窓が好きだ。晴れの日は陽光を存分に取り入れられるような、雨の日は窓を滑る雨粒を指でたくさんなぞれるような、そんな窓が私は好きだ。昼は空を流れる雲を見上げても良い。夜はぽつりぽつりと映る街灯に哀愁を感じてもいい。外界と一枚隔てるガラスに指を沿わせて、自分の世界との隔離を感じる。窓越しから見る世界は、少し不自由だが平和でいて、広大だ。
人との距離を図りかねる私は、そういうガラス一枚隔てたくらいの人間関係が非常に心地良かった。遠いのも嫌だし、でも下手に近いのも好ましくない。まるで空気のように、目立たず、飄々と生きてきた。だから、できるだけ人と深くかかわらなかったから、無理やり押し付けられた用事なんかを断るなんて高等技術は持ちあわせていなかった
通気性の悪そうな棺桶が、今私の傍にぽつんと置いてある。いや、ぽつん、という擬音は語弊がある。大人が一人まるまる入れるような大きさの棺桶が、私のそばにどすん、と置いてあった。もちろん「大人が一人まるまる入れる」というのは決して比喩表現ではなく、今もその中には学園の三奇人の一角「朔間零」がそこに眠っているのである。
彼は私が軽音部室へと入ってくるなり、おお嬢ちゃん待っておったぞ、なんて緩く手を振りながら棺桶の蓋を開けた。もちろん私が今日まさに今ここに来るなんてこと、誰にも連絡していない。知っているのは行くように仕向けた北斗くんくらいで、この男が知る由もないのだが、彼はまるで息をするようにこうしておべっかを並べる。
いやあ待ちくたびれた、これからきっとわんこや葵くんたちが来るから、それまで留守番をよろしく頼む。彼はそう言うとそそくさと棺桶の中に入ってしまった。私は慌てて、軽音部に楽譜を取りに来ただけなんで無理です、すぐ戻らないと……と突っぱねても、彼はどこ吹く風。棺桶の中に座り込んで、じいと私を見つめて、よろしく頼むぞ、と有無も言わさぬ声色で引きこもってしまった。
してやられた、と部室内にあった椅子を適当にひっつかんで座る。私があまりにも勢いよく座るものだから椅子はぎいいと大げさなほどの悲鳴をあげた。同時にくつくつというくぐもった笑い声が棺桶の中から聞こえてきた。せりあがる小っ恥ずかしさに、バカ、とだけつぶやいて制服のポケットから携帯を取り出した。遮音性はないのかその棺桶に、バカ。バカ。
携帯の時計はもう5時を指しているというのに、まだ太陽は元気に世界を照らしている。締め切られたカーテンが風に揺れてちらりちらりと陽光を床にこぼす。白熱灯の光とは比べ物にならないくらいの強烈な光がリズミカルにちらりちらりと踊り揺れる。
きっと締め切っているのはこの部屋の主ーー正確には違うがーー朔間先輩が日光を嫌がるからだよね。でも今は寝てるんだから問題はないよね。私は寝ているであろう朔間先輩を起こさないようにぬきあしさしあしで窓へ近づいてカーテンを広げた。途端に入ってくる太陽の光に、うっとよろめいてしまう。予想以上に眩しい。思わずすぐカーテンを閉めてしまった。思った以上に眩しかった。ちょっとびっくりしてしまった。でも日光に驚くなんて私、吸血鬼の仲間入りでもしてしまったのかしら。
もう一度そろりそろりとカーテンを開ける。太陽はまるで部屋の中を塗りつぶすかのように光をぶちまけた。備品の、棺桶の、そして私の影を一層濃く浮かび上がらせる。抜けるような青空に、今日もいい天気なんだなあと、一息。
窓際に先ほどまで座ってきた椅子を持ってきて、今度はきしまないようにゆっくりと座る。私はポケットから携帯を取り出しーー暇になったら携帯をいじるのって手癖になっているきがするーー手慣れた手つきでロックを外す。目の前にある緑のアイコンをタップして、メッセンジャーアプリを起動させた。そこから幾つかの履歴を辿って目標の名前を画面を弾きながら探す。これは北斗くん、凛月くん、あ、あった。「大神くん」のアイコンをタップしてメッセンジャー画面を開く。
「【至急】軽音部室まできてください」
よし、こんなものだろう。ついついと指を滑らし文章を打って、紙飛行機ボタンを押す。ちょっと大げさすぎたかもしれないけど、早く来て欲しいことには嘘はないもの。そうして今までの大神くんとのメッセンジャーの履歴を暇つぶしがてらに眺めていると、携帯がぴこんと声を上げる。
「お前と違って暇じゃねえんだ、大人しく待ってろ」
誰が暇ですって?UNDEADメンバーはなんでこうも勝手な人が多いのかしら!下唇をかみながら、私はついついと指を動かす。
「朔間先輩がきみがくるまで留守番してろと眠りについちゃったんだよ!!!!」
「俺には関係ねえしあんな野郎の言うことを律儀に聞く義理もねえだろ」
「関係あるじゃん!確かに聞かなきゃいけないこともないけどさあ」
「自分でなんとかしろ」
「ひっどい!大神くんの薄情者!早く来てよー!北斗くんとこ行かなきゃいけないんだから」
そこから既読というマークだけを残してぱたりと返信が止んでしまった。お、これが俗にいう既読スルーというやつですか!もう!大神め!でも律儀にすぐ返事を返してくれたことは意外だった。彼ってすごく乱暴な物言いするけど面倒見はいいもんね。しかしこのタイミングで既読スルーはない。突き放されたような気持ちになって、はあ、と私はため息をつく。
確かに彼の言う通り朔間先輩の言うことを大人しく聞く意味は無い。校内だし別に施錠しなくても金目の物は取られないとは思うし。というかそもそも起こしちゃえばいいんじゃないかな?そこまで急ぎの用事ではないものの、こうやることがないと、どうにも。とりあえず当初の目的であった楽譜を棚から取り出して持ってきたファイルに挟む。あとはこれを北斗くんに渡せばミッションコンプリートだ。しかしながら、どうしたものか。
ほんの出来心で、眼下に置かれている棺桶の装飾をそっと撫でる。室内はこんなに暑いのにそれは驚くほどに冷たかった。まるで氷みたい。つつつと指で撫でると思いの外摩擦もなく滑る。自然光に照らされているのに、棺桶の黒は漆黒のように気高く黒いままだ。
朔間先輩。暇です。大神くんこないし、葵くんたちには連絡取りようがないし。ひとりごちで私は続ける。ねえもう夜ですよ、太陽はまだ高いけど。起きる時間ですよ、ほら、そろそろ起きて、ウェイクアップ!朔間先輩ウェイクアップ!あーさー!じゃない夜ですよー!
棺桶の蓋を思い切り叩いてやろうかと思った瞬間に、ぴろん、と間抜けな音を立てて椅子の上に置いていた携帯が震えた。危ない、今私はとんでもないことをしでかそうとしていた。慌てて私は棺桶から手を離してその場をすぐに離れる。そうして携帯を手に取り一息。大神くんがメッセージを返してくれたのかな?そう思いロックを外すと表示には「アドニスくん」の6文字。あれ、アドニスくんにもメッセージおくったっけ?訝しみながらメッセージを開く。
「大神は補習で抜けられないらしい、俺にできることはあるか?」
アドニスくん……!あまりの感動に私は口を手で覆う。ああ、曲者ばかりのUNDEADの中でもやはり彼は良心。私の癒やし。信じてたアドニスくん。きっと大神くんから言伝を受けたのだろう。そう考えるとやはり大神くんも面倒見のいい良い少年に思える。素直じゃないけど、全く素直じゃないけど。
さてどうしようかな、多分大神くんと葵くんを指定したのって軽音部の面々がきたら帰っていいよ、ということに相違はないだろう。ただ留守番をする限りではだれてもいいようなきがする。その点アドニスくんは部活は違えど同じユニットだ。彼にとって信頼たり得る仲間だろう。そうだよ別に留守番するのって私じゃなくてもいいんじゃない。はやる気持ちを抑えてついついと指を滑らす。
「補習!だから忙しそうだったのね、ちょっとお留守番を頼まれてほしいです」
「留守番?」
「えっと、軽音部に行ったら朔間先輩が寝るから留守番よろしくーって言われて
でも私北斗くんのとこ戻らないといけないからどうしようかなって」
「わかった、一先ず向かう、待っていろ」
「ほう、援軍を呼んだか」
「ぎゃあ!」
また色気のない声をだすのうと、いつの間にか背後に回っていた朔間先輩が私の携帯の画面を覗く。とっさに半回転して彼に向かい合わせになると、想像以上の顔の近さに、私はまたぎゃあ、と色気のない声を上げてしまった。朔間先輩は至極けだるそうに髪をかきあげて、私の顔をじいと見つめると、そのままぐいぐい近づいてくる。溢れんばかりの色気。震える声で、私の色気と先輩の色気を足して2で割ればちょうどいいんじゃないでしょうかねえ、と言うと、彼は喉奥でくつくつと笑った。
彼から距離を取ろうと一歩二歩後退していると足にかかとにこつんと固い感触。何だろうと私が見下ろすよりも前に、まるでダンスをするかのように優雅に朔間先輩は足払いをかける。とっさのことにバランスを崩して私は勢い良く椅子に座り込んだ。尾てい骨がびりびりと痛む。ひどい!と言うと、先に安眠を妨げたのは嬢ちゃんだろうと、まだじりじりと近づいてくる。
そうしてパーソナルスペースなどへったくれもないほどに近づいた朔間先輩は私と視線を合わせるかのようにしゃがみこんだ。何をするつもりだ、と私ははらはらしながら彼を見下ろしていたが、朔間先輩はおもむろに私の太ももに顎を乗せると、そのままこてん、と首を傾けた。
「まだ眠い」
「先輩これ一歩間違うとセクハラ、いや、もうセクハラ」
「凛月にはやっておるのじゃろ、なら我輩がこうしても何の問題もなかろう」
「ある!大いにあります!凛月くんならまだしも先輩は、先輩なんですから!」
「ふうん りつ くん」
「……なんですか」
含みのある言い方に私は朔間先輩を睨む。おお怖い怖い、と彼は笑った。私がちょうど窓を背にする形で座っているから上半身が壁となり彼には日光は当たらないが、なぜかくれないの瞳は爛々と輝いているように見えた。
りつくん、と彼は反芻する。その言葉の意味を吟味するかのようにもう一度口の中で転がす。りつ、くん。
「我輩の名前は空で言えるか?」
「どういう意味ですか……?朔間零先輩ですよね言えますよそのくらい」
「そうかそうか」
くつくつと笑う彼の横顔に、何か得体の知れない悪寒が走る。嫌な予感がする。私が顔を歪めると同時に、彼は片手で私の腰を掴んで力一杯引き寄せた。
「我輩のことはいつ下の名前で呼んでくれるんじゃ?」
「はあ?!よよよ呼びませんし!何をいきなり!先輩ですよね?!恐れ多いです!」
「凛月もおぬしよりは年上だったはずじゃが」
「いやでもほら、凛月くんはそれを許せる雰囲気があると言うか」
「同じ血が流れておるのだから、雰囲気も大して違いはあるまい?」
彼はそう言って私の太ももに顔を埋めた。あ、どうしよう無性にどきどきする。凛月くんにするように先輩の髪を恐る恐る梳くと、彼とはまた違った、柔らかな毛並みが私の指の間を通り過ぎていった。先輩は私の腕に合わせるように少し頭を揺らした。それは凛月くんが気持ちの良いときによくする癖のようで、やっぱり兄弟なのだなあとくすくす笑う。
「今日だけですからね……」
「今日だけという割には大盤振る舞いじゃのう」
「凛月くんが好きなんですよ、これ」
「ほお、凛月は転校生によく懐いておるようじゃ」
太陽が傾きだしたのか、窓から刺す陽光がだんだんと橙色へと変わってきた。金色の装飾が太陽の光を反射する。本当に眠かったようで太ももの上の先輩はいつのまにかすうすう寝息を立て始めた。この表情はもしかしてレアなのではないだろうか。普段寝てるとはいえそれは棺桶の中だけだから、こうして外で、無防備な寝顔なんて、滅多に見れないきがする。規則正しく上下する胸にはちきれないほどに心臓が反応する。
ああ、だから嫌なんだよ。朔間先輩も、凛月くんも。こうしてある程度の距離を積極的にぶち壊してくれる。太ももから感じる暖かな先輩の重みと、窓から見える斜陽の美しさに私は嘆息した。夕焼けが似合うなあ。ほんのりオレンジに染まったカッターシャツは、彼の気品をさらに引き立てるように穏やかに色を染めていく。
窓枠はさながら額縁。見上げるこの刹那の空を写し取るための境目。もうそろそろ紺色の幕を下ろそうとする空には淡く小さな星の光がちかりちかりと輝いている。この景色を自分だけの世界で外を見るのが好きだったのに、どうにもこの人にはかなわない。本気で寝入っているのか先ほどまで腰に回された腕は緩く椅子に落ち、落ちないようにか逃さないようにか、もう一方の手は私のスカートを緩く掴んでいた。この体制で寝たら絶対腰悪くするよね。でも動きようがないから、私はしばらくぼうっと空を眺めていた。
いつの間にか通知がきていたのか、ちかちかと携帯がお知らせのランプを点灯している。私は彼を起こさないようにおそるおそるそれを操作する。
新着メッセージ:2件
アドニス君「大丈夫そうだから先帰っとくぞ」
大神くん「いちゃついてんじゃねえよ」
ほぼ同時刻に送られたそれを見て、見られたのか!という小っ恥ずかしい気持ちと、大神君急いで補習終わらせてきてくれたのかな、という喜びで心がぐちゃぐちゃにかき回されてしまった。動揺して少し身じろぐと、ううん、と朔間先輩が声をあげる。慌てて動かないようにしかりと姿勢を正して、二人にメッセージを送る。
「いちゃついてませんし、やっぱ助けて欲しいです」
すうすうと寝息を立てる先輩の横顔に緩やかな夕日がおちる。頬に落ちたひだまりはゆるり上下しながらきらきらと輝いていた。