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冬の日、きみの隣。

 それは世界が凍るんじゃないかと思うほど寒い朝で、薄く伸びた氷をぱきりぱきりと割り歩きながら私は登校していた。どれだけ分厚いコートを着ても、どれだけ暖かなマフラーを巻いていても、冷気は隙間から入ってくるらしく、吹きすさぶ風に乗って寒さは私の体を襲う。その度に身を震わせてはせっせと歩き、せっせと歩いては風の襲撃に耐え続ける。
 一際大きな風が私めがけて突っ込んできた。風はマフラーを、コートを、スカートを大きく攫って街の奥へと消えていく。爆弾のような冷気に身を縮めながら、ぼんやりと自室のベッドを思い出した。暖かな空気の中で佇んでいるそれはさながら今の私にとっての天国。じるりと音を立てながら鼻をすすり、溜息をひとつ吐いた。それは白く濁り身を大きく伸ばしながら空へと舞い踊る。ベッドが天国なら、ここは地獄か。近くにあった薄い氷を軽くふんずけながら、私はせっせと学校を目指す。

 鼻で息を吸うと、ぐずり、とまた鼻が鳴き声を上げた。風邪気味なのかな。顔を強張らせながら下唇を噛む。幸い、今日は登校時間が誰とも被っていないようで、見知らぬ人はちょこちょこいても、見知った姿は誰一人見当たらなかった。こんな情けない姿みんなに見せられないからなあ、そんなことをぽつりと独り言ちる。今日は寒いからきっとみんないつもよりもゆっくりなのだろう。私もゆっくり出てこればよかったなあ。そんなことを考えながら十字路を通り過ぎると、左手方向によく知ったシルエットが視線の端に映り込んだ。踵を返して十字路へ戻ると、彼も気がついたらしい。私が片手を挙げると、彼は肩にかけた鞄を持ち直して、小走りでやってきてくれた。

「アドニスくん、おはよう」
「おはよう」

 今日も寒いね、と私が笑うと、アドニスくんは神妙な顔をして、寒そうだな、と口にした。そして、何を思ったのか彼はおもむろに自分の巻いていたマフラーを外し、私の首に巻きつけはじめた。驚いて動けない私にアドニスくんは、これで少しはマシになるはずだ、と表情を和らげる。自分のとアドニスくんの、二つのマフラーは確かに暖かかったけど、少し首元が動かしづらい。それに。彼のさらけ出された首を見て、寒そうだよ、と口にすると、アドニスくんは、俺は平気だ、とそう言って歩き出した。私も追いかけるように彼の後に小走りで続く。

「私も気持ちだけで十分だよ、その、自分のもあるし」
「それだけでは寒いだろう?」
「でもアドニスくん、見てるだけで寒そうだし、返す!」
「気にしないでくれ」

 俺は大丈夫だ、の一点張りでアドニスくんはどうにも受け取ってくれない。首元にまかれたもこもこに顎を埋めて、ならお借りします、と私は折れた。いつも、いつもそうだ。例えば昼食時に自分の持っているパンを分けてくれたりーーもちろん私は自分の弁当は持っているーーとても、気を使ってくれている。本来なら私がアイドルである彼に気を使わなければならないのに。アドニスくんは私の気持ちを知ってか知らずか、半歩遅れて追いかける姿を見て、歩調を合わせてくれた。あ、また気を使われてしまった。頬を膨らませて下唇を噛むと、アドニスくんは私の顔を覗き込んで、暑かったか?と心配そうに尋ねた。なんとなくその視線が直視できなくて、ふいと視線を外すと、左手が軽く引っ張られた。見ると、アドニスくんが困惑の表情を浮かべて、私の左袖を引っ張っている。

「迷惑だったか……?」

 彼の悲痛な表情を見て、私は咄嗟に笑顔を作った。迷惑なんてそんなことないよ!そう言って、アドニスくんのマフラーを少しだけ持ち上げて、暖かくて本当に嬉しい、と言葉を添えて。アドニスくんは私の言葉を聞いて安堵の笑みを浮かべた。それならよかった。そう言葉とともに白い吐息が冬の空気に燻る。彼の言う通りアドニスくんは寒い素振りはしていないが、こんなに寒いんだもの、マフラーなしじゃ辛いに決まっている。私はマフラーを慌てて外して、眉を潜めだしたアドニスくんにずいと差し出す。

「で、でもねそこまで気を使ってもらわなくてもいいというか、むしろアイドルは体が資本だし」
「大丈夫だ、俺は丈夫だから」

 アドニスくんは突き出されたマフラーを受け取り、また私の首にぐるぐると巻きだした。本当に大丈夫です!と抵抗してみるが、どうにも器用な彼は、私の防衛をかいくぐり、マフラーを巻き終えると嬉しそうに表情を緩めた。本当に気にしないでくれ。心底優しい彼の声に、私の心はちくりと痛む。小さく弱いものだとは思っていないが守らせて欲しい、そう言ってくれたのはいつだったか。いつの間には薄氷を踏んでいたみたいで、悲鳴のような音が足元から小さく響いた。

 それはわたしがたよりないから?

 本当に小さな、ささやかな独り言ちた私の一言は白い吐息となり空へと舞った。上機嫌に隣を歩くアドニスくんの姿を横目で見つめながら、彼のマフラーに顎を埋める。なんだか、情けないなあ。冷たい風がべしべしと私の肌を殴打しながら吹き抜ける。咄嗟にマフラーのなかに顔を半分埋めると、どうやらその姿を見られていたらしく、アドニスくんは柔和な表情を浮かべ私を見下ろしていた。

「暖かそうだな」
「お陰様で暖かいです」
「そうか、よかった」

 全く良くない!私の気持ちはどうやら一ミリも通じていないようで、アドニスくんはポケットに両手を入れてスタスタと歩き出した。置いて行かれないように慌てて私も追いかけて、隣を歩く。彼の紺色の通学バックが歩調に合わせてゆらゆら揺れる。堅い革靴がアスファルトを叩く音と、時折聞こえるぱちりぱちりと薄氷が弾ける音が、会話の途切れた私たちの空気を彩る。ここから学校まではまだ少し遠い。強い風が吹き抜けるたび私はアドニスくんを盗み見るが、彼はなんということもない表情を浮かべ、ただただ歩く。本当に寒くないのかな。そう思った瞬間に強い風が吹き抜けて、私は大きく身を震わせた。アドニスくんの方を見るとこちらをじいと見つめており、やっぱ寒い?と問いかけると、

「いや、お前が飛ばされてないかと思って」

 と心配そうに私を見て、良かった、とまた微笑みを浮かべた。嫌味なくこういうことを突然言ってくるから、本当に、本当にこの男は!照れ恥ずかしくてマフラーに半分顔を埋めて、私はまた、下唇を噛んだ。

 抜けるような青空と、薄くたなびく白い雲を眺めながら、今日はいい天気だなあとのんきに呟いたら、アドニスくんも同じように空を見上げて、いい天気だな、とぽつりと言葉を零した。冬の刺すような寒さは苦手だけれど、澄み切った空気は割と好きだ。大きく息を吸い込むと冷え切った空気が喉の奥まで届いて冷やす。

「ガーデンテラスでご飯食べたら気持ちいいかも」
「屋上でもいいんじゃないか?」
「確かに、屋上も気持ち良さそう」

 よくオカリナの音聞こえてくるよ。「屋上」というワードから紐付いてふと思い出した事柄を口にすると、アドニスくんは一瞬目を瞬かせ、そしてぷいと顔を背けた。小さく届いた、そうか、の一言に、もしかして触れちゃいけないことだったのかな、と一抹の不安が芽吹く。

「もしかして、言わないほうがよかった?」
「そんなことはない……ありがとう」
「ならいいんだけど、私の最近のお気に入りだから、聞こえてくると嬉しいんだよ」

 冬の澄んだ空気に乗って流れる贈りもの。アドニスくんが吹いてたことにとても驚いたけれども、よくよく考えると彼らしいといえば彼らしい。こっそりと吹いている姿を目撃したことがあるが、あの時は思わずその姿に見惚れてしまった。声をかけようか迷ったけれども、吹くのを邪魔するのが勿体なくて、草葉の影に隠れてただその音色を楽しんでいた。

「知らない曲だけど、すごく好きなの」

 私がそう言って笑うとアドニスくんも釣られるように表情を崩し、今度好きな曲を言ってくれ、と言い、練習してくる、と言葉を続けてくれた。

 風が吹いても身震いをしないほど体が温まってきた頃、ようやく眼前に校門が見えてきた。この付近に来るとちらほらとアイドル科の制服が増える。顔見知り達は私やアドニスくんの顔をみるなり冷やかしを投げかけるが、アドニスくんは冷やかしの言葉に大抵首を傾げて突飛なことを言うから、級友たちは苦笑を浮かべて足早に去っていく。そうして幾人もの人が私たちを追い抜いて、見える校門がどんどんと大きくなった頃、なんだか名残惜しいねえ、と私はぽつりと呟き、ややあって、アドニスくんもこくりと頷いた。
 今日はなにか宿題あったっけ?ぼんやりと頭の中で時間割を思い浮かべていると、アドニスくんがぽつりと、テストが、と呟く。

「あ、テスト、あった気がする……勉強してきた?」
「すっかり忘れていた……」
「そうだよね、また悪い点とったら怒られるよ……」
「俺も、姉たちになんと言われるか」

 びゅう、と突風が私たちの間を通り抜けた。あまりの風の強さにお互いに顔を見比べて、互いの間の抜けた驚嘆の顔に、吹き出し笑う。

「なんとかなるよね」
「そうだ、きっとどうにかなるだろう」
「何か賭ける?テストの点悪い方が学食のデザートをおごるとか」
「すまない、俺はあまりお金を持っていなくて」
「あ、そうだったねごめん、じゃあ宿題でも見せてもらおうかなー」

 いや。アドニスくんが歩みを止める。私が振り返って、アドニスくん?と首をかしげると、彼は穏やかに笑って、また歩き始めた。

「美味しいパフェのある店が近くにある、そこを教えよう」
「なにそれ初耳!行きたい行きたい!」
「テストの点数次第だな」
「が、頑張る!教室帰ったら復習しておかないと!」

 意気込む私にアドニスくんは微笑み、期待している、と一言。

「あ、じゃあアドニスくんが勝ったらどうしよう!なにかおごってあげようか」
「いや、それはいい。そうだな……UNDEADのプロデュースをお願いしてもいいか?」
「え?それはいいけどそれだけ?なんか私だけ煩悩に塗れてない?」
「いや、そんなことはない」

 校門から続くアイドル科の長蛇の列を眺めながら、ああ、もう登校時間が終わるのか、なんて心の中で呟いて嘆息する。アドニスくんもじいと列を見つめ最後尾の位置を確認すると、そちらへ向かって歩き出した。投げかけられる挨拶に笑って会釈を返しながら、アドニスくんと列の輪郭にそって歩く。

「先ほどの話だが」

 最後尾に到着する少し前。アドニスくんがぼそり、と言葉を漏らした。私は顔を上げて彼を見上げる。バツの悪そうに眉根を寄せながら、その、と歯切れの悪い言葉を舌の上で転がしている。

「どちらに転んでも一緒に居られるだろう」

 だから俺もそれなりに。そこまで言葉を続けるとアドニスくんは顔をしかめ、恥ずかしいな、と視線を彷徨わせながら最後尾の後ろへ並ぶ。何を言わんとするかなんとなく気がついてしまって呆然と立ち尽くす私に、彼は左腕を掴んで自らの隣へと引き寄せる。しかしなんとなく、照れ恥ずかしくて私も彼を直視できないまま、ありがと、と呟いた。アドニスくんも先ほどよりも小さな、囁くような声量で、きにするな、と言った。そして困ったように視線を彷徨わせながら口元を隠しているので、マフラー返すよ、と思わず口から言葉が飛び出した。アドニスくんは照れたように私からマフラーを巻き取り、自身の口元を隠すように大きく首に巻いた。

「いい香りがする」

 本人も言う気がなかっただろうし、私も聞くつもりもなかった言葉が、宙ぶらりんに浮かんで消えた。私たちの真ん中に鎮座している薄氷だったのであろう小さな水溜りは、真っ赤に染まってうつむく私たちの顔を、しっかりと映し出していた。