DropFrame

この気持ちに名前はいらない

 普段宿をとる際は女子部屋と男子部屋という形で2部屋とるようにしているのだが、
それは就寝時の区別というだけで、
就寝するまでは皆互いの部屋を行ったり来たりを繰り返す。
突然勢いよく男子部屋の扉が開いたかと思うと、
ルッツー!という声とともにお転婆が顔を出した。
自分の家でないのによくもこう乱暴に扉を開け閉めできるのだろうか。
ヴェルハルトは乱入してきたシェリルと入れ替わるようにそろりと廊下へ避難した。

 廊下からは他の団体客であろうか、黄色い声がちらほらと聞こえる。
どうやら賑やかを良しとしている宿のようだ。
一先ずはあいつらが騒いでも大丈夫そうな状況に胸をなでおろす。

 そうして、さて、どうしようか。
どうしようも、行くあてなど一つしかないのだけれども。
ヴェルハルトは男子部屋から二つ隣の部屋の前で立ち止まる。
いつも、この瞬間は少々気まずい。
心を鎮めるように一度息を吐いて、できるだけ控えめに扉を二回ノックした。
はあい、という言葉が部屋の中から聞こえて、後に扉が少しだけ開く。
現在、唯一の部屋の主であるマーシアは、ヴェルハルトの顔を見るなり、
小さく笑みをこぼして、また追い出されちゃったの?と首をかしげた。
そうしてドアを半分開いて、どうぞ、と未だに苦い顔をやめない彼を部屋に招き入れた。


***


「あいつらは、底というものがないのか」


 入ってくるなりヴェルハルトは備え付けられた椅子に腰を下ろして
深いため息を吐いた。
今日は暴れるような仕事じゃなかったからエネルギーが有り余ってるんじゃないかしら。
マーシアはヴェルハルトに向かい合う形でベットに腰掛けた。
こうして彼が女子部屋を訪ねてくることは珍しくはない。
大抵部屋で大騒ぎが始まった頃合いに、彼は逃げるようにここへやってくる。

 しかしながら、彼がやってくるということと、
彼と会話に花を咲かせることはイコールではない。
彼は彼のしたいようにここで時間を過ごすし、
それはマーシアも同じでやりたいように時間を過ごす。
静寂に近いこの空間で、大抵響くのはマーシアがページをめくる音だけだ。
今回も例にもれず、マーシアは読みかけていた本をぱらりとめくりはじめる。
きっと向こうが落ち着いた頃合いにそっと出ていくのだろうと、そう思って。

 遠くの方で喧騒が聞こえる。
あれはルッツたちの声なのか、それとも他のお客さんの声なのか。
ふと、マーシアが本から顔をあげてヴェルハルトの方を見ると、
彼も元々宿にあったであろう本をぺらりぺらりとめくっている。
めくってはいるが、読んではいないらしい。
”興味ありません”という態度がありありと出ている横顔に、
マーシアは小さく吹き出した。


「ヴェルハルト」
「……どうした」


 つい、声をかけてしまった。
続ける言葉が見当たらず、ふと浮かんだ、その本面白いの?という
苦し紛れの一言を吐くと、彼はおもしろくない。と一刀両断。
そうでしょうね、顔にかいてあるもの。
途切れてしまった会話の続きを探して頭をぐるぐる回していると、
それ続き読まないのか、と彼の声。
そうね、読もうかしら。とマーシアは返して、またページに目を落とす。

 そうしてしばらくして、また本から顔を上げた。
ヴェルハルトを見ると、どうやら読書を諦めたのかぼんやりと外を見つめていた。
あいにくの曇天で星空は見えないけれども、
薄闇に光る街頭は、それはそれで趣がある気がした。
いつの間にか開いていた窓からは微弱なぬるい風が吹いていて、
時折彼の髪を吹き上げる。

 普段見上げているから、こうして同じ目線に立ったことはないのだけれども、
見上げた時に見える彼の横顔と、今こうして同じ高さで座って見る横顔だと、
ほんのり雰囲気が違う気がした。
どちらがいいというわけではないが、なぜだか別人を見ているようで不思議な気分。
心の奥底がざわざわと、騒ぎ始める。
読みかけているページがある。
本の続きだって気になる。
でも、なぜだろう。
ざわざわ。
なぜ?その答えを、私は、知っている。

 マーシアの熱視線に気づいたのか、ヴェルハルトは眉間にしわを寄せて、
なんだ、とぶっきらぼうに言葉を放つ。


「今日はやけに構うな、なにかあったのか」
「……なんだったか、忘れちゃったわ」


 忘れちゃったなんて、理由なんて初めからないくせに。
夜風に揺れる銀の髪はゆるい時折部屋の光を反射しながら、
きらりきらりと、輝いて見えた。