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星屑のシャンパン

 お疲れさまでした、と私が言うと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせながら、お疲れさまでした、と私の口上を真似て笑った。彼、鳴上嵐とは5年以上の付き合いとなる。高校2年生の春から始まり、卒業した後も、社会人になった今でも、たまにこうして集まっては酒を飲みかわす仲だ。嵐とこうして飲むことは例えば意中の男性と愛想を振りまきながら飲む、というよりは、女友達と集まって飲む感覚に近かった。別段気取る必要もない、遠慮もいらない、仲の良い友達。丁度いい距離感。
 そこが、その感覚が居心地のよかったはずなのに、いつから私の中で欲望が生まれてしまったのだろうか。例えば見慣れた横顔にどきりと胸が高鳴ったりだとか、たまたま触れ合った手がやけに熱を持っていたりだとか。いや、もともと。高校のころからその兆しはあったのだと思う。でもその気持ちに気づいてしまったらこの関係性が壊れてしまうから。彼が求めているのは「異性」として佇む存在ではなく、「同性」として一緒に騒げる存在だと思っているから。こんな気持ちは悟られないように、そっと、胸の奥へ。

 今日はシャンパンを買ってきちゃったわァ、と嬉しそうに嵐はそう言うと、手際よくシャンパンの栓を開けた。ぽん、と小さな破裂音とともにシャンパンの口から白い煙が燻る。熱をもっていないのに不思議ね、と私が言うと、彼はおかしそうに笑い、そうねえ不思議ね、と笑いながらグラスにシャンパンを注いでくれた。細長いグラスに黄金色が彩られる。水面でぱちぱちとはじける泡を眺めていると、乾杯しましょ、と嵐がグラスを持ち上げる。彼の、グラスをゆるりと振る所作に色香を感じて私の胸は大きく高鳴った。これは、いけない。一度目を閉じ、ゆっくりと瞬きをすると、練習しておいた笑顔を彼に向けて、そうね乾杯しましょ、と私は頷く。

 彼のグラスと私のグラスがかち合う。気品の高いゴングが、小さく部屋に響いた。

 軽く炙ったバケットにチーズをのせただけの簡単なおつまみなのに、嵐はおいしいおいしいと嬉しそうに食べてくれた。Knightsの飲み会だとこうゆっくり飲めないものね。瞳をとろけさせながら彼がそう言うので、私は首をかしげながら、そうなの?と尋ねる。まあ、大方瀬名先輩が帰りたがったりだとか、寝落ちの朔間、月永先輩は見張ってないとどこかへいっちゃいそうだし、朱桜くんも暴走しそうな事くらい容易に想像はできる。くぴりと喉を鳴らしながらシャンパンを流し込む私に、嵐は概ね予想通りの答えをつらつらと並べて、はあ、と物憂げにため息を吐いた。高校のころからちっとも変わらないのよねェ。そう肩を竦めるが、彼の表情にほんのり喜色が浮かんでいるのを見つけて、私は軽く吹き出す。

「なァに、笑っちゃって!」
「だって嵐、楽しそうなんだもん」
「嫌いではないけど、たまにはゆっくり飲みたいわァ」
「だからここにきてるんでしょ」
「そォね、ふふふ」

 気楽でいいわよね、と彼は嬉しそうにシャンパンを口にする。気楽かあ、と彼の一言にちくりと心を痛めながら私もシャンパンを飲む。口の中ではじけるシャンパンは、少し辛くて、苦い。バケットに手を伸ばすと、あたしももう一つ、と嵐が手を伸ばした。すらりと伸びた指には男性特有の隆起が見て取れて、また、心がとくとくと早鐘を打つ。

「そんなに見ちゃって、照れるわァ」

 彼の一言に我に返った私は、相変わらず長い指、と冗談を交えて笑う。アイドルだもの、と嵐はそういい、そのきれいに整えられた指先で私の作ったいびつなつまみを拾い上げる。さくり、と音を鳴らして租借する彼の無邪気な笑顔を見るたび、切なく胸が悲鳴をあげた。なんで私は嵐を好きになっちゃったんだろうね。お互い、友達でいれたら一番幸せだったのに。じいと顔を見ていると、嵐が、今日のアタシ、そんな綺麗かしら?とひとつウィンク。口に食べかすついてるよ、と私が苦笑すると、彼は端正な眉をぎゅっとひそめて、あらやだ、と口元についたパンをそっとぬぐった。

「ねえコイバナしましょうよー」
「もー、嵐ったらすぐそれ!もう学生じゃないんだから」
「なァに?もしかして浮いた話の一つや二つ、ないの?」
「ないよ」
「勿体ない!大学の友達は?会社は?ほかにもいろいろあるでしょう?」
「わーもう!いいの!」

 毎回話題に上がるのが、これだ。嵐は何かにつけてこうした”甘酸っぱい話”を聞きたがる。いや、女友達はたいていそういった話が好きなのだから不思議ではないのだけど、彼の口からはあまり聞きたくない話題ではある。名前を伏せて喋ってみてもいいのだが、聡い嵐の事だ。言葉と言葉の端切れを組み合わせて、隠していたことまで見抜いてしまうかもしれない。いつものように曖昧な笑顔を浮かべ、そういう嵐はどうなのよ、と私は切り出す。すると嵐は決まって落胆したように大げさに肩を落とし、今日こそ聞けると思ったのに、と嘆息するのだ。

「一体いつになったらお姉ちゃんに話してくれるのかしら」
「でた、嵐のお姉ちゃん!」
「でた、とかひどいわァ!昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって慕ってくれたくせに」
「そうね、お姉ちゃん、私、おいしいお酒が飲みたいなあ」
「やだもう甘えちゃって、お姉ちゃんがついであげるわァ」

 今日も無事この会話は回避できた。ひっそりと胸を撫でおろしながら、注がれるシャンパンを目で追う。蛍光灯の光を反射させながら気泡は上へ上へと昇りはじける。表面ではじける、小さな破裂音に耳を澄ませた。シャンパンがお気に入りなのね、と嵐の心地の良い低い声が、穏やかに耳に届く。私は一度頷いて、グラスをとった。嵐は悪戯にほほ笑みながら、私のグラスに自らのそれを重ねる。かちん、と鈴のような音が響く。なんだかとても切ない音色と、私はシャンパンを口にした。

「嵐お姉ちゃんー膝枕ー!」
「あらあら、凛月ちゃんみたいねェ」

 気分が高揚していたのだろう。私は隣に座る嵐の膝めがけて倒れ込むと、彼は特になんの抵抗も見せずに私を受け入れてくれた。ごつごつした太ももはちっとも柔らかくないけれども、見上げる彼の顔は蛍光灯に照らされて一等神々しい。

「朔間かあ、懐かしいねー!元気?まだ血を欲してる?」
「ふふふ、元気よ、また皆で飲みましょう」

 そうだね、皆で飲もう。そう口にすると、急速に胸の内にある黒靄が膨らんだ。当たり前で、その道を選んだのは私なのに、ああ彼の眼にはやはり、私は友達として映っているのだと。その他大勢として映っているのだと、心の中で反響する。

「どうしたの?泣き上戸?」

 嵐の心配そうに覗き込む視線で、自分が泣いてることに気が付いた。すぐに彼から離れようと思ったのに、体が鉛のように動かない。ごめんね、酔ってるみたい。そう伝えればいいのに、口がうまく回らない。どんどんと涙があふれ出すのに比例して、喉が焼け付くように乾く。この場をごまかす言葉は頭に浮かんでいるのに、口が勝手に、ぽろりと本音をこぼした。

「私は、お姉ちゃんが好き」
「なんで、そんなこと」
「好き、ずっと好きだった、ごめん、本当にごめん」
「なんであやまるの」
 
 嵐が、あの嵐が狼狽している。彼が身を起こすと、膝枕をされていた私は無抵抗に床へ落ちる。しかし頭が床にぶつかる前に彼は私の頭を抱えて、覆いかぶさるように受け止めてくれた。彼の口から私の名前が零れる。その声は明らかに震えていて、ああ、とんでもないことをしでかしたんだと、私はまた涙を溢れさせる。嵐、ごめん。本当にごめん。黙ってようと思ったのに、もう、無理。一つ一つ、私が頑丈に閉じ込めていた気持ちが、あふれる。気持ちがあふれるだけ、涙も、堰を切ったようにあふれて止まらない。嵐が私の名を、もう一度呼ぶ。泣かないで、ああもう。そう彼の言葉とともに、何かが私の頬に落ちてきた。ぽつりと、一雫。
 嵐は驚いたように私を見下ろしながら、ぽろぽろと涙を流していた。彼がゆっくりと私の頭を床に下ろす。しかし、覆いかぶさったまま退こうとはしない。私の真上でぽろぽろと涙を流しながら、名前をただ、呼ぶ。
 彼の瞳に映る私は、涙の屈折できらきらとシャンパンのように光っていた。彼が私の名前を呼ぶたびに、普遍的なそれは輝きを見せて、とても尊い響きを奏でる。心の中は罪悪感でいっぱいだったのに、彼の口からこぼれる、その宝石のような響きに私は酔いしれる。もう、頭の中はごちゃごちゃだ。嵐の瞳からこぼれるシャンパンをただただ受け止めながら、私は壊れたラジオのように、ごめん、ごめんと繰り返し口にした。

 私の頬に落ちた、もはやどちらの涙かわからないそれをぬぐって、嵐はふう、と一息吐いた。もう最悪、泣くなんて、泣くつもりはなかったのに。嵐の漏らす言葉にようやく落ち着いた私も、それはこちらのセリフだと、鼻声交じりに言った。

「慣れないお酒を飲むからねェ、やだわ、もう」
「ほんとやだ、今日のはお互い忘れよう、主に私の失言」

 そんな言葉で帳消しにできるものではないと重々承知だ、でも、そう願わずにはいられなかった。今まで蓋をしてきた気持ち。心の奥底でゆっくりゆっくりと時間をかけて消化してきた気持ち。仕方ないと、あきらめるはずだった願い。それをこんな形でぶちまけてしまって、でもきっと優しい嵐なら、優しいお姉ちゃんならお酒の戯言だと、きっとわかってくれるはず。
 ぐずり、と鼻を鳴らすと、仕方ない子ねェ、と彼は右手を伸ばしてそばにあった数枚ティッシュペーパーをとると私の鼻に押し付けた。そうして自らの涙も指先でぬぐう。嵐の涙にぬれて、きらり、と彼の長細く、ごつごつした指先が光る。

「忘れないわよ」

 一等強い調子で嵐がそう言うので、まあそうだろうね、と私は答えた。嵐はゆっくりと起き上がって、へたりこむように座り込んだ。私も、彼から離れようと身をよじらせると、逃がさない、とでも言うように嵐は私の足をつかんで、無理矢理こちらへと引っ張る。

「流石に、あれだけのこと言われて忘れるほど、あたしは耄碌してないつもりよ」
「じゃあ、きっと今日が最後の晩餐になるね」
「あら?どうしてかしら」
「どうしてって」

 友達同士には戻れないよ、と私が言うと、嵐はぐずり、と一度鼻を鳴らせて私を起き上がらせた。そのまま力いっぱい私を引いて、自らの胸元へと引き込む。突然のことに、小さく悲鳴を上げると、嵐は鼻声交じりに、おバカさんねェ、とつぶやいて、そのまま私を抱きしめた。

「ノーと言われるとでも思ったの?本当に鈍いんだから。好きじゃなきゃ、こうしてわざわざ家に行かないわよ」
「それは友達として?お姉ちゃんとして?」
「よくこんな状況でそんな間抜けな質問ができるわね……」

 嵐は大げさにため息を吐くと、幼子をあやす様に幾度か背中をたたいてくれた。その所作があまりに優しくて柔らかくて、一度は治まっていた涙がまたぽろぽろと流れ出す。洩れる嗚咽に、泣き虫、と彼は笑い、柔らかく、私がずっと眺めていたあの長い指で、ゆっくりと頭の輪郭を撫でてくれた。

「ねえ、やっぱりコイバナをしましょう、あたし、もっと貴方と話したいわ。
 今まで意識しないようにしていた気持ちだとか、そういうのをひっくるめて
 お話ししましょう、時間はたくさんあるわ」
「うん」
「アタシの話も聞いてちょうだい、高校2年からだから、ちょっと長いだろうけど」

 高校2年?私が嵐から身を離して彼の顔を見上げると、嵐は照れたように笑って、お互いずっと臆病だったわね、とつぶやいた。

「ねえ嵐」
「なぁに?」
「……私と、結婚を前提にお付き合いしてください」

 そういうと彼は目をぱちくりと瞬かせて、そしてひどく可笑しそうに吹き出した。

「やだ、それアタシのセリフじゃないの?」
「いいのよ、こんなの、早い者勝ちよ」
「相変わらずの男勝りねェ」

 いいじゃない、女っぽい嵐と足して2で割れば丁度いいわよ。私がそう憎まれ口を叩くと、それもそうね、と嵐は嬉しそうに笑った。そうして私の頬に伝わる涙をそっと拭って

「守らせて、貴方自身を、あたしだけに、ねえ、いいでしょ?」

 そう言った彼の顔は今まで知っているお姉ちゃんではなく、ただ一人、決意に満ちた騎士の顔をしていた。彼の涙をたたえている瞳にはきらきらと煌めく私の姿が投影されている。願わくばその、ロイヤルブルーの瞳にずっと私が映っていますように。彼の頬に流れる涙を拭いながら、私は小さく頷いた。