肌を刺すような寒さは久しぶりだった。
寝ぼけ眼で薄い羽織りを掴み、無いよりはましだろうと肩へとかける。
流石に吐息が白い、までもいかないが、
指から伝わる空気の冷たさに身震いをしながらトッシュは襖を開けた。
そうして、眼下に広がる風景に、そっと息を飲んだ。
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「本当に綺麗ですね」
文献では見た事ありますけど、実際に見るのは初めてです。
彼女は非常に”らしい”言葉を並べて、目の前の桜に手を伸ばす。
雪の傘を被った桜は、彼女が触れたほんの小さな振動でほろほろとそれを落とす。
冷たい、とマーシアは笑みを零して隣に佇んでいるヴェルハルトを見上げる。
ヴェルハルトは見た事ある?マーシアの問いかけに
ヴェルハルトは仏頂面をほんの少しだけ崩して、初めてだ。と答える。
そうして気まずそうに目線を桜へと移し、胸の前で組んでいる腕に力を入れて、
綺麗だな、と、本当に、本当に小さく呟いた。
どうやらマーシアには届いていないようだが、俺にははっきりと聞こえてしまった。
にやにやと笑みを浮かべながらトッシュは季節外れの雪を眺める。
やけに寒いと思っていた。
布団から出るのは辛かったし、この年になると季節の変わり目、
気温の変化というのは地味に体に堪える。
しかしそれを乗り越えてもこの景色を眺めていたかった。
稀に起こる季節の悪戯に心を癒されながら、トッシュは自身の腕をさすった。
さすがにもう少し厚い服を着込んできた方が良かったか。
雪の重みで頭を垂れていた枝が突然弾けるように跳ね上がり、
被っていたそれを舞い上げる。
マーシアは落ちていくひときわ大きな雪の塊をとっさに両の手で受け止めた。
掌の温度でほろりと溶けていく雪から、ひとひらの花びらが顔を出す。
なんだか素敵ね。彼女は嬉しそうに笑みをこぼす。
ヴェルハルトはーーほんの少しだけだがーー頬を染めながら、
そうだな、と短く言葉を切った。
あまりの初々しさに、ひとつからかってやろうかとも思ったがぐっと言葉を飲み込む。
若い二人の恋路を邪魔しちゃいけねえな、と思う反面、
相手がエルクとリーザならここで冷やかしの言葉の二つや三つ、
ぼろぼろと口から零れるのだろうと思うと非常に可笑しい。
あの二人は元気だろうか。
まだ、この目の前の二人のようにお互いの距離を測りかねているのだろうか。
ヴェルハルトはおもむろに腕を解いて指先で枝を揺らした。
ぽろぽろと落ちていく氷の塊を見ながら、ぽつりと、呟く。
「こんなに雪をかぶって枯れないものなのか」
マーシアは手のひらにある花びらからヴェルハルトへと視線を移す。
そうして掌の花びらをそっと吹いている風に乗せた。
ひらりと花弁は身を翻して遠くへ飛んでいく。
風でほんのすこし乱れた髪を耳にかけながら、彼女はヴェルハルトに笑いかけた。
「こんなことじゃ枯れないわ、花は、私たちが思っている以上に強いのよ」
『雪桜?なんだか枯れそうだなあ』
『バカねえ、雪くらいじゃ枯れっこないわよ』
『わかんないだろ、大体春に雪なんて降らないだろ』
『それこそわからないじゃない、アークってば本当に頭が固いんだから』
ふと、マーシアの言葉に懐かしい二人の姿が脳裏に浮かぶ。
昔、あれはそうだ。
花見をちゃんとしたことがない、なんてククルのぼやきから始まったんだか。
桜の話になって、それからそう、雪をかむる桜が綺麗という話に繋がったんだ。
ぼんやりと、目の前の二人にアークとククルの面影を重ねる。
確かこいつらと同じくらいの年齢だったよな。
不器用でぶっきらぼうな「彼」と、少しだけ「彼」よりも社交的でおませな「彼女」。
普段は共通点なんて見当たらないはずなのに、
なぜだか妙に重なってしまって、心が小さく軋みをたてる。
「お前らが見たがっていた景色、今ここに広がってんぞ、馬鹿野郎」
ほんのわずかな、口元の空気を震わす程度の声量。
己の吐いた言葉にトッシュははたりと我に返って口元を抑える。
トッシュさん?と、ヴェルハルトの言葉に、
なんでもねえよ、と笑顔を作ってトッシュは答える。
「本当に綺麗ね、シェリルにも見せたかったわ」
「シェリルに……?あいつが、花をみて、喜ぶか?」
「あら、シェリルだって女の子なんだからきっと」
とマーシアが言葉を切って、唇に指を当てる。そうして困ったように眉をひそめながら
「……多分?」
なんて聡い彼女に似合わない言葉を吐いた。
淡い桜色に染められた街は、普段とは違う表情を見せる。
この景色を見せることができたのなら。
幾度となく繰り返した”たられば”の話にトッシュは自嘲の笑みを浮かべた。
考えたって仕方ないことじゃねえか。
それでも俺たちは、前へ進んでいかなくてはならないのだから。
「まあ運良く拝めるかわかんねえけど、来年は全員連れてこいよ、花見でもしようぜ」