パンディットがウォンと声を上げた。
何かを言うわけでもなく、ただただひとつ咆哮を上げた。
突然の声にエルクさんは勿論、リーザさんも目を丸くしながら、
どうしたのパンディット?と彼に駆け寄ろうとした。
しかしパンディットは主を避けるように扉の入り口まで堂々と歩き、
まるで通せんぼするようにどっかりと腰を下ろす。
リーザさんとエルクさんは顔を見合わせて、どうしたんだろう?と互いに首をひねった。
しかし、僕は今の咆哮の意味を知っている。
下唇をきゅっと噛んで、フォークを握る手を強めた。
パンディットは言ってるんだ。逃げるなと。自分の言葉で伝えろと。
今のは鼓舞だ。鼓舞の咆哮だ。
太陽がゆっくりと、地平線へと滑り落ちる。
後を追いかけるように藍色の星空が緋色をじわりじわりと侵食していく。
弱々しい月の光を見つめて、もうそんな時間なのね、とリーザさんは呟いた。
そうして僕の方へと向き直り、今日は泊まっていく?と微笑んだ。
僕は首を横に振って、今日は帰ります。と一言だけ伝える。
リーザさんはそう、と残念そうにつぶやき、
エルクさんはせっかくだし泊まってけよ、と僕の頭を大きく撫でた。
そんな彼の態度にお二人の邪魔をするわけには、
なんて少し意地悪な言葉が喉元までせり上がってきたが、
「所長が心配するんです、僕もう子供じゃないのに」
とおどけて笑った。
エルクさんは肩をすくめて、リーザさんは苦笑を漏らして、
それなら仕方ない、と続けて笑った。
本当は泊まろうと思えば泊まれるけど、そこまで野暮ではない。
せっかく再会できたのだから、ここは二人でいさせてあげるべきなのだ。
みんなの様子を見てこないと、とリーザさんは立ち上がり牧場の方へ出て行った。
パンディットも重い腰を上げて大きく伸びをする。
リーザさんの後を追うのかと思ったら、彼は僕の足元へのっしのっしと歩み寄り、
一度鋭い眼光で僕を睨みつけて、足元に丸まった。
ごつり、と彼の頭が僕に当たる。
ごつり、ごつり。
その光景を見てエルクさんが、本当にお前ら仲がいいよな、と笑う。
そうでもないですよ、と僕が言うと
パンディットも同調するようにふん、と大きく鼻を鳴らした。
そうして、しばし、沈黙が流れた。
切り出すならこのタイミングなのにうまく頭の中でまとまってくれない。
文章にならない単語の切れ端だけがもごもごと口の中でうごめく。
不用意に口を開くと出てきそうで、僕は真一文字に唇をしめて、うつむく。
足元のパンディットは急かすでもなく僕を見上げていた。
じいっと。ただただ、じいっと。
僕が顔を上げると、エルクさんは穏やかな目で僕を見ていた。
どうした?と彼は首をかしげる。
「その、」
僕は口を開く。
散り散りになった言葉が、ひとつ、またひとつ、こぼれ落ちる。
「その、」
足元で柔らかななにかがすり寄ってくる感触がした。
頑張れと、言われているような気がして拳を握り締める。
「り、リーザさんを」
「リーザを?」
「し、しあわせにしてあげてください!」
まるで父親のようなセリフだと、言葉に出してそう思った。
一瞬だけ空気が凍り、そうしてエルクさんが吹き出す声と、
足に硬いなにかが当たる感触。
そして聞こえる不満そうなうめき声。
違うだろうと、そうじゃないだろうと、
パンディットは抗議するように僕の足を頭突いてくるし、
エルクさんは、わ、悪いちょっとまってくれと言いながらひいひい笑い声を上げてるし、
押し寄せる後悔の波に、そのままさらわれて消えたい気分だった。
僕は両手と、首をぶんぶん振って、
「ぼ、僕が伝えたかったのはそうじゃなくて……!」
「悪い悪い、伝わってる
そうだよな、テオは、リーザとずっと一緒にいてくれたもんな」
「ほ、本当に分かってるんですか?!」
「わかってるわかってる、あー……そうだよな、うん」
目尻の涙を拭って、エルクさんは穏やかに笑った。
わりいな、心配かけて。大丈夫、ちゃんとするから、今すぐは無理だけど、絶対。
まるで独り言のようにこぼれた言葉を聞いて、
ようやく黒いなにかがほどけていくのを感じた。
パンディットは変わらず不満そうだったけど、僕の表情をちらりと盗み見て、
まあこのへんで勘弁してやるとでもいうように、大きく息をついた。
牧場へ続くドアが開いて、リーザさんが顔を出す。
何楽しそうなことを話してるの?と微笑む彼女に、エルクさんと僕は
「男同士の話だよ、な」
「そうです、ね」
と顔を突き合わせて笑った。