寂しいのか、と問うたのはアドニスだった。
卒業式という重要な式にも寝坊をかまそうとしていたどうしょうもない吸血鬼野郎を叩き起こし、なんと式をサボろうとしている羽風先輩をアドニスと協力して捕まえ、半強制的に二人を式へと送り出した今朝の出来事など遠い昔に思えた。俺はてめえの母親かよ!といういつもの小言に対しての、もうわんこにこうして世話を焼かれることもないのかのう、という普段なら言わないような朔間零のセンチメンタルな一言を思い出して、大神の心はチクリと痛んむ。
泣きたいわけではない。しかしぽかりとあいてしまった心の穴の中で、飽和された寂しさを寂寞とさ迷いながら、それでも前を向かねばと大神は思う。そう思えたのは隣にいる仲間の存在であったり、同ユニットではないもののまだまだ面倒を見なければならない小生意気な後輩の存在。そうして。
「寂しくなっちゃうねえ」
瞳を潤ませながら卒業生を見送る、彼女の存在のおかげの、他ならなかった。
ひとつの時代が終わったと評するに相応しい。それほどあの学年はこの学園にとって強烈で強大だった。奇人を孕み皇帝を産んだ台風のような世代がいなくなった学園はいつもよりしんと静まり返っていて、まるでこの空間だけが世界から取り残されたような錯覚を覚える。斜陽が支配する教室には大神と転校生の二人きり。昨日の今日で一人になると色々考えてしまうからと、直近の作業ではない衣装繕いをしていた彼女をなんとなく校内を徘徊していた大神が見つけて、なし崩し的に側にいるようになった。音も立たず進む縫い針をぼんやりと眺めながら、大神は昨日のことを思い返す。
結局負け越しかよ、とそれは誰にいうでもなく呟いた言葉だったはずだった。しかし朔間はそんな大神の言葉をきいてからからと笑った。わんこにはまだ負けはせんよ、そうして腕を組み余裕のある笑みを浮かべて、いつでもまた噛みつきにおいでと、彼はいった。アドニスはその言葉をどうやら肯定的に受け取ったらしく、よかったな大神、などど斜め上の言葉を言い、その一言で羽風はアドニスくんは相変わらずだなあとけらけら笑った。そこに漂う空気は寂寥のそれではなく、いつも通りのUNDEADのユニットのもので、それがさらに大神の心をチクリと揺らす。
「さて、わんこよ。後回しにしてきた課題にそろそろ取りかかるべきではないか?」
「ああ?!課題だあ?」
いきなりの耳慣れない言葉に大神は怪訝に顔を歪める。その表情をみて、えっうそまだしらばくれるの、と羽風はひどく驚いたようにわざとらしくたじろぐ。
「だから晃牙くんはだめなんだよねえ」
「なんの話だ言わねえとわかんねえだろうが!」
羽風が盗み見るようにちらりと転校生を見た。視線を辿ったアドニスは合点がいったように頷いて
「ああ、大神があいつのことを好」
「があああああ!今は関係ねえだろそんなこと!」
「大いにあるぞ、わんこよ」
「そうそう、この一年まーったく進展がないとかそれってどうなの?」
ねえ朔間さん、と羽風が問いかけると、朔間は神妙に頷き、嘆かわしい、とぽつりと零した。アイドル科とはいえ現役高校生が恋愛のひとつやふたつこなせないとはねえ。羽風のさらなる追い討ちに頷く朔間。それを見てアドニスが、朔間先輩にもそういう存在がいたのか?と口にしたが、彼は曖昧に微笑むだけで質問には答えてくれなかった。
ついついと器用にボタンを取り付けていく彼女を見て思わず、よく気がつくんだな、という言葉が漏れてしまった。口に出したことに気がついた瞬間大神はとっさに俯く。何をいってるんだ。昨日あんな煽られ方をされたせいなのだろうか。なぜか妙に意識してしまってしかたない。これも全て吸血鬼野郎共のせいだ。卒業してもなお、禍根を残す。聞こえないように小さく舌打ちすると、彼女から、泣いてるの?という全く見当外れな声が聞こえた。泣いてねえ、とだけ告げて大神は頭を回す。
こうして二人でいるタイミングなんて今までも両手では足りない以上にたくさんあったはずだが、何を話していたのかなにも思い出せない。大体いつもこいつとどこであってたっけな?そうだ軽音部の部室。吸血鬼野郎を叩き起こすときにそういえば近くに…...。
そういえば。大神ははたりと思考をとめる。あいつ、よく吸血鬼野郎の隣に立っていた気がする。思い返すシーンでは大抵彼女の隣には朔間零が佇んでいた気がする。もしかしてこれって…。
控えめな、様子をうかがうような彼女の声が聞こえた。落ち込んでるの?落ち込んでねえ、とぶっきらぼうに返して大神はため息を吐く。大体なんで俺様がこんなことで悩まなくてはいけないんだ。やらなくてはいけないことは他にもたくさんある。少なくともこれからのUNDEADはアドニスと共に、あの吸血鬼野郎に吠え面をかかせられるような強力なユニットにしていかなければならない。大体羽風先輩のような色恋沙汰に浮わついている場合ではないのだ。
「羽風先輩さ、」
回想していた相手の名前が彼女から飛び出し、ぴくり、と耳が反応してしまう。彼の--羽風先輩の卒業間際に見せた笑顔が脳裏にちらつく。
ねえプロデューサーと上手くいったら報告ちょうだいね?俺すごく待ってる、というか晃牙くんがその手のことで頑張ってること自体面白いから逐一報告ちょうだいね?
その言葉に乗っかるように朔間も嬉しそうに笑う。我輩にもな。どれわんこ、ほうれんそうをわすれるでないぞ。
アドニスが朔間先輩に相談するのか?と首をもたげる。それは薫くんに任せよう、と朔間。男からの以来は基本的にNGだけどまあ他ならぬ晃牙くんの頼みなら仕方ないね、と羽風。
大神。彼女の呟きのような言葉に大神はちらりとそちらに目をやる。ずいぶん話しかけてくれていたみたいだが完全に上の空だった。どう言い訳しようかと言葉を探していると、彼女はゆるりと腕を伸ばしながら息を吐いた。凝り固まっていたのかぱちりぱちりと骨のなる音がする。
「寂しいね、アンデッドだって大神とアドニス君だけになっちゃったし」
「別に寂しくねえよ」
ようやく反応した言葉に、彼女はぱちくりと目を瞬かせて、苦笑を漏らした。ゆっくりと首を彼女の方に向けると、穏やかな微笑みを称えてこちらを向いている。オレンジ色の夕日が彼女を照らす。温かい橙色に満ちた彼女は、今まで見た中でも一等に綺麗だった。
落ち着け。大神は細く長い息をはいて天井を見上げた。冷静ではない。確実に。彼女は友達。そういう対象で見た覚えはないはずだ。しかしながらもし、もしも彼女に彼氏ができたら?傍らに立つ朔間の姿がぼんやりと思い浮かぶ。いや奴だけではない。可能性は星ほどあるはず。
大神、と自身を呼ぶ声がする。大神は目線をじろりとそちらへ投げる。お前は、と言葉が口から零れ出る。身を少し乗り出すとぎしりと椅子か鳴いた。構わず背もたれに体重をかけながら、彼女をじいとみつめる。次に出てくる言葉が用意されているのになかなか喉元から出てこない。ーー好きなやつとかいんのか。そんな言葉を口のなかで舌打ちと共に噛み砕く。
「よく喋るな」
「黙ったほうがいい?」
「勝手にしろ」
彼女はふむう、と言葉を切って、軟派な笑顔を浮かべた。
「勝手にするよ晃牙くん」
「なんだそのいい方」
「羽風先輩の真似ですけど」
似てたでしょ!と言わんばかりの笑みに、大神はまた大きく舌を打つ。普段ならしょうもねえ、なんて一蹴するのだが、なぜか彼女の紡いだ"羽風"という単語が、癪に障って仕方ない。
「いねえ奴の真似すんなよ」
「……やっぱ寂しいんじゃん」
「……寂しくねえよ、寂しがってんのはお前だろ」
「違いないなあ」
「……馬鹿野郎」
一瞬彼女が見たことのないような悲痛な顔を見せたから、思わず顔を背けてしまった。そのまま彼女に背を向ける形で座り、やはり彼女は寂しいのだろうか、と、そんなことを考える。寂しい。それは仲良くしていた人がいなくなったか?それとも?らしくない思考が巡る。羽風先輩の軟派な気風がうつってしまったのだろうか。
「大神もしっかりしなくちゃね」
「うるせえ」
「来年は私たちの番だからねえ...…でもさあ、こうやって、別れを惜しまれるような人になりたいよね」
「惜しまれたいのかよ」
「そりゃあね」
くすくすと彼女の笑い声が聞こえる。心配せずともトリックスターをはじめ、彼女の周りには別れを惜しんでくれる人ばかりなのだろうが。なんとなくそれが引っ掛かって、大神は、聞こえるか聞こえないか程度の声量で、俺様が別れを惜しんでやるよ、と呟いた。彼女はそんな彼の一人を敏く捉え、一緒に卒業するやつに惜しまれたところで?と煽るように笑った。
「うっせ」
「でも卒業しても連絡は取り合いそうじゃん、私たち同期なんだし」
同期、という言葉に眉根を寄せる。そうだ、彼女にとって自分はただの友達で、それ以上も以下でもないのだ。もどかしい思いに無性に腹が立ち、てめえは鈍感だな、と大神は吐き捨てた。彼女は聞き捨てならない!とばかり口を尖らせて
「さっきよく気がつくなっつったじゃん、前言撤回はやすぎない?」
「うるせえよにぶちん野郎」
「野郎じゃないよガールだよガール、17歳、ピチピチガール!」
「馬鹿じゃねえの」
バカって!と憤慨する彼女に大神はなにも返さずにただただじいと彼女を見つめた。本当ならこの距離感が程好かったはずなのに。望んでしまったのが悪かったのか。焚き付けられたのが問題だったのか。衣装を繕う手も、真剣な眼差しも、カラカラ笑う声も、全て、全て欲しくなったのかも、しれない。
寂しいのか。アドニスの声が反復する。寂しくなんかねえよ。少なくとも俺は。
大神はおもむろに立ち上がり、縫い終わった衣装の精度を確認する彼女の方へ歩き出した。穏やかな日の光に照らされた彼女の顔はいつもより少しだけ大人びて見える。彼女はじいと大神と衣装を交互に見つめて、そっと衣装を机の上に広げて彼を見上げた。大神が机に掌を置く。きしり、と木製の机が鳴く。こいつ唇がさがさじゃねえかと、どうでも良い思考が頭をめぐった。
***
嫌がる素振りも、避ける素振りも見せなかった。ただ彼女はあっけにとられた表情でこちらを見上げていた。思いの外柔らかかった感触と、拒まれるだろうと思っていたのにすんなり唇を合わせてしまった気恥ずかしさに、何で避けねえんだよ、と大神は呟く。彼女はまるで引き留めるかのように大神の手首をつかんで、じいとその丸い瞳を彼に向けた。
「……気がついてたって言ったら?」
彼女の震え混じりの声が、教室に響く。曖昧に揺れる瞳に彼女の狼狽が隠れているような気がして、大神はくすりと笑った。
「とんでもねえ悪女だと思う」
「なにそれ、好意もってる女性にいうセリフ?」
虚勢なのか口の端をあげて笑うが、やはり目は不安に震えているような気がした。困らせたい訳じゃねえんだけど。今更ながら浮かんだ言葉にひとつ舌打ちして、大神は再度彼女を見下ろした。
「……あの、吸血鬼野郎の事が好きかと思ってた」
大神の一言にようやく彼女の震えが止まった。ふふ、と笑みを溢して、なにそれえ、と力なく言葉を漏らす。
「残念ながらはずれでしたねえ」
「いつも隣にいたじゃねえか」
「そりゃあね、朔間先輩の隣にいたらね、君がくるわけじゃないですか」
はあ?!と大神。朔間の傍らで微笑む彼女を思い返す。あれはなんだ、俺が来ることを見越してのそれだったのか。全く勘違いも甚だしい。くそっと言葉を吐き捨てる大神に、彼女は至極嬉しそうに口許にてを当てて笑うので、大神は思わず笑ってんじゃねえよ!と彼が噛みついた。しかし彼女の緩んだ頬は締まることをしらず、穏やかな微笑みをたたえるばかり。
「大神、私ね、君のことが好きだよ」
彼女は言う。おい、待て、その言葉は俺が先に。
「よければ私と、付き合ってください」
ゆるりと解かれた彼女の手を大神は自身の手と重ねて、もう一度彼女の唇にキスを落とした。
「先に言うんじゃねえよ、バカ」
寂しくなんかない。し、寂しがらせる気も毛頭ない。これからまた新しい一年が始まるのだ。願わくばそう、君と共に。
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