて、じゃあ投げてみます、と声を弾ませた。潮風になびく風が、彼女の前髪を揺らす。風、強いですね。彼女が言う。嫌いじゃないよ。薫が答える。潮風に包まれながら薫は立ち上がり彼女に手を差し伸べた。彼女はおずおずと手を薫と重ねて、立ち上がる。
「投げる時はね、嫌な気持ちを乗せて投げるんだ」
薫の言葉に彼女は目を瞬かせ、嫌なこと?と首を傾げる。薫は彼女から海へと目線を写して、嫌なこと、と自分の言葉をなぞる。自分で発言したくせにあまりのその言葉が切なく響いて、心が小さく軋みを上げる。なんだか寂しいやつみたいだよね、と取り繕うように笑顔を浮かべて彼女をみると、彼女はそんな薫の笑顔を苦々しく見つめて、おもむろに石を海に投げ込んだ。
「く、椚先生の馬鹿野郎!!!!」
突然の咆哮。彼女が力任せに投げた石は大きく放物線を描いて海へと落ちる。まさか声に出すとは思わなくて、薫がぱちくりと目を瞬かせていると
「いや、羽風先輩寂しそうでしたから、ちょっと声出したほうが元気でるかなって」
と照れたように笑みを浮かべた。そして大きく伸びをすると、大声出すって気持ちいいですね、と一言。彼女の清々しい横顔に薫も笑みをこぼして、普段よりも可愛らしい後輩の頭を一撫でした。彼女は驚いたように薫を見て、恥ずかしいです、と頭振る。薫はごめんごめん、と笑みを浮かべながら彼女の頭から手を離した。
「なんか、君もちゃんと学生なんだなって」
「当たり前じゃないですか」
頬を膨らませる彼女を横目に薫も足元にある石を拾い上げる。白く輝くその石は、太陽に照らされてきらりと光る。原石、なんて言葉が彼の頭によぎる。例えば俺たちはそう、アイドルの原石として、宝石になろうと切磋琢磨している。そして彼女も。
例えば今自分が、彼女に感じている思いを伝えたらどうなるだろうか。いつもは冗談に響かせている気持ちが本当だと伝えたらどうなるだろうか。彼女は困るだろうか、喜ぶだろうか。どちらにしても一人のアイドルの卵に想われるのは、足かせにならないだろうか。
石を右手に握りしめて、薫は軽く腕を引く。先輩。腕をあげる前に彼女が薫を呼び止めた。
「大切な気持ちまで、投げちゃだめですよ」
薫の動きがぴたりと止まる。先ほどまで幼い笑顔を浮かべていた彼女がじいとこちらを見つめて、口を開く。
「ちゃんと、伝えないと」
海の果てから吹き抜ける風が海面を滑り二人の間を吹き抜けた。彼女はスカートを、薫は襟足を抑えながら、風の生まれた方へと目をやる。海が怒ったんですかね、彼女がぼそりと呟く。私たちが乱暴に投げ込むから。目を細めて彼女は波間へと視線を投げる。乱暴に投げ込んだのは君だけだけどね、と薫が口にすると、彼女はぶうと頬を膨らまし、あれは力を見誤っただけです、と言葉を吐いた。
掌を開いて投げそびれてしまった石を薫が見つめると、彼女も薫の手中のそれを覗き込む。綺麗な石ですね、と言葉を零す彼女に、そうだね、と薫は呟く。
「今、君が好きって思いながら投げようとしたんだけど」
「てことはその気持ち、海に沈めようとしましたね?」
彼女の指摘に薫はへらりと笑みを零して石を握りしめた。そしておもむろに海へ投げ込むと石は数回、弾けるように飛び跳ねて、波間へと姿を消した。
「あ、投げた」
「違う違う、それはあれ、ちがうの」
「どれですか、うっわー傷つくなあ、私への恋心を捨てるなんて」
「なに、いつもちゃんと伝えてるでしょ?好きだよって」
「あーそうですね、わー愛されちゃって困りますう」
辟易したように彼女は言葉を吐く。あ、本気にしてもらえてない、と薫は肩をすくめた。まあ、本気にされても困るけど。まだ真正面から受け止めてもらえる勇気は持ち合わせていない。今はまだ、軽口としてのそれくらいが、丁度いい。
そして彼女は、あ、と小さく声を上げた。どうしたの?と薫が尋ねると、彼女は薫を見上げながらそういえば、と口火を切る。
「私羽風先輩を迎えに来たんですよ、今日はUNDEADのレッスン日です」
「げ、忘れてた」
「私朔間先輩からのお使いできたんですよね、ほら、帰りますよ」
「はーい」
薫は一度、想いを投げ入れた海を見つめ、そして不確かな足取りで砂浜を闊歩する彼女のを見つめる。この想いはいつか、石ころではなくちゃんとした宝石とともに伝えるから。だからまだ、届かなくていい。冗談染みたありふれた響きでいい。
潮風が髪を揺らす。彼女の背中を追いながら吸い込んだ空気は、ほんのりと、塩の味がした。