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月のカクテル

 先輩と、こうやってお酒を交わしはじめてどのくらい経つんでしょうね。私がしみじみと呟くと瀬名先輩は至極どうでも良さそうに眉をぴくりと動かして、ほんっと昔からくだらないことしか言わない、と手前にあるきゅうりの浅漬けをぽりぽりとつまむ。あんまり浸かってない。咀嚼しながら零す言葉に、だってつけたばかりですもん、と私もそれに箸を伸ばす。しゃくりしゃくりと口の中できゅうりを噛み砕きながら瀬名先輩を見る。とりわけ美味しい料理があるわけではない。お酒だってスーパーで売っているありふれたものだ。しかしなぜだろう、ある時を境に瀬名先輩は不定期に私の家を訪ね、こうして晩酌をはじめる。大抵彼が来る日は月が綺麗だから、小窓のカーテンを少し引いて、月光と瀬名先輩を交互に見ながらお酒を飲む。事前に連絡なんてしてくれないからーーそもそも卒業してから連絡先が分からなくなったのもありーー料理はその日冷蔵庫にあった出来合いのものか、大抵次の日のお弁当のおかずを差し出す。昔は何が入ってるかわからない、だとか、カロリー高そう、だとかなにかと食べるものに文句をつけていた彼はさすがに大人となったのか、多少のお小言は零すものの、差し出されたものは全てぺろりと食べ尽くしてくれる。</p>

 その日もいつもと同じ月がよく見える日で、ぽっかりと浮かぶ満月を背景に瀬名先輩は缶ビールを煽っていた。なんか食べた気がしない、と瀬名先輩が漬物をつつきながら文句を言うので、なにかお腹にたまるもの探してきますね、と飲んでいた缶チューハイを机の上に置いて台所へ向かった。一人リビングでビールを飲んでいる先輩は、私の飲んでいた缶を軽く振りながら、こんな甘いの飲むんだ、なんて猫なで声を上げてまじまじとそれを見つめていた。美味しいですよ、と私が言うと、ふうん、と彼は言い、当たり前のように缶チューハイを口にする。そして、あっま、と一言悪態を吐いて、今度は白菜に手を伸ばしていた。彼の口の中できゅっきゅっと白菜が小さくリズムを刻む。甘いのとは合わないねえ、と彼は楽しそうに微笑む。

 さて、何かを作らねばなるまい。そう思い冷蔵庫を開くと丁度、瀬名先輩が来る直前に作っていたニンニク芽の炒め物が目に入った。そういえば明日のお弁当に入れようと思ってたんだっけ。熱々を冷蔵庫にぶちこんだからか、まだほんのりと暖かい。蓋をあけるとソースの香ばしいにおいと、追いかけてくるにんにくの食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。

「お弁当のおかずなので味濃いと思いますが、たべます?にんにく」
「にんにく?」
「食べませんか?」
「食べる」

 不満な声色だったのに。私は思わず、食べるんだ、とぼそりと一言呟いてそれを彼の待つテーブルへ持っていく。どうやら瀬名先輩は気がつかなかったようで、テーブルに置かれたそれを見るや否や、そろりと箸を伸ばす。そうして幾らかの芽とお肉を器用に持ち上げるとそろそろと口へと運んだ。

「くまくんが食べたら卒倒しそう」

 先輩はそう言いながらおかしそうに笑った。確かに凛月くんはにんにくがだめだった。凛月くんだけじゃなくて、朔間先輩もだ。懐かしくてくすくす笑うと、なにが面白いの、と瀬名先輩が私の顔を覗き込む。朔間兄弟が懐かしくって、と素直に白状すると、彼はふうん、とひとつ鼻を鳴らして、元気だよあいつら、とぽつり。そうですか、と私が微笑むと、瀬名先輩は一度ため息を吐くと、この前くまくんが収録でさあ、と言葉を零す。あいつ昼なのに元気でさ。かと思うと夕方にこてーんと寝ちゃって。結局俺とかさくんで交互に背負ってさ。ほんとに成長しないんだから。そう言う瀬名先輩の顔はどこか楽しそうで、私はこみ上げる笑みを隠すことなくへらりと頬を緩める。私の緩みきった顔を見た瀬名先輩は、だらしない顔、と一喝してニンニク芽に手を伸ばす。もきゅもきゅと可愛らしい音を立てながら瀬名先輩は

「ちょっと料理の腕あげた?」

 とじいと皿の料理を眺めて言う。

「味ついたやつを炒めただけです」
「ふうん」

 彼はそう言うと先ほどまで相棒のようにつついていた浅漬けなどには目もくれず、にんにくの芽を食べて、お酒をのんで、ぽつりぽつりとくだをまく。私も料理をついばみながら、チューハイを煽りながら、彼の話に相槌を打つ。ほろ酔いになった瀬名先輩は大声で騒ぐでもなく、時たま持ち歌を口ずさみながら、最近の仕事の話、「ゆうくん」の話、少し饒舌になりながら話す。そうして話のネタがなくなってきた頃、最後のおかずを掬って口に運んだ瀬名先輩は、ふうと一息を吐いてそのままベッドに倒れ込んだ。少し休んでいかれますか?と私が聞くと、彼ははいともいいえとも取れない返事をしてそのまま目を閉じてしまった。
 そういえば、なんで先輩は足を運んでくれるようになったんでしょうね。ふと浮かんだ疑問を口にすると、瀬名先輩はうっすらと目を開けて、はあ?と言葉を吐いて、そんなの、と言葉を切って、そのまま再び目を閉じてしまった。疲れているのだろうな。うとうとと夢の世界へと旅立っていく彼に布団をかけて、洗い物を台所へ運ぶ。音を立てないように流しに置いた食器には食べ残しはひとかけらもない。そういえば最初から、急に押しかけてきた日から一度も、彼は私の料理を残したことがなかった。口ではああだけど、存外瀬名先輩は、律儀だ。

 先輩がようやく起きたのは私の出勤の少し前で、朝のお弁当を詰めてる私の手を乱暴に引くと、バツの悪そうな顔をして、ねえ、と声をかけた。シャワー浴びますか?と私が聞くと、彼はけだるそうに頭を振って、帰る、と一言。ならタクシーを呼びますね、と私が言うと、ありがと、と言葉を短く切って、またベッドに倒れこんでしまった。

「また来る」

 そうして数十分後、やってきたタクシーに颯爽と乗り込むと、瀬名先輩は一言、私に告げて無愛想に扉を閉めた。また来てくれるのか、と私は頭の中でぼんやりと考えつつタクシーが見えなくなるまで頭を下げた。さて、と彼が見えなくなった瞬間に大きく伸びをした。ぱきり、と背中の骨がなる。急いで準備しないと会社に遅刻しちゃう。気が付いたら家を出る時間に近づいており、私は小走りで出勤の準備を始めた。

 その日のお昼、昨日先輩とともに食べたニンニク芽を咀嚼しながら、そういえば先輩これ好きそうだったな。とぼんやりと考えた。一応備蓄しておくべきだろうか。でも前回と一緒のメニューを出したら嫌がられるかな。もきゅもきゅと、昨日と同じ音がなる。口の中にソースと相まったにんにく芽のあおくささに頬が緩む。
 次はいつ会えるのだろうか。連絡すれば済む話なのだろうけど、私は彼の連絡先を知らない。昔の番号は知っているけど、高校時代のものだろうし、きっともう繋がらないだろう。今日は帰りに浅漬けの素を買って帰ろう。ピクルスでもいいかもしれない。日持ちするほうが、きっといい。ぼんやりとそんなことを考えながら昼ご飯を過ごす。

 そうしていくらか日が昇り、陽が沈み、めまぐるしい仕事に追いかけられてへとへとになって家に帰ったある日、控えめに3回、扉がノックされた。わざわざチャイムを鳴らさないで、ノックをする人なんて一人しか知らない。私は慌てて手櫛で髪を整えて訪問者を出迎える。数日ぶりに会う瀬名先輩は、不機嫌そうに顔を歪めながら、寒い、と一言白い息とともに文句を吐き出し、コンビニ袋を私に押し付けずかずかと部屋に入る。そしてまるで自分の部屋のように棚からハンガーを取り出して自身のコートを掛けて、ベッドに倒れ込むと彼はひとつ長い溜息を吐いた。

「相変わらずお疲れですね」
「ほんと、少しは休ませろっつーの」

 袋に入っていたいつもの銘柄のビールを渡すと、彼はゆるりと起き上がり早々にプルタブをつまみあげた。ほらあんたも、と急かされて袋の中身を漁る。甘い、とこの前文句を言っていたチューハイがそこにはあって、ああやはり律儀なひとだと、私は笑う。顔をほころばせながら彼と同じようにプルタブを開けて、お疲れ様です、と一言。お疲れ、と彼は言い、こつり、と互いの缶を合わせる。こちん、と鈍く高い音が鳴らして、お互いそれを口元へ持っていく。

「あ、なにか食べ物準備しますね」
「ん……そういや、あんたさあ」

 台所まで行こうとすると、瀬名先輩が私の右手を引っ張って無理やり振り向かせる。なんですか?と首をかしげると、彼は不機嫌そうに、この前、と言葉を切る。

「この前?」
「この前、変なこといってたでしょ」
「変なこと?」

 私が首をかしげると彼はイライラした調子で、伝わんないかなあ、と悪態を吐いた。変なことですぐ連想できる芸当なんて持ち合わせてないんですけど。私がそう言い返すとむっとしたように瀬名先輩は顔を歪ませて、可愛くないの、とぷいと向こうを向いてしまった。

「なんで来るのか、とか」
「ああ、言った気がします、なんでですか?」
「直球じゃなくて少しは可愛い言い方とかできないの?」
「……私気になるんですけどぉ」
「うざい」

 頑張って表情まで作ったのに先輩は一蹴して私の腕を乱暴に離す。気難しい人だなあ、と私は肩をすくめて、料理準備してきます、とその場から離れようとした。

「理由なんてないけど、来たくてきてるだけだから」

 その声に私が振り返ると、瀬名先輩は顔を真っ赤に染めながら、こっち見んな馬鹿、と手元の缶ビールを流し込んだ。先輩、もう一回。私がそう強請ると、調子にのるな、とおおよそ手加減のないチョップが飛んできて、私は尻尾を巻いて台所に逃げ出した。

「また来るから」

 彼の一言は私の心にぽつりと一雫、暖かな何かを落とす。波紋が広がるようにゆっくりと確実に心の中に喜びが広がり、抑えきれない笑みを零した。

「いつでも、待ってます」

 台所から見える月は今日も綺麗だ。泡のように広がる星空と、横で静かに楽しそうに晩酌をしている瀬名先輩を見つめながら、今日も私は幸せに酔いしれる。