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評価のはなし

 彼は、瀬名泉と言う男はほぼほぼすべての物事を一段階下に見る男である。例えば好き、は嫌いじゃない、だし、嫌いに至っては鬼のように眉間に皺を寄せ、その鷹のような鋭い眼光で相手を睨み付けて無言の圧力。奇跡のような例外はあるけれども、ほぼ全ての事象において彼は最上級の評価を下さない。その態度にある人は恐い、だとか、素直じゃない、だとかを評価付けるが私はそうは思わなかった。
 初めはもちろん「怖い先輩」に違いなかったのだが、幾分か交流を深めてきて、例えば言いすぎた時に見せるバツの悪そうな横顔だとかーーそれでも決して謝らないけれどーー悪くないんじゃない?と笑顔をかみ殺しているようなところだとか、そういうところが非常に愛おしい。

 私は好きだ。瀬名先輩と一緒にいる空間が、時間が、全てが愛おしい。

「あらァ今日も泉ちゃんのところ?」
「鳴上くん」
「鳴上くんなんて他人行儀よォ、お姉ちゃんってよんでちょうだい」
「お姉ちゃんだなんて、私たち同じ歳じゃない!」

 いつもの軽口を笑って去なすと、鳴上くんはぶうと頬を膨らまして、なんだか泉ちゃんに似てきたわね、と悪態をついてきた。そうして両手で私の頬をかるくつまみながら、悪いお口、と横に引っ張る。痛くはないが、こうされると自分の頬肉の厚さがありありとわかってしまうので恥ずかしい。なりゅかみふん、と私が口に出すと鳴上くんはぱっと手を離して、まるでそう、いたずらっ子がおどけるように軽くウィンクを投げてきた。

「だってそんな可愛い頬してるから、触りたくなっちゃうじゃない」
「もう鳴上くんの方がお肌すべすべでしょ?」
「そおねェ……ねえちゃんと化粧水とかつけてる?」
「ちょっとやめよ、まじな話はやめよ」

 急に鳴上くんの声色が変わり私の肌を値踏みするようにまじまじと見つめる。その視線を遮るように私は両手で顔を隠して、態とらしくきゃあえっちい!声を上げる。すると鳴上くんは憤慨したように、やらしいことしてないわよ!と私の頭を軽く小突いた。

「ところで、泉ちゃんからきついこと言われてなァい?あの子口が悪いから」
「んんん、言われてないと言えば嘘になるけど、でもやめられないんですよね」
「健気ねえ」

 愛かしら?と彼の唇が美しく弧を描いた。さあてどうでしょう?と私も同じように微笑む。互いの目線がかち合った瞬間どちらともなく笑いが生まれた。鳴上くんと話すのは楽しい。波長が合う、といえばいいのか、穏やかで暖かい空気が私たちを包むようだ。もちろんこうしてたわいもない話を、この緩やかな空間でするのも私にとって大切な時間に他ならない。
 鳴上くんはおもむろにポケットの中からふたつ、キャンディを取り出して私に渡してくれた。くれるの?と首をかしげると、あげるわ、と。

「手土産ってわけでもないけどお二人でどうぞ」
「わあ!ありがとう!鳴上くんったら優しい!」
「お、ね、え、ちゃ、ん、よ」

 そうして彼は私に一つウィンクを投げた。どうしよう、鳴上くんったら随分可愛い。女の私がドキドキしちゃうくらい。あれ、私はドキドキしてもおかしくないのか。そう、きっと他の男の子もドキドキしちゃうくらいの完璧なウィンクをして、頑張ってね、と背中を押してくれた。私は二つのキャンディを握りしめて、頷いて階段をかけ上がった。

*

 瀬名先輩はいつも教室にいた。ぼうっと外を眺めていることもあれば級友だとかユニットの後輩たちだとかとお話ししていたり、とにかく彼は教室にいた。そして私がちらりと教室を覗くと目ざとくその姿を見つけて、とても嫌な顔をする。しかしその嫌な顔のなかにも喜色が混ざっていることを私は知っている。うぬぼれかもしれないけど。

 いつもならそのまま教室に入っていくところなのだけれど、教室の入り口ではたりと羽風先輩と目が合ってしまった。羽風先輩は私を見るなり目を爛々と輝かせ「転校生ちゃん!」と大きく手を振る。羽風先輩、と返すと彼の手振りは大きくなって、私のところまでひょいひょいとやってきた。

「いやあやっぱり女の子がいると違うね」
「先輩も相変わらずお元気そうで、ユニットの方はどうですか?困りごとはありません?」
「俺の心配してくれるの?やっぱ転校生ちゃんはやさしいなあ、どう?この後街にでも」
「ナンパならよそでやってくれる?そういうのチョ?うざいんだけど」

 銀髪が揺れる。私の腕を掴もうとした羽風先輩に割り込む形で瀬名先輩がやってきた。そうして乱暴に私を自分の背中に追いやる。ここからだと彼の表情は見えないが、羽風先輩の表情から察するに、多分相当、睨まれている。

「ほら、俺に用があるんでしょ」

 そうして瀬名先輩は無理やり私を教室の窓際にある彼の席まで引っ張って座らせた。今度またデートしようね!と大声で叫ぶ羽風先輩にアンタのそういう所本当にチョ?うざぁい!と大音量で返す瀬名先輩。もしかして二人は仲良しなんじゃないだろうか。私が堪えきれず笑いをこぼすと、何笑ってんの、とぎゅうと頬をつねる。容赦のない痛みに、痛いです!と抗議の声を上げると、ばっかじゃないの、と彼はすぐに手を離した。

「あ、特に用はないんですけど」

 はあ?と瀬名先輩。そうして、用がないのになんでくるわけ?本当に超うざぁい、とそっぽを向いてしまった。あ、耳が赤い。思わず見つけてしまった彼の変化に、やはり笑みは止まらない。私は持っていたキャンディをふたつ、机の上で転がして、わけっこしましょ、と一つ彼の方へ滑らした。

 何味?わかんないです貰いものなので。はあアンタ人に貰ったものを俺に渡すわけ?信じらんない!でも鳴上くんからですよ?なるくんから……ふぅん。

 そうして彼はそれを口に含める。あっま。息をするように吐いた悪態に、お嫌いでしたっけ?と私は首をかしげる。嫌いじゃない。彼はそう吐き捨てる。好きなんだ、私は笑う。

「先輩先輩」
「なに」
「先輩私のこと好きですか?」
「はぁ?なに急にそういうのチョ?うざぁい」
「まあまあいいじゃないですか」

 私は瀬名先輩の「嫌いじゃない」の言葉を待っていた。うぬぼれではないけれど、こうして教室まで遊びに来て追い返されないあたり望みはあるんじゃないのかと。正直先ほどかばってもらったので浮かれていたのもある。だから急に彼がだんまりを決め込んだので、あ、もしかしてこれは今言うべきじゃなかったのかも、と大きな後悔の波が押し寄せてきた。とんでもないこと、しでかしてしまった?
 残された飴玉をきゅっとにぎりしめる。パッケージがきしりと音を立てる。やっぱ嘘です、って言わなきゃ。調子に乗ってました、もう一つ飴玉あげるんでどうかって。

 震える声で、なんとか、瀬名先輩、と声をかけようとしたそのとき、がり、と大きな音が聞こえた。

「ゆうくんの次くらいにね」

 飴玉を舐めてなくてよかった。多分衝撃で飲み込んでたから。わたしはひゅっと息を飲み込んで、え?と言葉を吐いた。瀬名先輩は見たこともないようなくらい顔を真っ赤にしていたから、驚いて、頭が真っ白になって。瀬名先輩は照れ隠しなのかまるで嫌いなものを睨みつけるように鋭く私を睨んで

「ほんとうざい!帰れ!」
「え、瀬名先輩、あ、あの」
「え?!転校生ちゃん帰るの?俺と一緒に帰らない?」
「ああもう本当にアンタ空気読めない!」

 羽風先輩に怒鳴り散らす瀬名先輩は多分気づいてない。彼はしっかりと私の腕を掴んで、それも痛いほどしっかりと掴んでいた。ゆうくんの次にってことは、これは、これは。

「最上評価、いただいちゃった……」

 多分私の独り言など彼には届いていない。羽風先輩に向かって憤慨する後ろ姿を見ながら、私は空いている方の手で顔をしかりと覆い隠した。