DropFrame

融解温度


 なぜここにいるかよく覚えてないが、私は軽音部の椅子に座って、外を眺めていた。

 雨が歌う。ぽすぽすぽすと、屋根を跳ねる。雨粒が、弾かれる水溜まりが、地面を叩く五月雨が、音をたてて世界に落ちる。騒がしいのに穏やかで、まるでひとつのオーケストラの中にいるような心地でそれに耳を傾けていると、ぎしりとその場にそぐわない 木材が軋む音が部屋に響く。私はそれに背を向けた状態で振り返らずに声をかける。お目覚めですか?それはうんともはいともとれない、言葉にならない音をたてながら大きく欠伸をこぼした。

「雨か」

 雨です、と返すとさらに大きくぎしりと棺桶が音をたてて、そのあとにぺたぺた、と近付く足音。何食わぬ顔で私の隣に立った朔間先輩は大きな欠伸をひとつこぼして、ついてないのう、とひどく眠そうに呟いた。そうしておぼつかない足取りで私の隣の椅子に腰を下ろして、二人で窓の外の雨を見つめた。細長く落ちる雨粒は絶えることなく静かにしとしとと町を濡らしていく。私と朔間先輩の顔が曇った窓ガラスにうつりこむ。ついてないと言う割には困っていない彼の顔はただただ無表情に濡れる世界を見守っていた。

「雨、やみませんね」
「そうじゃの」

 肩に柔らかい体温が降りてくる。窓越しに私の肩に頭をのせ目を細める先輩の姿が見えた。香水だろうか、清涼感のある香りがつんと鼻を通り抜ける。いいにおいですね、と口から零れ出た言葉は、こういうときは香りというんじゃよ、と窘められてしまった。
 長く落ちる雨粒の影。先輩は起きているのか寝ているのか、規則正しい呼吸をしながら、私の肩におさまっている。ぽつぽつ、すうすう。雨音と同じリズムで聞こえる呼吸に、私の心音もとくとくと波長をあわせだす。すべてが同じリズムで、同じ時を刻む。その音が心地よくて目をつぶると世界がゆるりと解けてひとつになる感覚に襲われた。椅子に座っているのにふわふわとした浮遊感。輪郭がぼんやりと空気へ溶け出し、すべてが曖昧になる。柔らかな先輩の髪の毛も、私の体も、雨でさえも、すべて。

 目を開けると曖昧だった感覚が覚醒したようにすべて世界が整然としてしまった。私がひとつため息をつくと、どうしたんじゃ、と紅の双眼がゆっくりと開く。肩の体温は消えない。雨の音もやまない。ひみつです、と先輩の頭に私も頭を傾けると、肌に柔らかい感触と、嬉しそうな、今日は甘えるのう、という声が聞こえた。返事を返さずに私はまた目を閉じる。すべてが融解されて穏やかに世界に流れる、そんな感覚を求めてーー。

 目を開くとそこは軽音部ではなく自分の教室で、頭上には見慣れた天井と、なぜか朔間先輩の顔があった。彼の細くしなやかな手が、優しく私の頭を撫でる。たまに絡まった髪を指で弄ぶものだから、楽しそうですね、と言うと、彼はゆっくりと視線を私の顔へとうつした。

「ずいぶん気持ち良さそうに寝ておったのう、いい夢でも見たのかえ?」
「ううん……」

 私が顔をあげようとすると、彼の掌が頬を優しく包み、自らの膝へと押し戻す。おはようにはまだ早い時間じゃて、そう言ってけらけらと笑う。見れば外は夕日が落ちどっぷりと夜に浸かっていて、煌々と星が輝いていた。
 星?私は外を凝視する。阻害するもののない空には月が、星が、爛々と光を放っている。

「雨、やみました?」

 まだ霞がかった頭で、ぽつりと呟く。朔間先輩は驚いたように目を瞬かせるが、直ぐに優しく目を細めて私の頭を撫でる。

「今日は降っておらんかったはずじゃが、夢のなかでは降っておったのか?」
「うん、そう、ですね」

 頭がうまく働かない。今日の天気はなんだっけ。脳裏に浮かぶのは直前に見たあの、降りしきる窓の情景。雨音のリズムのように、自分の心音がとくりとくりと聞こえる。ぼんやりと先輩の顔を見つめると、心音がさらに加速する。先輩も同じなのだろうか。髪が指に絡まるたび、また新しく指を通すたび、心は踊ってくれるのだろうか。

「先輩と、ひとつになる夢を見ました」

 私の一言に、動揺から先輩の指がぴくりと動く。そうして、一瞬間を置いて、つつつ、と彼の指先は頭から耳へと下がり、私の耳朶をきゅっとつまむ。

「それは、ずいぶんと楽しそうな夢じゃのう……?」

 ぎらりと光る瞳に、とんでもない取り違いが起こっている事を私は悟った。身の危険を感じて勢いよく起き上がり、椅子ごと彼から距離をとる。突然の行動に呆気に取られた先輩は一瞬ぽかんした表情で私を見て、刹那、くすくすとあからさまな態度に笑みをこぼした。

「そ、その、ひとつになるって、肉体的な感じじゃなくてその、なんというか」
「ほう?」

 朔間先輩はひどく楽しそうに自分の膝をとんとんと叩いて戻ってくるように促す、が、流石に戻るわけにもいかず、じりじりと下がりながら彼を見つめた。しばらく先輩は私の方をじいと見つめていたのだが、埒があかないとおもったのだろう。椅子から立ち上がり自分と、私のカバンを引っ掴むと、未だじりじり距離を取る私の方へと歩み寄った。

「まあ丁度いい時間じゃろうて、帰るぞ」
「あっはい」
「なんじゃその気の抜けた返事は」
「いやあのその...…ううん、帰りましょうか」

 当然のようにてを差し出されて、私はその手を当たり前のようにとる。少し冷たい先輩の手は寝起きで火照った身体に丁度よい塩梅で、掌がじんわりと冷えていくのを感じた。

 あ、溶け合ってる。繋がれた掌から互いの体温をうつしあって、輪郭を溶かして、ひとつになる。先輩、と私は声をあげた。朔間先輩は首をかしげながら、どうした?と答える。声をかけたがどう説明していいものか。口を閉ざすと、先輩は困ったように笑いながら、言わなきゃわからんよ、と一言。

「こんな夢でした、とおもって」
「手を繋ぐ夢?」
「うーん、そうじゃないんですけど、なんかこんな風に幸せだなあ、みたいな」
「ほう、なら嬢ちゃんは今幸せだと感じておるのだな?」
「ん?まあそうなるちゃあそうなりますね」

 今更取り繕っても仕方ないので素直に肯定すると、朔間先輩は嬉しそうに口の端を上げた。くつくつと笑い、そうか、そうなんじゃなあと言葉をこぼす。

「まあ我輩としては肉た」
「それ以上はセクハラですけど?」
「手厳しいのう」

 言葉とは裏腹に彼がひどく楽しそうに笑うから、私は握る手の力を少しだけ強めた。誰もいない廊下に、二人の足音だけが響く。
 ほんのりと暖まった先輩の掌と、少しだけ冷えた私の掌の輪郭が穏やかに曖昧になる。解け合う二つのその距離にとくりとくりと心音は速度をあげて、願わくば先輩もそうであればいいと、そう思った。