心残りは君が振り向いてくれなかったことかなあ、なんていつもは冗談みたいに笑うのに、その日に限ってはとてもそう、傷付いたような顔をしていたから、今でも忘れられないんだと思う。卒業式。いつもの飄々とした態度で私をからかってきたくせに、最後はそんな風に言って、この学び舎から巣立っていった。だから、3年の廊下を歩くたび、雑誌で彼の姿を見るたび、大神や乙狩から名前を聞くたびに、真っ先に思い出すのはあの横顔だった。不思議な話でへらへら笑っている顔は飽きるほど見ていたのに、今じゃ輪郭線だけがおぼろげに浮かぶだけで、表情を思い出そうとすればするほどに、それはかき消えてしまう。あの人は本当に私のことが好きだったのだろうか。そして、私も、あの人が好きなのだろうか。奇しくも3?Aにクラス分けされてしまった私は、ふと、本当に油断したときに、窓際で退屈そうに佇む彼の幻影を見てしまう。授業をつまらなさそうに聞く幻影を見てしまう。いや、きっと去年はここにあったのだ。時空をそこだけ切り取ったような、巻き戻しされた映像を見るたび、私はその場に駆け寄り例えば彼がもたれていたであろう手すりを、彼が寝ていたであろう机をそっと指でなぞり、軌跡をたどる。そうして心の中で、ああ、私は彼が好きだったのだ。と、心の中で繰り返しては、取り返しのつかない現実に舌を打つのだ。</p>
愚かしい行為を私に気がつかせたのは、北斗くんだった。彼は私がぼうと――その時も羽風先輩の幻影がいた辺りの窓枠をなぞりながら――校庭を眺めていると、おい、と不躾な声がかけられる。なあに、と振り返ると北斗くんは少し気まずそうに、言葉を選ぶようにしばらく眉根をひそめてじいと私を見つめていた。気遣ってくれている雰囲気はひしひしと伝わっていたので、言いたいことはずばっといっていいよ、と私が言うと、北斗くんはさらに困ったように眉間にしわを寄せた。秋から冬に変わる季節はカラカラに乾いた落ち葉を舞い上げて吹き抜ける。遠くの方でイルミネーションが見える。きらびやかな世界が目の前にあるのに、噴水の中には深海先輩はいないし、軽音部には朔間先輩もいない。(棺桶は凛月くんが嫌々ながらも使っているらしいけど)そしてもちろん、どこからともなく現れて陽気に手を振る羽風先輩もいない。春が来て、夏が来て、秋が来て。年末に向けて街がきらびやかに着飾れるほどに、なんだか置いていかれている気分になる。
「その、俺がどうこう言う立場じゃないが」
北斗くんはこの一年そんな私を無理やり手首を引っ張って連れまわしてくれた。本格的に新設されたプロデュース科の後輩たちに指導をしたり、三年の学校行事、最後の体育祭。ほら行くぞプロテューサー、頑張ってこいよ、一緒に頑張ろう。そんな言葉をかけながら、ずっとずっと手を引いてくれていた。ううん、北斗くんだけじゃなくて、大神だって、乙狩だって、今度ライブあるからこいよあいつらも見にくるから、とか、前メンバーで雑誌のインタビューがあるから引率を頼めないか、だとか。会いたいくせにもう手の届かないアイドルだって自覚したくないから、学内で手一杯だからごめんねなんて見え透いた嘘をついて避けてきた。それでも彼らは私のことを見捨てずにぐいぐいと、手を引いてくれた。
「いつまでそうしてるつもりだ」
だから、こう言われるのもしょうがないだろう。わかっていても、体の奥底から胸から、たくさんのものがこみ上げて目の前がにじむ。ごめんねと、決して泣くまいと思い小さく呟くと、北斗くんは深いため息をついて、私の隣に並んだ。1年前よりも頭一つ分大きくなった彼の姿を、いまじゃもう見上げないと目線が合わない。みんな成長しているのだ。過去にとらわれているのは、私だけ。すんと鼻を鳴らしながら、北斗くん、と呟くと、北斗くんは困ったように私を見た。出会った時よりもずいぶん人間味のある表情をするようになったもんだなあと、私は思った。
「そろそろ忘れなきゃね」
「忘れる必要もないが、足枷となっているなら振り切ることも必要だろう」
「足枷って」
違いないなあ。しかもこれは勝手に自分でつけた枷だ。あのころ、もう少し素直になっていればこうはならなかったのかもしれない。遅すぎる後悔の波に溺れていると、ぺちりと北斗くんに頭を叩かれる。現実に戻って、北斗くんを見上げる。あの頃よりも端正に、そうして大人びた顔つきになった。もう3年生の顔だ。しかしガラスに映る私の顔はどうだ。情けなく、眉なんて下がってしまっていて、あの頃の、先輩方の庇護に甘えていた、あの頃と同じ顔をしていた。
大きな音を立てて教室のドアが乱暴に開く。息せきかけて駆け込んできたのは大神で、ドアの近くにいた伏見くんは眉をひそめて、教室ではお静かにお願いしますよ、と苦言を呈した。伏見くんの後ろの席でお昼寝をしていた凛月くんが、そーだそーだコーギーはもうちょっとおしとやかというものを身につけてだね、と力の抜けた説教を垂れ始めたので、そんなことどうでもいいんだよ!と大神くんが大きな声を上げた。彼は1年経って多少大人しくなったものの、やはり騒がしいのは性分なのか、伏見くんと凛月くんにがるると牙をむいた。
「大神、そうじゃないだろう」
「んあ?そうだそうだおい!」
大神が乱暴に私の肩を引いたので、私は思い切りしかめっ面で振り向いてしまった。とんでもない顔をしていたのだろう。大神はぐっと言葉を詰まらせて、お、怒ってんのかよ、とおそるおそる尋ねる。怒ってはないけどちょっと痛かった、と私が冗談交じりに言うと、悪かったな、と大神は尻尾を垂れる。先輩の下から解き放たれて2年の頃より自由奔放になると思っていた彼はどうやら自律というものを身につけ出したようで、あの頃のように無茶苦茶な言動は少なくなっていた。
「で、なんのようなの?ユニットで問題起こした?それともプロデュース科の子でも泣かした?」
「な、泣かしてねえよ!」
「大丈夫だ、大神が泣かしたら俺が大神を泣かせる」
「それ解決になってねえから!!」
それで平等だろう、と平然に言ってのける乙狩に、私は笑みをこぼす。乙狩くんはなんというか、別方向に成長したなあと思う。初めは二人でUNDEADを続けるときいて心配しかなかったのだが、大丈夫、どうやらうまくやれているようだ。
そんな二人の会話を微笑ましく耳を傾けていると、大神は机に両手をついて、頭を垂れた。辺りの空気にぴんと、緊張の糸が張り巡らされる。大神はそろりと頭を上げて私を見つめる。一瞬迷いのような色が目に浮かんだが、琥珀色の瞳で力強く私を睨むと、はっきりと、告げた。
「羽風先輩がきてる」
「えっ」
血の気がさあと引くのがわかった。心臓がうるさいぐらいにばくばく鳴る。行くのか、行かねえのか。そんな私のことなど御構い無しに、大神は鋭い眼光を私に向けた。心の中まで見透かされているようで、私は目をそらして、行かない、と呟いた。返答が意に沿わなかったのか、お前なあ、と大神はさらに語彙を荒らげるが、乙狩がそんな彼を諌める。
「うじうじ悩んでる暇あったらさっさと面合わせて言いたい事いってきたらいいだろ!」
「おい大神」
「卒業しても!ずっとそうやっていじけてるつもりか!卒業したら俺たちだってお前の」
言い過ぎだ、と乙狩が言葉を遮る。遮られたって続きがわかってしまう。俺たちだってお前の面倒はみれないんだぞ、でしょう。自分が情けなくて悔しくて、本来気遣わなければならないアイドルたちにこんな言葉吐かせて、私は一体何をしているのだろう。
「あ、おい!ちょっと待て!」
私は勢いよく走り出して教室を飛び出した。大神の、乙狩の、そして伏見くんの心配そうに私を呼ぶ声が聞こえる。本当に情けない。でもだめなのだ。あったらきっとわかってしまうから。アイドルと、一般人の距離を、きっとまざまざと見せつけられちゃうから。
情けないことに教室から逃げ出してきた私は、ガーデンテラスまで走って、一つ息を落ち着けた。この時間はユニットの練習時間なのでここにはほとんど人がいない。だからちょっとくらいうずくまって泣いても、きっとばれやしない。先ほどまでの最低な振る舞いを思い出して、私はぎゅっと目をつぶった。本当に消えてしまいたかった。消えたら全て忘れられる。先ほどの失態も、この一年の足踏みも、そして、羽風先輩のことだって。
そう思っていたのに、急に懐かしい声で名前を呼ばれた気がしたから、反射的に振り返ってしまった。
「羽風先輩……?なんで」
「なんでって、会いたかったからかなあ」
もしかしてタイムスリップしてしまったのかもしれない。彼があまりにもあの頃と同じように、同じ調子でそういうから、頭がくらりとした。しかし彼の、随分と大人っぽくなっちゃって、の一言でこれは現実のものと知る。直視したくなくて、どうにか逃げ出したくて、でも逃げ出せなくて。恐る恐る羽風先輩の顔を見上げると、彼はあの頃と同じようなへらへらとした笑顔ーーとはまた違って、卒業式のあの表情とも違う、私の見たことのない顔をしていた。一言で言えば余裕のない顔というか、取り繕わせた笑顔を顔に貼り付けながら、私の3歩前に立っている。が、近づいて来ようとはしない。そして私も近づこうとはしない。これが一年の距離か。微妙な距離感を保ちながら私は口を開く。
「お元気そうでなによりです」
「君もね?まあたまに晃牙くんとかアドニスくんから話は聞くけど」
「もしかして二人に会いにきました?探してきましょうか?」
「やだなあ、さっきも言ったけど、きみに会いに来たんだって」
「なら、近づいてきたらいいんじゃないですか」
「俺からはちょっと」
「なんで」
「多分、逃げられたら立ち直れそうにないからかな」
いつもの冗談かと思った。なら逃げます、なんてひねくれた返答をしようと口を開いたのだが、彼が、卒業式で見せたあの顔でじいと私を見つめるから、用意していた言葉はそのまま逆流して、胸の中へずどんと落ちてしまった。はかぜせんぱい。彼の名前を呼ぶ声が震える。
「初めはちょっとからかってやろうと思ってたんだけどね
どうしてかな、卒業式で君の姿見てもう会えないのかーと思ったら急に寂しくなったし
晃牙くんやアドニスくんから話を聞くたびになんだかもやっとするし
もうちょっと早く会いにこれたらよかったのかもしれないけど、なんとなくふんぎりがつかなくて」
本当に勝手な人だと思う。勝手に土足で私の心に入ってきて、勝手に誘惑して、勝手に卒業して。それでも薫風のような、私の心をかっさらった一陣の風は吹き抜けるどころか、渦を巻いて戻ってきてしまった。本当に勝手で、どうしようもなくて、迷惑な先輩だ。なにが早く会いにこれたらだ。逃げていた私が言えることではないのだが、私だってずっと、ずっと。
「困らせるつもりはなかったんだけどね、こんどこそ捕まえにきたよ、おいで」
「はかぜ、せんぱい」
過去にとらわれているのはきっと、私だけではなく彼もそうだったのだろう。にじむ視界を乱暴に制服の袖でこすり彼に駆け寄ると、俺が泣かしたみたいなんだけど、なんて言葉と同時に抱きしめられた。彼の、あの頃と変わらないどこか海の香りがする香水が、懐かしい羽風先輩の香りが、私を包む。ああ、そうだ、私はここに、ここにありたかったのだ。
「羽風先輩」
なあにと、一等に甘い声が響く。私が見上げると、彼は見たこともないくらい穏やかな笑みを浮かべて、迎えに来たよ、と笑った。あまりに羽風先輩の、そう記憶にいた、羽風先輩の姿そのもので私も情けないくらいへらりと笑いながら、待ってましたよ、と彼の服をぎゅっとつかむ。
遠くの方で6時を告げる鐘の音が聞こえる。ゆっくりと、だが確実に動き出した時間は、ちょっとしょっぱくて、潮の香りがした。