DropFrame

君に告げる


 彼女の周りはいつも良い香りに包まれている。香水の類ではないようだが、風に乗ってそれが運ばれてくると、ああ転校生か、と気がつく。咄嗟に、今渡せる食べ物はあっただろうか、と脳内でカバンの中身を思い出すが、そうこうしているうちに彼女は大抵アドニスの視界へと現れて、にこり微笑む。アドニスくんおはよう。彼女が微笑むと、どうにも、どうしていいかわからなくなって、アドニスはただそれを表情に出さずに挨拶を返す。おはよう今日もたくさん食べたか。決まって彼女は困ったように笑う。決して困らせたい訳ではないのだが、困った顔も嫌いではないと、アドニスは思う。
 今日も同じようにどこからか彼女の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。と感じた瞬間、彼女はアドニスの視界に飛び込んできて、嬉しそうに破顔しながらアドニスくん、と彼の名を呼んだ。どうした、と答えると、背中から見慣れないパッケージの菓子を取り出して、ずい、とアドニスの目の前に差し出した。

「アドニスくん、ほら、これあげるよ」
「大丈夫だ、貰わなくとも俺はすでに大きい」

 むしろお前が食べるべきだ。お前はもっと食べて大きくなれ。そうアドニスが言うと彼女は少し困った顔をして、ううん、と小さく唸る。眉間にしわを寄せて一度菓子の箱を引っ込めたかと思うと、意を決したようにもう一度彼にそれを差し出した。

「じゃあ更なる高みを目指そう、目指せ2メートル、ということでこれをあげよう」

 2メートルも大きくなりたいわけではないのだが、彼女の有無を言わさず態度にアドニスはそろそろと箱の中から小包装の菓子を引っ張り出す。透明な包装の中には色とりどり、カラフルなチョコレートが転がっており、袋に亀裂を入れると、甘い香りがあたりに広がった。一つ口に入れると、表面のチョコレートが溶け舌に広がる。どうやら中心部分にはナッツが入っているらしく、奥歯で噛むと、かり、という小気味のいい音とともに香ばしい味が舌の上で踊る。

「美味しいな」
「なんと購買部の新商品です」
「ほう」

 並んで買いました!そう胸を張る彼女に、アドニスは微笑み、よかったな、と一言こぼした。彼女はその一言を聞いてにしし、と歯を見せて笑い、まずアドニスくんにあげようと思って、と言った。いつも貰ってばかりだしお礼も兼ねて。そう言うと彼女もアドニスと同様に包装を破りチョコレートを口へと放り込む。顔を蕩けさせた彼女のその表情は、今口で転がしている菓子よりもずっと甘美で、思わずアドニスは生唾を飲み込む。しかしながら彼女はそのことに全く気がついておらず、机の上に広げられた筆記用具を指先でころころ転がしながら遊んでいる。

「アドニスくんの机はなんか、可愛いよね」
「かわいい?」
「うん、かわいい。ひよことか」

 机の上に鎮座してあるひよこを人差し指で押す。へぶうという間抜けな音を立てて凹むひよこに、彼女はからから笑いながら指を離し、もう一度押す。へぶう、へぶう。彼女がそれを押し込むたびに、間抜けなひよこは声を出して笑う。

「可愛いものは好きか?」
「好きだよ」
「そうか」

 アドニスくんはどう?彼女は手遊びをやめてひよこを今度は優しく指先で弾く。ゆらゆらと揺れるひよこと、すらりと伸びた彼女の細い指。アドニスはひよこではなく、それで遊ぶ彼女をじいと見つめる。

「俺も好きだ」
「んんん、そうだね、そうだろうね」

 どうやら視線がこちらに向いていることに気がつかなかったらしい。ばちりと目があった彼女は恥ずかしそうに顔を背けて幾度か咳払い。どうしたんだ、ときょとんとしているアドニスに対して、気にしないで、と顔の前で両手を振って、もう一度、咳払い。

「不思議だけどアドニスくんがこれ持ってるってだけで、アドニスくん自体が可愛く見えてくるね」

 話を逸らそうとしたのだろう。彼女はそう言うとアドニスの手の上にひよこを乗せて、ほらなんか可愛い、と嬉しそうに声を上げた。アドニスは自分の手の上に鎮座しているひよこと彼女を交互に見比べて、首をかしげる。

「俺が?」
「うん、きみが」
「お前も可愛いと思う」
「んん?!ん、ん、ありがと」

 幾度も咳払いをする彼女に、どうした風邪か?とアドニスは問いかける。首を横に振って、そういうわけじゃないんだけどね、と彼女は言う。そうして苦笑を一つこぼすと、なんだか照れちゃうなあ、とぽつり。

「可愛いものは好きだ」

 そう笑むアドニスに、今日最大の咳払いをした彼女は恥ずかしそうに立ち上がり、お菓子、美味しかったね!と逃げるように去って行った。残されたひよこと、小包装をお菓子を見て、いったい何が悪かったのだろう、とアドニスは思う。いつも彼女はアドニスと会話をすると逃げるように立ち去ってしまう。話しかけられている事を鑑みるに嫌われてはいないのだろうが。どうにも、心にチクリと寂しさが刺す。好意を伝えるのが間違いなのだろうか。アドニスが指でひよこを突くと、彼は変わらず、へぶう、と間抜けに声を上げた。

「アドニスくん転校生ちゃんに相手してもらえないの?カワイソー」
「これ、からかってやるな薫くん」

 放課後。落ち込んでいたアドニスに嬉しそうに駆け寄ったのは薫だった。珍しくレッスンに来てるのにどうしたの浮かない顔して。心配そうな声色だが、顔には好奇心に満ち溢れています、と言わんばかりの笑みが浮かんでいる。苦言を呈そうかと思った矢先、珍しく覚醒している零がやれやれ、と首をゆるり横に振りながら口を開いた。

 アドニスが事の経緯をかいつまんで喋るとふんふん、と二人の先輩は頷き、転校生ちゃんってガード堅いもんねえ、と薫は肩を竦め、零はそんな薫を見て何も言わず苦笑を漏らす。言わんとしていることはなんとなく伝わる、と零にアイコンタクトを送ると、零はアドニスに人差し指一つたてて、しい、と合図をした。
 どうやら薫はそれに気がついていないようで、両の手を胸の前に組んで、多分さあ、それ本気にされてないだけじゃないの?と口にする。

「そうさなぁ、嬢ちゃんも鈍感だしのう」
「俺は、どうすればいい?」

 うわ、マジなやつじゃん。アドニスの弱々しい声に薫がそう言うと、マジな話じゃぞ?と零はくつくつと笑う。そうしてしょんぼりと肩を落とすアドニスの肩を幾度か叩き、単純な話じゃ、と言葉を置いた。

「好き、で伝わらなければ、愛してると言えばいい話」
「愛?」
「あ、そこらへんのニュアンスはわかるんだ」

 顔を赤らめるアドニスに薫は驚いたように目を丸くした。薫くんは失礼な男じゃのう、と零が悪態を吐くと、悪気があるわけじゃないよ、と彼は肩を竦めた。そうして、愛かあ、とぼんやりと彼も呟いて、そのくらい言えばどんな鈍ちんでも伝わるよね、と二三度大きく頷く。

「愛とは、好きよりも特別な尊いものなのだろう、そう簡単に口に」

 ちらり、アドニスが薫を見た。きょとんと目を丸くする薫に、彼は頭振ると、また言葉を続ける。

「俺が簡単に口にしていいのか?」
「ねえアドニスくんちょっと、何で一回俺見て止まったの?」
「大丈夫じゃ、嬢ちゃんに対する思いは、それこそ、好きよりも特別な尊いもの、じゃろ?薫くんと違って」
「朔間さんまでなに?俺怒るよ?俺も愛してるとか特別だと思ってるからね?」
「朔間先輩……」
「ねえ綺麗にまとめようとしてるけど俺納得してないからね?!」

 わかってんの!?とこちらへ歩み寄る薫を難なく躱し、零はびしりと軽音部の入り口を指差した。さあアドニスくん、善は急げじゃ!そう叫ぶ零の言葉にアドニスは力強く頷く。

「わかった、伝えてくる……あと羽風先輩も、頑張れ」
「ちょっと?!去り際のなにそれ!どういう意味?!アドニスくんハウス!戻っておいで!説教するから!ハウス!アドニスくんハウス!!」
「すまない羽風先輩、俺は大神じゃない!」

 颯爽と走り出すアドニスを追いかけて薫も軽音部の入り口まで走るが、小さくなる背中に追いつけないと理解して、足を止めた。青春じゃのう、と背後から零の言葉が聞こえる。薫は忌々しそうに一つ舌打ちをして、ていうか大体アドニスくんいないと練習できなくない?!と声を荒らげた。零はぱちりと一つウィンクを薫に投げて、さて我輩は寝るかのう、と大きく伸びをしてそそくさと棺桶の中へと入っていってしまった。ああ、要するにそういうことね。眉間を押さえながら、薫は重々しい溜息を吐いて、俺も帰ろう、と呟いた。

 のち数分後、誰もいない軽音部に到着した大神の叫び声が辺り一帯に轟いたことは、いうまでもないことだろう。

 そう、丁度大神が雄叫びをあげていた頃、メモ帳を片手に廊下を歩く彼女の姿を見つけた。放課後は彼女は色々なユニットに引っ張りだこになっているとそういえば聞いたことがある。今もどこかへ向かう途中だろうか。疲れているのか、おぼつかない足取りで道を行く彼女がどうしても心配になって、声をかけるよりも先に、手が伸びていた。
 華奢な彼女の腕を引くと、思った以上に軽かった。少し引くつもりが、勢い余って彼女はアドニスの胸へをすっぽりと収まり、呆然としてアドニスを見上げる。状況が理解できたのか、みるみるうちに彼女の頬は紅葉し、あああ、アドニスくん!と大声を上げた。

「こ、こういう、ことは!彼女と!やるべき!」
「……?お前は天満によくやっているだろう?天満はお前の恋人なのか?」

 陸上部の後輩とこうしてじゃれているところをみたことがある、と思い出してアドニスは口に出す。彼女はもう!と口を尖らせて首を思い切り横に振って、そういうのじゃないけど!と強く否定の言葉を吐いた。

「とにかく、好きな人にするべき!こういうことは安売りしちゃいけない!」
「……?だから俺はお前の事が好きだと」
「あー!そうじゃなくて!伝わらないかなあ!もう!」

 そう喚きながら、彼女はアドニスを押して腕の拘束から逃れようともがく。嫌なのか、とアドニスが寂しそうにつぶやくと、彼女ははたり、と動きを止めて、いやじゃない、けど、と切れ切れに呟いた。どうやら抵抗はやめたらしく、不機嫌に頬を膨らましながら、彼女は両手を下ろした。好きとか簡単に言うな。彼女は小さく、そう呟く。アドニスは彼女を離し中腰になり目線を合わせる。なによ、と刺々しい言葉を投げる彼女に、伝えたいことがある、と一言、前置く。

「手短に、一行で、急いでるから」
「愛してる」

 どうやら効果はてきめんで、言葉を放った瞬間彼女はわああ!と声をあげて数歩後ずさった。そして顔を、それはもうトマトのように真っ赤に染め上げて、うわあうわあ!と首を横に振りながら言葉を吐く。

「だっだっだ!!誰の入れ知恵?!!」
「言葉を教えてくれたのは朔間先輩だ」
「あんの吸血鬼め……!」

 彼女の目が怒りの炎で揺れる。弾丸のように駆け出そうとする彼女の手を掴もうとしたが、するりと逃げられてしまう。駆け抜けていく背中に、どこへ行くんだ?と問いかけると、彼女は息巻きながら、海に棺桶を沈めてきます!と叫んだ。

「重いぞ!」
「持てるもん!」
「待て、俺は返事を、聞いてない」

 ぴたりと彼女が足を止める。結構離れたはずなのに、彼女の残り香が、風に乗って運ばれてきた。彼女の口が動く。声は聞こえない。しかし口の形からなんと言わんとしているか、わかってしまった。アドニスは踵を返す彼女の姿を見て、嬉しそうに微笑みをこぼした。ああよかった、ようやく伝わったのだ。

「わ、わたしも、すき、です……」