DropFrame

夜を溶かしたグラスの中で

 それは「泳ぐ」というよりも「漂う」に近い感覚だった。全身の力が抜けた状態で、得体の知れない流れに逆らわずに、ただあるがままに漂う。どこへ向かうかはわからない。ただ一つ確かなことは、今の私から遠ざかっているということだけだった。全身を包む流水の感覚に、これは夢なのかなとぼんやりと思う。先ほどまでそういえば軽音部にお邪魔していたはずなのに、急に水の中に沈められるわけないもんね。高速で流れる空とごうごうと音をたてる川の流れに身を任せながら、どこへ行くのだろうと考えた。夢の中だからどこへ行くもなにもないのだけれど。

ただ何となく、このまま流れてもいいような気がしていた。自暴自棄な類いではなく、どちらかと言えば誰かが助けてくれるだろうという確証のない希望。守沢先輩とか飛んできたりして。ヒーローだし。そんなことを暢気に考えながら空を見上げていると、ごうごう流れる水の音の中に微かな歌声が聞こえたような気がした。音は途切れ途切れに点在していたが次第にそれはか細い線となり曲となりするりと私の耳へと入ってくる。起きなきゃ、と思った。誰に言われるでもなく、あ、起きなきゃいけないなと。水に浸された身体は想像していたよりも重く、腕をあげるのさえ億劫に感じる。顔をしかめながら力一杯腕を上げるとーーとても夢の中とは思えないリアルな痛みが私を襲った。

 随分と重たい瞼をなんとか開いたら、目の前に見えるのは果てしない闇だった。どこにいるかはわからないが、どうやら天井が異常に低いらしい。伸びきらない左の掌には天井であろう冷たい平面の感触。先程の痛みはこれかと、ゆっくりと腕を下ろす。どこか暖かく、しかしとても狭いその空間に、一瞬頭がパニックを起こしかけたが、声を上げる間も無く、天井と思っていたそれはごとりと重量感のある音を立てて、ゆっくりと開いていった。

 緩やかな光とともに、はにかみ顏の朔間先輩が視界に飛び込んでくる。随分と派手な目覚めじゃのう、と彼は事態が飲み込めない私の背中を持ち上げて半ば強引に起き上がらせると、寝心地はどうじゃったか?と首をかしげた。そこでようやく気がつく。ああ、私、棺桶の中で寝ていたのか、と。まだ夢心地な頭で、真っ暗でした、と答えると、彼は眉をひそめて、そうか我輩は慣れているから気がつかなかったのう、と呟いて背中から手を離す。そのまま彼の手は私の少し赤らんだ左手に伸び、なんてことなく持ち上げると、一つキスを落とした。

「怖がらせてすまなかった」

 そうして自分の頬に私の左手をあてがった。暖かいのう、と言葉を添えて。朔間先輩の頬は滑らかで冷たくて、まるで氷の側面を触っているみたいだ。自分が妙に熱を持っている気がして、熱くないですか?と問いかけると彼は嬉しそうに、良い塩梅じゃ、と笑った。

 少しだけ体を倒して朔間先輩に近づくとずるり、と胸元から何かがずれ落ちる。どうやら布団をかけてもらっていたようで、それが落ちたらしい。棺桶って布団完備なのか、と私がまじまじ見つめていると

「ああ、それは寒かろうとワンコがとってきたんじゃ」

と、彼は私の左手を離して代わりに棺桶の布団を幾度か叩いた。暖房は完備されてると言っておるのに、信じてもらえんでのう。そう朔間先輩は嘆き、それでも布団があったほうがないよりも暖かいからのう、と物憂げな顔で呟いた。確かにほんのり暖かかった気がする。布団のせいか、暖房のおかげかわからないけど。

 わからないといえば、未だになぜ私が棺桶で寝る羽目になったかがいまいち思い出せないでいる。覚えているのは葵くんたちを訪ねに軽音部へ行ったら、いつものように楽しそうに吠える大神くんと、それに至極嬉しそうに受け答えする朔間先輩がいて、確か二人がいないからしばらく待たせてもらうことになって、あれ、もしかして寝落ちたってやつかしら。まさかの失態にさっと血の気が引いたが起きてしまったものは仕方ない。おずおずと朔間先輩を見上げて、その、と口火をきると、朔間先輩は、なんじゃ?と微笑みを湛えながら首をかしげた。

「その、いまいち覚えてないのですが、ご迷惑をかけたようで」
「ああ気にするでない、わんこの暴投がすべてじゃ」
「ぼうとう?」
「覚えておらんか?ワンコが投げた本が嬢ちゃんのあたまにこーんと」

 言われてみたら、後頭部が痛い気がする。私が手を伸ばす前に朔間先輩の手が頭に触れて、こぶにはなっておらんようじゃ、という嘆息の声が聞こえた。なによりも外的要因で寝こけていたということがわかり、ほっと胸をなでおろした。そういえば記憶の片隅に、飄々といなす朔間先輩にしびれを切らした大神くんが手当たり次第の物を投げていた、ような。

「保健室でもよかったんじゃが、折角近くに手頃な棺桶があったからのう」
「手頃な棺桶」
「暗さは盲点だったがのう、慣れれば悪くはない、ああ、大丈夫じゃワンコにはきつーくお灸を据えておいたからのう」
「あ、ありがとうございます」
「あと葵くん達には日を改めるように伝えておいた、別段急ぎでもない感じだったしの」
「本当に何から何まで、ありがとうございます」
「なあに、元々ワンコのおいたから始まったことじゃし、それに」

 一つ、言葉を切り、彼の冷たい指が私の頬に触れる。まるで輪郭を撫でるように頬の上で指を滑らして、両手で頬を覆い、暖かいのう、とまた、朔間先輩は言葉をこぼした。先輩の指は冷たいですね、と返すと、彼は嬉しそうに笑って、少しくらい分けてもらおうかのう、と私の左手を引いて、一歩、棺桶に乗り出した。よろける形で私は彼の胸に飛び込んで、身を引くよりも早く朔間先輩は私を抱きしめた。耳から彼の鼓動が聞こえる。体温が解け、溶け合って、輪郭が曖昧になる。胸板に頬を一度擦り付けながら鼻をすんとひとつ鳴らすと、彼は楽しそうにくつくつと笑い声を漏らした。

 柔らかな体温に寄り添いながらふと窓辺を見てみると、揺れるカーテンの隙間から穏やかに月光が降り注いでいた。いつもは喧騒の洪水のようなこの部屋が、夜になると静寂をこうも湛えているのかと思うと、朔間先輩がここを根城にしている理由もわかった気がした。ここの静寂は冷たいだけのものではない。たおやかに、時間だけが満たされている。

「朔間先輩」
「どうした?」
「さっき、歌ってました?」
「おや?ずいぶん前から起きておったようじゃの」
「あ、えっと、聞こえたんです、夢のなかで」
「ゆめのなか」

 彼が不思議そうに繰り返す。ちゃんと聞こえてましたよ、と言うと、聞かれておったか、と彼はいたずらっ子のようにはにかんだ。もう一度歌ってほしかったけど、それをお願いするのは少し欲張りな気がして、朔間先輩の穏やかな体温に体重を重ねながら、徐々にまぶたが重たくなってきていることに気がついた。家に連絡しないと、だとか、いったい今何時なんだろう、とか、考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、どれも重要に思えなくて、ただただ彼の体温に甘えてもう一度身を擦り寄せる。

「私がここで寝たら、朔間先輩はどこで寝るんでしょうね」
「なあに、二人ぐらい入るじゃろ、嬢ちゃんは細っこいしのう」
「絶対無理ですって」
「なら眠くなったら嬢ちゃんを起こすとするか、歌ったら起きてくれるんじゃろう?」

 だから気にすることはない、と朔間先輩は私を優しく引き剥がして、そのまま棺桶の中へと、まるで何かをしまいこむように寝かしつける。本当に起こしてくれるんですか?と意地悪く聞く私に対して、彼はぽんぽんと私のおでこを叩いて、我輩に任せておけ、と笑った。

「ふたは閉めるかえ?」
「……寝付くまで、開けておいてほしいです」
「わかった」

 おやすみなさい、良い夢を。

 彼はそう言って小さく歌を口ずさみながら棺桶の隣に座り込んだ。次第に重くなっていくまぶたと、身体中の力が抜けていく感覚に、ただ身を委ねる。か細い歌を頼りにこんどは夢の中へと落ちていく。まぶたが閉じきる直前、とても穏やかな笑みをした朔間先輩が、見えた気がした。