息が出来ないと思った。まるで水底の中で鮮やかな水面を見上げているような感覚に似ている。静寂の世界で、周りは真っ暗なのに空だけやけに明るい。眩しいほどに反射する日の光ーーいや、あれは月光なのだろうか。きらきらと妖しく煌めく光に、わたしは呼吸を忘れるほどに目を奪われた。人目を惹く、なんてそんな次元の話ではない。あれは凶器だ。乱暴に、だが静かに目線を奪う。あれは凶器だ。
息苦しくなってきた頃にようやく大きく息を吸うと、身体中に酸素が駆け巡ってくるのがありありとわかった。酸欠でぼうっとする頭の中でもわかるくらい、それほど彼は妖艶で美しい。この世のものではないと、思うほどに。
しかし私がそう感じていることを悟られてはいけない気がした。それがもしも白日の下に晒されることになってしまったら、私はきっと彼の妖に、飲まれてしまう。喰われてしまう。だから絶対に知られてはならないのだ。心の深い所、深海に、沈めなければならない。
***
防災無線が午後五時を知らせる。物悲しいメロディと共に暖かな風が教室にゆるりと吹き込んだ。熱気のなかにほんの少しだけ涼やかな風を感じて、ああもうすぐ秋が来るのかと目を閉じる。さわさわと木の揺れる音。校庭から聴こえる黄色い声。目を開けて穏やかに揺れるカーテンの奥へと潜り込むと、眼下に広がるのは鮮やかな夕焼けとレッスンに勤しむ生徒の姿。
放課後にもなると元気に活動する人影が増えてくる。それは例えばユニットのレッスンだったり、部活だったり、委員会だったり。勉学から解き放たれ、こうして有り余るパワーを発散するこの風景を眺めるのは、私のひそかな楽しみだったりする。
本来なら私もこうして教室ではなく、校庭に降り立ち”プロデューサー”として奔走しなければいけない立場なのだが、今日はそうもいかない。教室の机の上に置いてあるトマトジュースの存在を思い出してふうと息をついた。私は人を待っている。こうして日が傾くまで、やってくるのを待っている。
何気なく校庭を眺めているとにぎやかそうにはしゃいでいた一人が、ふと、空を見上げた。飛行機雲!風に乗ってきた声に私の視線も自然と上を向く。茜色から紺色へと移り変わる、マジックアワーの空に白い橋がまっすぐと延びていた。幻想的な風景にわたしがほう、と息をついていると、下の方から聞き覚えのある、ねえちゃーん!の声。目線をそちらになげると、どうやらRa*bitsが練習をしていたらしい。光くんがこちらに向かってぶんぶんと、腕がちぎれるくらいに全力で手を振っていた。隣にはそれを制しようと慌てる真白くんがいて、目が合うと彼は律儀に私に一礼した。
姉ちゃん居残りなのかよー!光くんの声が響く。バカ声がでかい!同じくらいの声量で真白くんの声も響く。私は二人の有様に苦笑しながら軽く手を振る。
「人を待ってるのー」
私の声に反応したのは二人の後ろで紫之くんと打ち合わせをしていたにーちゃん先輩だった。おおい転校生!という呼びかけに、私はお辞儀で返す。にーちゃん先輩は笑い声混じりに、ともちんみたいになってんぞ!と叫んだ。真白くんは私とにーちゃん先輩を交互に見て、そうして照れたように頭をかいた。かわいいなあ。彼らに聞こえないように、ぽそりとつぶやく。
「放送で呼び掛けてやろうかー?」
「多分放送しても聞かない人なんで大丈夫ですー!」
「聞かないー?校内放送だぞー?」
「私が思うにー!多分ー!あの人ー!耳が遠いんだと思いますー!」
私がそこまで言うと、にーちゃん先輩は慌てたように私を指差し、後ろ!と叫ぶ。後ろ?と素直に振り返ると、そこには渦中の人が、ひどく楽しそうに私を見下ろしていた。思わず漏れたひぃ、の声に、彼ーー朔間零は、人を化け物のように、とひどく不愉快そうに顔をしかめた。(自称吸血鬼のくせに、だ)
背中越しに、姉ちゃん頑張れよー、という間延びした光くんの声と、ほどほどにしてやれよー、というにーちゃん先輩の声が響く。彼らの声援を受けて少し強気になった私は、言われてますけど、と鼻を鳴らしてみるが、耳が遠くてとても聞こえん、と彼は歯牙にもかけない態度でカーテンから私を引きずり出した。
「......耳が遠くて、とかいって、すいませんでした」
ばつが悪くて、ぼそぼそと言葉を吐くと朔間先輩は、その赤い瞳でじいと私を捉えた。夕陽よりもなによりも赤い。深紅。宝石のようなその瞳に見つめられると、心の内を見透かされるようで思わず目をそらしてしまう。いつになっても慣れない。私の心を乱す、赤。
彼は小さく私の名前を呼んで、静かに、カーテンを閉めてくれんか、と言った。眩しくてかなわん。彼がひどく眩しそうに目を細めたから、私は素直にカーテンを引く。しゃっという音とともに夕日が遮断される。心なしか外の喧騒も遠くに聞こえるようだ。朔間先輩はようやく目を開いて、ふうと、息をついた。
「別に気にしておらん」
人心地がついた、とでも言うように彼は私の肩に頭を乗せる。香水だろうか、すこし通り抜けるようなしかしどこか妖しい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。お疲れですか?と私が問うと、少しな、と小さく返事が返ってきた。否定しないんだ。私は彼に手を貸すでもなく、ただそこに佇む。
この人にとって私は止まり木みたいなものだ。好きだから、気に入っているから近くにいるのではない。そういうよりももっと刹那的なものだと私は捉えている。
だから期待してはいけない。手を伸ばしてはいけない。届きそうだから手を伸ばすなんて、おばかがすることだ。手を伸ばしたらその距離に絶望して、落ち込むだけなのだ。水底の魚はこうして、月光が波間に揺られているのを眺めているだけで満足なのだ。満足だと、思わなければならないのだ。
もぞりと彼が身じろいで私の肩に手をかける。そのままゆっくりと手に力を入れて顔をあげた。回復しました?と私が聞くと、朔間先輩は曖昧に笑った。
「嬢ちゃんはやさしいのう、我輩勘違いしてしまいそうじゃ」
「勘違いしそうなのはこっちですよ、すぐこういうことしちゃだめですからね」
「こういうこと、とは?」
「さっきみたいにくっついてくることですよ
女の子はこういうの、勘違いしちゃうんですから」
彼の綺麗な唇が真一文字を結ぶ。一瞬、唇が震える。が、すぐにまたいつもの不敵な笑みを浮かべて、
「”女の子”には、嬢ちゃんは含まれておるのか?」
「……どうでしょうね、含まれないんじゃないでしょうか」
含まれてたまるものか。勘違いしてなるものか。私の中の、小さな私が必死に叫ぶ。本気になったら痛い目を見るなんて、火を見るよりも明らかで。望めないものを望んではいけない。手が届きそうだからといって手を伸ばしてはいけない。手は虚空を切り、こころはずきりと痛み、水底よりもずっとずっと深いところ、きっとそれは水面が見えないところまで落ちてしまいそうだから。
「 」
朔間先輩が私の名前を呼ぶ。私は返事をせずに彼をじっと見据える。彼の唇が何かを告げようとして、飲み込むように口を閉じる。私は何も言わない。ただじっと彼を見つめる。
「――先輩、用事があったんでしょう、さっさと済ませましょう」
「……そうじゃな、”プロデューサー”」
例えば彼がアイドルでなかったり、私が同等な立場だったら。いや、そんな夢物語考えるのもバカバカしい。準備していた書類を机の上で束ねて、ボールペンをひっつかむ。が、手元が狂いボールペンはころころと教室の床を転がった。そうして彼の上履きにこつりとあたる。朔間先輩はそれを拾い上げてボールペンと私を見比べた。私が小走りでボールペンを受け取りに行くと、先輩はぽつりと言葉をこぼす。
「ボールペンは素直なのに」
突然の一言に硬直する私の手を強引に引いてそれを握らせる。いつものような笑みを浮かべるでもない。彼は、私の見たことのないくらい真剣な眼差しで、しっかりと私を捉えていた。
「いつになったら、素直になるのか」
彼の、声が、空気が、私を震わせる。紅の瞳が睨みつけるように、私の姿を捕らえる。酸素とともに吸い込んでしまった彼の空気に反応して、心臓がうるさいくらいに高鳴る。顔がほてる。いきが、できない。
「せんぱ、い」
かろうじて絞り出た私のか細い声は水疱のように浮かんで消えた。水面は私が思うよりももしかしたら、ずっと近くにあるのかもしれない。震える手をしかりと押さえながら、私はひとつ、息を吐いた。