深海先輩の一番のお気に入りの場所を教えてくださいと、尋ねたのは今朝のことだった。事前に先輩に配った「流星隊隊員インタビュー設問集」で、他の部分は全て埋まっていたのに、まるでぽっかりと穴が空いたようにその部分だけ空欄だったのだ。深海先輩は私の唐突な質問と件の書類の内容が合致したらしく、ばつが悪そうに、あー、と歯切れの悪い言葉を零してがっくり肩を落とした。いつもの深海先輩らしからぬ態度に、そんな言いづらい質問でしたか……?と私が尋ねると、そうではないんですけど、とまた言葉を濁す。
「あまり、お勧めはしないですけど一番の場所が答え辛ければ、他のところで濁しても」
「そうではないんですー」
そう言うと深海先輩は深刻そうに眉根を潜ませて、ううん、とまた唸る。部室とか、隊員がいる場所だとか、そういうのを書けばいいのに、と他の隊員の回答を思い浮かべながら、しかし何も言わずにじいと先輩を見つめる。その視線に気がついたのか、深海先輩も思案のために閉じていた目を開いて、じいと私を見つめかえす。水色のなかに私の困惑した姿かぽっかりと浮かんでいる。不思議な目の色をしているなあ、と凝視していると、深海先輩は何か思いついたのか、あっと短く声を上げて、私の右手を取り、ぎゅっと彼の両の手で包む。
「そうです、『いいこと』おもいつきました。てんこうせいさん『ほうかご』きょうしつにきてください」
「え?あ、はい、3のBですよね?」
「そうです、やくそくですよー」
先程失意に満ちた表情をしていたとは思えないほど深海先輩は晴れやかな顔をして、やくそく、と言ったので、私も、やくそく、と復唱した。そうしたら深海先輩は嬉しそうに破顔して、そうです『やくそく』です、とまたぎゅっと私の手を強く握った。
そうして放課後。何をするつもりだろうという疑問は、噴水前まで連れてこられたあたりで嫌な予感にすりかわり、深海先輩がさも当たり前のように噴水の中をじゃぶじゃぶ進んでいく頃合いでは頭の中にこれはまずいという警鐘が鳴り響いていた。次に何を求められているのか、なんとなく予想はできたし、例えばこれが蓮巳先輩に見つかりでもしたらお説教コースまっしぐらということはわかっていた。
「ふ、噴水ということでいいですか?」
「そうなんですけど、そうじゃないんです、てんこうせいさん、こっちですー」
彼は悪びれも無く噴水の中から手招きをする。本気で?と言いたい気持ちを抑えて水面を見つめる。彼が動いた軌跡に沿って、水が揺らめく。もう一度深海先輩を見つめると、微笑みをたたえたまま、こちらをじいと見つめている。
ええい、ままよ!
その場で靴と靴下を脱いだら、むき出しになった指先が冬の空気に触れてぶるりと震える。それをそのまま噴水の中に沈めると、身体を駆け抜ける冷たさと、指先を流れる水流に一度大きく身震いをした。少し先、噴水の中心あたりで沈んでいる深海先輩はそんな私を見つめて、どうですか?とにこにこと笑う。私は曖昧に笑うしかできずにそのまま数歩彼のいる場所まで歩く。足を動かすたびに跳ねる水しぶきが私のすねを濡らしていく。ぴちゃり、ぴちゃり。水が跳ね返るたび、幾度となく身が震えた。寒い。冷たい。すごく帰りたい。
ちょうど彼の真ん前に立った頃合いで、座りますか?とご丁寧に深海先輩が水底を叩く。私は意を決してその場に座り込んだ。水流が私の輪郭に沿って吹き上がる。足先から頭のてっぺんまで突き抜けるような悪寒。ただそれだけだった。水の中は存外暖かいし、波立つ水面も間近に見ると宝石箱のようにきらきらと煌めいている。あまりの世界の違いに、目をぱちくりさせて深海先輩を見つめると、彼は嬉しそうに頷き、両手で水を掬い、放り投げた。滴となって降り注ぐ水滴は水面を叩き、波紋を描く。溢れる雫も波紋も、巻き起こる波も、太陽の光をこれでもかと反射してきらきらと輝いていた。これが、先輩の世界。
「ここが、深海先輩のお気に入りの場所ですか」
「『きれい』でしょう?」
「綺麗、です」
それにここならずうっとぷかぷかしていられます?♪鼻歌まじりに深海先輩は歌い、笑う。
「『ふんすい』でもよかったんですけどね」
「確かに、噴水の一言じゃ伝わらないですよね」
「そうでしょう?」
楽しそうに滴を巻き上げる深海先輩は無邪気に笑う。私もつられて笑みをこぼした。確かにこの、煌めく世界は「ふんすい」の一言で表現するには、少々味気なかった。眼下に広がるきらびやかな世界に、私は目を細めた。綺麗ですね、そう呟くと、深海先輩は、きれいなんです、と嬉しそうにこぼした。
「てんこうせいさんと、みられてよかったです」
また深海先輩は水をすくう。彼の手の中にある水は覗き込む私と深海先輩の顔を鏡のように映し出していた。映し出されている顔はお互い表情を緩めてへらりと笑っており、あまりの同じ表情にお互い顔を見合わせて、笑みをこぼした。
後日、ふんすい、と書かれた書類を深海先輩はしれっと私に手渡した。え、これでいいんですか?と私が首をかしげると、深海先輩は嬉しそうに微笑みながら、これでいいんですーと間延びした返事をした。
「つ、伝わりますかね?あ、でも場所は伝わるか、ううん、これで本当にいいのかな」
「いいんですよ」
「いいんですか?あんなに拘ってらっしゃったのに」
「いいんです」
そう深海先輩は言うと唐突に私の隣に並ぶ。彼を見上げると、先輩は嬉しそうに頬を緩める。それでいいならいいのですが。私が書類に目を落とすと、深海先輩も同じように書類を覗き込んで、ふんすい、の部分を指差した。
「ふたりだけのひみつです、ね」
彼の指がそのまま自身の口元にあたる。しいと、人差し指をたてて、ないしょですよ、と一言。彼の、悪戯に細まった水色の瞳。その中にきらりと煌めく、あの世界を見た気がした。